かあちゃんの愛をヒシヒシと受ける今日この頃
大学卒業してすぐ滋賀県長浜市に移住して、感じて!考える!好きが見つかる体験教室「ステップラボ」や体験から学びもっと自分が好きになるもう一つの学校「ステップスクール」などを立ち上げ、運営しております、andstepのさわさなです✨
今日は私の挑戦と体験教室をもとに、かあちゃんの話をしていきます。
規格外のわたし
わたしの母の話をしようとすると、避けても通れないのが「規格外であるわたし」の話です。
4人兄弟の2番目として生まれたわたしは、兄弟3番目の弟と7歳も歳が離れているのに加えて、おじいちゃんにヨシヨシしてもらい幼児期を過ごしたことから、根っからのスター気取り気質です。
父の仕事の都合で、小学生になると同時に生まれた京都を離れ東京へ引っ越しました。
入学早々、関西弁で話すわたしは注目の的に…
そこでもチヤホヤしていただき、京都に帰ると「シティガールが帰ってきたぞ」とチヤホヤさせていただき、目立つことが大好きに…
そんなこんなで負けず嫌い、超絶目立ちたがり屋のわたしが出来たわけです。
わたしは、集中力がなく何をしても3日坊主でした。
小1で始めた新体操は嫌で嫌で泣きながら通ったり、幼児期に通っていたピアノは練習が嫌で嫌で言い訳を作り避けて避けて通るほど、どんな習い事もハマりませんでした。
しかし、ここでわたしの人生初ターニングポイントが訪れます。
合唱団との出会いです。
小3で出会い通い始めた地域の合唱団。
初めて見学に行った瞬間に、「ここだ!ここに通いたい!」とピンっときたのを今でも覚えています。
父に、「やりたいのはいいし、新体操をやめることはいい。ただ、新体操をやめてまで合唱をやるならやりきれるだけの覚悟を持ってやれ!」と言葉をいただき、小3ながらに「やってやる🔥」と反抗心剥き出しで決意しました。
いざ入団です。
パート分けをするために先生が声を聞くオーディションで、『大きな古時計』を歌いました。
地声が低く、肝が据わっているわたしは「アルト」というパートに配属されました。
わたしの暗黒時代(荒れていた時代)である小学生・中学生の大半をこの合唱団で過ごしました。
歌は一向に上手くならず、音すらもとれませんし、能力別クラスでは下級生にガンガン抜かされていっていましたが、それでも歌うことが楽しくて歌でなら自分を表現することができたので、どっぷり合唱に浸かっていくことになります。
これは、両親からすると規格外。
だってこれまで何も続かなかったわたしですから、今回も一過性の興味だと思っていたようです。
これまで毎年行っていた家族旅行よりも合唱を優先してみたり、学校行事よりも合唱を優先してみたり、ウィーンの国立歌劇場で歌える機会をゲットしいくと言い出したり、と思ったら音楽学校に行きたいと言い出したり…
両親からするとてんやわんやです。
それでも、毎月月謝を払ってくれ、少し遠い会場の時は車で送り迎えをしてくれ、発表会は全部見にきてくれていました。
直接口に出して応援してくれている訳ではありませんでしたが、それでも応援してくれている気持ちはしっかり伝わってきていましたし、悔しいことがあっても合唱に関しては諦めず前を向くことができたのは、紛れもなく両親の応援があったからです。
両親にとっては、わたしの大学進学も規格外です。
勉強<合唱だったわたしは、「成績なんてどうでもいい!歴史なんて、地図なんていつ使うねん!そんなことするくらいなら譜読み(楽譜を読む)しようぜ!」という偏った考えの持ち主だったため、学校の成績は決して良いとは言い難いものでした。
両親はそんな様子を見ている訳ですから、大学進学なんて、ましてや4大にいくなんて夢にも思わなかったそうです。
行けるもんなら行ってみろ!とこんな具合です。
でも、執着とは怖いもので…
音楽で食べていくことに執着していたわたしは、音楽の専科の先生を目指していたのです。
両親は一過性の興味だくらいで思っていたのかもしれませんし、わたしの頭と能力と実績で行ける音大なんてないと思っていましたから、夢物語だと思われていたのかもしれません。
「いつまで夢見る夢子ちゃんでいるの?」なんて言われちゃうくらい、大口叩いて夢を語っていました…
それでもツテを使い、先生を頼り、音楽の教員免許が取れる大学の指定校推薦が東京の大学でもらえることに!?
