妄想爺のとんでも史観 (19) サンカ
妄想爺のとんでも史観 (19)
サンカ
中国地方の山間部。60年くらい前まで ホエト と呼ばれる人たちがいました。大人と共に子供もいました。
その姿は汚れ、乞食の様でした。私が幼い頃、実家にも来ていたのを覚えています。
川で捕まえた魚を干して、草に数匹通したものや、竹細工の籠や手蓑(てみ)を持ち、お米や畑から採れるものと交換して欲しいと言って来ていたそうです。
家の裏の勝手口の先で、土下座し頭を地面に着け「竹を切らせてください。籠やそうけを差し上げます。」という人もいたそうです。
明治初頭から昭和30年頃までの間、山を降り麓の住民たちと暮らす様にとの行政指導があり移り住んだと、後から聞きました。
部外者、外来者、清潔でない者たち、違う言葉を話し風習も違い、協力し合おうにも拒絶される事もあったらしいです。
当然の事、双方が警戒します。不愉快になり、声を荒げる事もあるでしょう。受け入れる前から、どうせ来ないからと面倒臭がることもあったでしょう。
「差〇はいけません。すべて受け入れましょう。」と、学校教育も始まりました。
住井すゑと言う方が著作した小説も話題になり、映画も作られ、学校で上映されました。
しかしこの小説や映画が、ホエト と呼ばれる人たちの事を題材にしていたかどうか、分かりません。獣を扱う人とも聞きました。隣国からの移住者、帰国せず住み続けた外国籍の方々と同じに見えたり、全く別のモノと思えたり、良く分かりませんでした。今でも分かりません。
当事者の方々とは別に、ビジネスとして活動していらっしゃる方々が【混乱させているなぁ~】と個人的には思うくらいです。
そのホエト。『「山窩」 -サンカ-農耕を営まず、住居を定めず、山間を生活の場として移動する人々をいう。 山家、山稼、散家などとも書く。』らしいのです。
日本の全国各地に居たらしく、東北や関東の方々は丹後の山の奥に一年か数年、一生に一度、特別な修行の為出掛けていたと聞きました。
一部の説に、”出雲族の末裔”と言われるものがあります。出雲国譲りの際に、新体制に祀ろわず山の民となった人々。独特の言語を話し、文字を持たず独自の口伝で語り継いでいたそうです。
「出雲」と呼ばれる地域が何故、そう呼ばれるようになったかの理由の一つに、
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)めに 八重垣造る その八重垣を』
と言う有名な歌があります。
スサノオがクシナダ姫と須賀の地に住まいを定めた時に歌った日本最古の和歌と言われています。
やくもたつ いづもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを
この歌を、サンカの言葉で解釈すると、ヤクモ(暴漢)断つ。平和を芽吹く法律。婦女手込めに掟を制定しこの掟をこの守る憲法。「一夫一婦」の掟(やえがき) となるんだそうです。
良く分かりません。
出雲族はスサノオ族に侵略された。とも語っているそうです。
出雲はスサノオによって、暴れる河川(八岐大蛇)を制し大穀倉地帯になったと以前話しました。
真逆の事のようですね。本当の所はどうだったんでしょうか?
以前の暮らし方や生き方を貫こうとした人々は追いやられ、強いリーダーの元に穀物栽培に突き進んだ人々とでは、受け取り方が違って当たり前かもしれません。
ちなみに”ホエト”は、吠える人から来たらしいのです。遠方の仲間との情報伝達やコミュニケーションは、犬とか狼とかの泣き声を模して取っていたのかもしれません。
独特の言語と言うくらいですから、何を言ってるのか分からないし、恨みを語り継ぐ人と言うなら、怒号もそう聞こえたのかも。
これが、とんでも説たる所以です。
語り継ぐ事で内容が変わった部分もあるでしょう。
立場立場で答えが変わる事もあるでしょう。
そう言う事にしてください。
そうそう、シュメール語で『八雲立つ』を現代語訳するとまた違う解釈が出来そうです。
どなたか興味のある方、、、、なさいませんか?
ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。