小ささの大きさ日誌〜生後7ヶ月目〜
お子が生後8ヶ月になった。加速度的に、時間が流れていくのが速くなっている気がする。先月のまとめ書いたの、このあいだやん。
…と思いながらも、そのまとめを妻のも合わせて読み直すと、やっぱり時間が経ったんだなと。あんなこともこんなことも、1ヶ月前はできていなかった。いまは当たり前な顔でつかまり立ちしているけど、先月はおそるおそるやったんやねぇ。
流れ行く日々でも、そのときどきを味わっていけるように。今月も、お子との時間で感じたことを記してみます。
この1ヶ月で、お子の探索範囲が跳ね上がった。ハイハイのマスター&つかまり立ちの安定化により、寝てるときとご飯食べているとき以外、常に動き回っている気がする。
机のうえにあった僕の水筒を押し倒したかと思えば、お気に入りのチェーンをカチャカチャと振り回し、次の瞬間にはボールを片手にキッチンへの遠征をはじめる。じっとしていることがない。
面白いのは遠征をはじめるとき。マスターしたてのハイハイで、なんの迷いもなく突進していく。ふと止まって、こちらを振り返って「う!」と言ってくることも。「隊長についてこい!」ってことですか。しがない隊員は、何回でもお供しますよ。
その突進のときのキラキラした眼といったら。吸い込まれるような眼をして、真っ直ぐ突き進む。それは突進だけでなく、机の上にあるもの(水筒や携帯やラー油の小瓶など…もう机にはなにも置けない)に手を伸ばすときも同じ。夢中ってこのことか。
いろんなものに夢中になって、どんどんと探索範囲を広げていくお子を見ていると、興味関心って本当に偉大だなと思う。堅く言ってしまったけど、要は「なんやこれ!」ってことなのかも。素直に驚き、素直に手を伸ばす。それに触れたらなにかが身につく…とかではなく、ただただ気になるから突進するし、手を伸ばす。そして夢中になる。
大げさかもしれないけど、この繰り返しで人類は月に降り立ったのでは、とまで思う。「なにこれ、気になる!」に従っていれば、人はおのずと遠くに行けるのかもしれない。
この子が生まれたとき、僕の父が「あなたが生まれたときに読んでいた本です」と『センス・オブ・ワンダー』を贈ってくれた。センス・オブ・ワンダー、不思議さに目を見張ること。いろんなものに「なにこれ!」となること。父からもお子からも、生きていくうえで大切なものを教わっている気がする。
暑くなってきたこともあり、日中のお散歩が難しくなってきた。代わりに、涼しい朝夕にお子を抱っこしながら散歩する習慣がついた。主に、僕とお子で出かけている。貴重な親子ふたり時間。朝の澄んだ空気、夕暮れ前の色味がかった空。田んぼ道をお子を抱っこして、風に吹かれながらふたりで歩く。
いつもの散歩道にお借りしている畑があるので、毎日様子を見に行っている。「大豆が発芽してるで!」とお子にはなしかけながらしゃがむと、芽を覗き込んでいた。さっきまでねむねむだったのに、にこにこしながら。
涼しい時間帯に散歩しよう…と思うのは他の人も同じようで、近所のおじいちゃん・大きなわんちゃんに出会うことも増えた。お子と目を合わせて、「今日はごきげんかな?」と話しかけてくれる。
変わらない日課。この時間が、本当に嬉しい。
お子を抱っこしての散歩はずっとしているのだけれど、お子の「なにこれ!」が高まったことで、ふたりで散歩している感覚になってきた。高く抱き上げたとき、空を背景に笑っている顔を見ると、「生きていきたい」という気持ちが湧いてくる。
抱っこで揺られるのが気持ちいいのか、腕のなかで寝ちゃうときもあるけどね。でも、その重みもおとうさんは嬉しいのです。
いまはまだ抱っこでのお散歩。でも、そのうちおててを繋いでの散歩になり、気がついたらひとりでとてとて歩いているんだろうな。
何度でも忘れてしまう。いまのお子には、もう一生会えないということを。
…この文章を打ちながら、泣きそうになってしまった。何度でも忘れてしまうけど、何度でも思い出そう。
もちろん悩みもたくさんあるけれど、それはお子が直面させてくれた僕の長年の壁でしかなくて。それにぶつかって苦しんだり、壊したり、迂回したりしていくことで、親になっていくのかもしれない。
いまだに“親になった”実感がない。お子はもうとんでもなく可愛いのだけれど、「この天使、我が子なんやって」と妻とふたりで驚き合っている。親になっていくって、どういうことなんだろうとずっと思っていた。
でも、なにか決まった道を通るものではないのかもしれない。お子のおかげで出会ういろんなものが、いままでとは違う僕が生まれていく。それが積み重なっていって、ふと振り返ったときに“親”という像として認識できるのではないか。
この子は生後8ヶ月。僕は父親8ヶ月。同期ですね。いろいろあるけど、一緒にやっていきましょう。