しかも、父の仕事がいつ転勤になるかわからないことを考慮してで寮のある大学をGET!
両親はまたまた規格外。
しかし、人生そう簡単には行きません。
祖母の体調不良で誰か京都に。
ちょうど同時期に祖母が体調を崩し、誰か看病をしないと…
あ!さなが大学進学だぞ!
よし、京都に行こう。
こんな簡単には言っていませんが、ギュギュギュッとまとめると良いタイミングなので京都にきました。
ここは規格外が功を奏した出来事ですね😂
一番最後は一番直近の話です。
え!?教員は?事件。
多額の授業料を両親が払ってくれ、大学で小学校と特別支援学校の教員免許を取得しました。
「絶対先生になる!」「先生になって、子供たちが幸せに生きていけるように教育をするんだ!」
大学1年生になった当初から熱い想いで教育と向き合いました。
1人で指導案を書いては友達を集めて模擬授業をし、フィードバックをもらう研究授業をしたり、学校外の学びの場でバイトやインターンをしたりするくらい、教育が好きで、子供を幸せにしたい、子供と関わる全ての人を教育で幸せにしたいと意気込んでしました。
そんな矢先、コロナが流行り熱い想いをぶつける先がなくなったわたしは、uniqueという教育団体を立ち上げます。
一人一人のuniqueがイキイキする社会を作りたい!
そんなビジョンを掲げ活動をしておりました。
uniqueでたくさんの方と出会い、日本中・国境を超えた方々と教育について、未来について語り、考え…
そうこうしているうちに、学校の現場に求められる仕事と自分の実現したい教育の形のギャップを感じることになるのです。
あ、わたしは学校の先生がやりたいんじゃない。
子供たちを幸せに、欲を言えば子供たちの周りの家族まで丸っと幸せにしたい。
そのためには、各教育現場が争っていてはダメだ!
みんなで手を繋いで、パートナーとして教育を盛り上げたいんだ!
そんな想いが強くなっていき、andstepを中井と立ち上げました。
andstepの活動の中で素敵なご縁を頂戴し、今は長浜にいます。
これが一番でかい規格外。
えぇ、学校の先生になるんじゃ…
安定している公務員のレールを一気に脱線し、起業の道へ。
しかも稼ぎづらい教育事業!?
両親からすると胃がキリキリするような出来事です。
ふたつ返事までとはいかなかったものの、2年かけて両親に納得してもらい、今では一番の応援者です。
こんなに愛され育ったわたしですから、人の愛には弱いのです。
教育に関わると愛をヒシヒシ感じる
体験教室に通ってくれている子の中には、どんな習い事を進めて通いたがらなかった子や、お友達とのコミュニケーションに難しさを抱えている子など、ミッションを持っている子もいます。
また、親御さんとのコミュニケーションは必須ですから、どのようなミッションを持っているか、体験教室での様子はどうだったかなど、細かく細かくコミュニケーションを取らせていただいております。
ここで感じるのが、「かあちゃんの愛」です。
普段は長浜で開講しているステップラボですが、彦根から毎週通ってくれている子もいます。
車で30分かかる道のりを、朝9時に間に合うように送ってくださり16時に間に合うようにお迎えに来てくださいます。
子供の笑顔のためならと、嫌な顔一つせず通わせてくれています。
美味しそうなお弁当を作って。
愛ですね…
教育は目に見えるものではありません。
コーヒーならステッカーなら目に見えますから、お金を払って「買う」ことに納得はしやすいですが、教育は目に見えません。
「今教育に力を入れることでこの子の未来が少しでも明るくなれば」という温かい愛が詰まった投資のようなものです。
わたしたちは大切なお子様の今と未来をお預かりさせていただいているのです。
かあちゃんの愛は深くて温かいです。
子供たちが安心安全に楽しく学ぶことができる場づくりをこれからもおこなっていこうと、毎度毎度思わせていただいております。
しっかり言語しておこうということでnoteを書きました。
最後までお読みいただきありがとうございます😊
規格外のわたしは規格外を貫きながら、毎日ハッピーに過ごしています✨
たくさんの方の愛を頂戴しながら。
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