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心を曇りなき眼で。
かすかな光を追いかけるためにーー
生きる意味なんて、ない。そう思っている。人は、いつか死ぬ。なにかを残したとしても、そのなにかもいつか消える。やることなすこと、結局なににも繋がらない。生きる意味なんて、ない。
そこで正面から絶望できたら良かったのだけれど、僕にそんな強さはなかった。なんとか意味を見出そうと、あがき続けてきた。社会を良くするんだとか、誰かのためになることをするんだとか、立派な人間になるんだとか。「生きる意味なんて、ない」という心の声から逃げるように、社会的に意味があるとされていることを望んできた。意味のない生を生きることが怖かった。
でも。耳を塞げば塞ぐほど、心の声は大きくなる。頭のなかにガンガンと響いてくる。その声を聞かずに済むよう、仕事に没頭した。思考をぷつりと切り、目の前の業務をこなした。成果が出る。次の仕事が増える。成果が出る。また仕事が増える。その繰り返しに身を投じていれば、声を無視できる。
…そうすれば生きていけると思っていた。
気がつけば、声は聞こえなくなった。「生きる意味なんて、ない」という声は聞こえない。けれど、同時に。なにも聞こえなくなった。僕の心は、なにも発さなくなってしまった。嬉しいも楽しいも辛いも悲しいも。灰色のセメントでのっぺりと押し固められ、無機質な心になってしまった。感情は見当たらなくなった。なぜか、涙だけは流れていた。
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生きる意味なんて、ない。いまもそう思っている。でも、涙を流した数年前と違って、「生きる意味がない世界で、どうしたら生きていけるのか」を考えるようになった。
意味を見出そうとするあがきとは、少し違う。生きる意味がないことを受け入れ、それでも生きていく道を探す。そんな営み。
灰色の世界を知ったからこそ、人間らしさを味わいたくなったのかもしれない。生きる意味はないと知りながら、生きていく。それって、大きな矛盾だ。合理的ではない。でも、最高に人間らしい。
じゃあ、人間として生きていくって、どういうことなんだろう。いまの僕として生きていくって、どういうことなんだろう。
そこで思い出した言葉がある。
心が命じたことは、誰も止められない
小さいころ、心が命じたことは、誰にも止められなかった。好きなだけ遊んで、好きなだけ寝て。怒られては泣き喚き、ケロッとした顔で遊びに行く。でも、大人と呼ばれる年齢になったいまはどうだろう。他でもない自分自身が、自分の心の命じたことを止めている気がする。
抑えつけている鎖は、常識かもしれない。社会性かもしれないし、責任というものかもしれない。人生を経て獲得してしまった、自分への不信感な場合もあるだろう。
人は、その変化を“成長”と呼ぶのかもしれない。
けれど、「心が命じた通りに生きていく」ことこそが、人間として生きていく、いまの僕として生きていくってことだと思うのだ。
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…なんて格好のいいことを書いたけれど、「心が命じた通りに生きていく」を体現できてはいない。少しずつ日々への違和感は減っているものの、正直まだまだ我慢しているし、常識やら社会性やらに縛られている。
心に従うって、甘いことじゃないから。大変だし、怖いし、難しいし。鎖に身体を差し出すほうが楽だ。
でも、最近。自分の心に対してもっと本気になりたい、と思うようになった。
それは、ここ1ヶ月で出会った人の影響が大きい。
シャッター商店街の小さなビルをまるまる購入して、喫茶店を作ろうとしている人。
農ある風景を、100年後に残すための活動を始めようとしている人。
ワインの勉強をしに、ニュージーランドに留学へ行く人。
「頼まれてもないのにやりたいこと」しかやりたくないんだ、と語りながらクラフトコーラを作った人。
豊かに生きるためのプラットフォームを作る人。
彼ら彼女らの話を聞いていると、共通していることがあった。それは、誰よりも自分が一番楽しんでいる、ということ。社会のためだとか、誰かのためだとか。もちろん、そういった側面は多分にあると思う。けれど、核に据えられているのは、あくまでも「自分自身」だった。いまに向き合い、いまを満たしているように感じた。
眩しかった。我慢にまみれた自分が惨めだった。こうなりたいな、と心から思った。
「生きる意味がない世界で、どうしたら生きていけるのか」の答えに指が触れた気がした。
ようやく見つけた、かすかな光だった。
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青春を味わい続けたい。
お金に生が脅かされる暮らしから抜け出したい。
できることではなく、在り方で繋がりたい。
「気持ちいいねぇ」と伸びをしながら、仲間と語り合う日常をつくりたい。
心から好きだと言える仲間と共に、自分たちの小さな活動を始めたい。
いまはまだ、おぼろげに浮かんでいるだけ。言語化もできていないし、語ることも難しい。具体性には乏しいうえに、すぐに揺らいでしまう。自信なんてない。そっと見ない振りをしたくなる。我慢した方が楽なんだから、と思いそうになる。
でも、それだと僕は生きていけないから。いまを犠牲にしていたら、僕は僕じゃなくなるから。
いつか叶ったらいいな…じゃないんだ。半歩でもいいから、いま動くんだ。怖れながらでも、心が命じたことに向き合うんだ。
かすかな光を追いかけるためにーー
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