ガラスとタオル /短編小説
私はガラスの内側にいて、彼は外側にいた。
コーヒーを飲みながら、さっき買ったばかりの文庫本を読んでいた私の、ガラスをへだててすぐ目の前、二つしかないテラス席の一つに彼は座った。
待ち合わせでもしていたのか、息を切らしてやってきた彼は、まだ誰もそこにいないのを確認すると、ほっと息を吐き、メニュー表を手に中にいた店員に声をかけた。
「すみません」
と低く優しい声が、開いたドアを通って、こちらにも届く。注文を終えると、ひと心地ついたように座った。
12月の都内らしい煌びやかな雰囲気でかき消されてしまいそうだけれど、もう夜の入り口の時間帯。相当に冷え込んできているはずだが、彼の額には汗が浮いている。
ウールのジャケットの内側に着たシャツの首元を緩める。それから、柔らかく厚みのあるチャコールグレイのタオルハンカチを取り出して丁寧に広げ、顔を一度、ぽすっとそこにうずめる。
目の端でその所作をとらえた私は、知らない人だというのに、吸い込まれるように彼を眺めた。
気持ちよさそうに顔を上げた彼は、そのタオルハンカチをもう一度折りたたみなおし、今度は、ゆっくり何度も額を往復させる。
こんなに近くにいるのに、ガラス一枚あるだけで、彼は私の視線に気づかない。
上品で、とても無防備だ。
彼の前に、レモネードソーダが運ばれてきた。
この店の名物で、メニューの一番上に書かれていたもの。イルミネーションを反射し、キラキラと輝くそれを、彼は一気に飲み干した。最後にあのハンカチを取り出し、先ほどとは違う面に折り直して、口元を拭う。
そうして、キョロキョロと、目の前の道にできる限り目を凝らし、やがて俯いた。
待ち人は、まだ来ないようだ。
私はその一部始終を、ガラス窓の内側から見ていた。
あたたかそうな厚みのある身体、
人がよさそうな柔和な顔つき、
嘘がつけなそうにひっきりなしに流れ出てくる汗。
こんな人と結婚できていたら、
幸せになれたんだろうか。私も。
自分って本当にいやな奴だと思いながら、
結婚生活が3年で終わってしまった、元夫と比べてしまう。
元夫とは街コンで出会った。
2歳年上のセールスマン。背が高く、声の大きな男だった。
酒を飲んで話すぶんには、気さくで話がうまくて、楽しかった。だから、付き合い始めた。勤め先は名の知れた会社で、なかなかの優良株だと思ったし、私は3年ほど彼氏さえできないまま、気づけば30歳を越えていた。これを逃したら次はないかもしれない。そう思って急いだ結婚だった。
分かってる。それがいけなかった。
大きな声で笑いながら、高圧的なことを言う。
論理を並べ立て、どんどん壁際まで押いつめる。
そんな夫に、嫌気がさしてしまった。
その笑顔が、声が、ダメになってしまった。
子どももいないし早いうちにと、離婚に進むのはあっという間だった。一方で、事務的な手続きと、互いにゆずらぬやりとりは、思った以上にもつれにもつれ、やっとこの秋に離婚を終えたのだった。
結局、一緒に住んでいたマンションも、家具も、向こうの方が稼いでいたという主張に押し負けて、ほとんどを相手に渡すことになった。
とにかく終わった。
終わればもっと、気持ちよく、羽が伸びるかと思っていた。
けれど、自分を世間につないでいた糸が一本切れただけだ。とも思ってしまう。手放しで喜ぶ気持ちにはなれない。世間の目や声に、無自覚ではいられない自分の性格を、よくよく分かっている。
結局、何年かすればまたすぐに絡め取られてしまうんだ、私みたいな人間は。
わあ、と小さな歓声が、ガラスの外側から耳に届いた。ガラスの向こうに目をこらす。
雪がちら、ちらと、落ちてくるところだった。
冷えると思ったけれど、雪、か。
好きな人や親しい友と一緒の夜であれば、夢のような光景だろう。前の通りを行き交う人たちは、手を取り合って空を眺めている。
この瞬間、私の気持ちは静かだった。
解放的、というほどの快さはない。無関心なわけでも、そう装っているわけでもない。
ただ、自分でも意外なほど、静かなのだった。
今日は12月24日。クリスマスイブ。
一人きりでいることで、孤独の底に沈み込んでしまうんじゃないかと思っていた。
越してきたばかりで、冷たく、よそよそしく、ほとんど物がない1Kの部屋。あんな場所に一人でいたら、どうにかなってしまうんじゃないかと思って、このカフェまでふらふらとやって来たのだった。
だけど、大丈夫だ。
この先は、どうなるか分からない。
でも、少なくとも、今は。
私の心は静かに、ここに一人でいる自分を受け止めていた。
華やかなクリスマスソングも、賑やかな人々の声も、遠くで響く。
舞い落ちる雪は、ただ、美しかった。
一人きりで揺らがずに、美しい雪を眺めることができている自分を、離れたところから見ている自分がいる。なかなかいいんじゃないか、と思えた。
ふと見ると、私と同じように、一人きりでいるガラスの向こう側の彼は、雪降る光景を茫然と眺めていた。
エプロンをつけたカフェの店員がテラスに出て、
「雪も降ってきましたし、冷えるので、中へどうぞ」
と彼に声をかける。
「いえ、もうドリンクも飲み切ってしまいましたし」
と彼は恐縮する。
それでも、
「大丈夫ですよ。お入りになってください」
と気づかう店員に、弱ったなぁと応じながら、彼が初めてガラスの内側をちらりと振り返った。
目が合って、私は軽く会釈する。彼もおずおずとおじきを返した。
私はもう一度、左手に持った文庫本に、視線を戻す。
その時、カップの中のコーヒーが、ぴしゃっと撥ねた。手元を見ずに、右手で持ち上げたカップの中身が、勢いあまって白いニットに点々と飛び散った。
やってしまった。
せっかく悪くない気分だったのに。
ピンと美しく張っていた気分に、
くしゃくしゃと皺が寄って、縮んでいく。
「これ、よかったら」
見ると、いつの間にか、店の中に入ってきた彼が隣に立っていた。
差し出されたのは、長四角の赤い箱に入ったプレゼント。
え?と怪訝に見返す私に、彼はあわてて、
「あ、違うんです」
と言う。
そうして、プレゼントの包装を丁寧にはぎ取り、中身を私に渡しながら、ドラマのリテイクみたいに同じセリフを言い直した。
「これ、よかったら」
彼が手に持っていたのは、
ふんわり厚ぼったい、チャコールグレイのフェイスタオル。
さきほど、彼が額をぬぐっていたハンカチタオルと同じ生地だけれど、一回り大きなものだった。
「今日会う人に渡そうと思ってたんですけど、来ないみたいだから」
「タオル?」
「ええ。マッチングアプリではじめて会う約束をしたんです。せっかくクリスマスイブだし、手ぶらなのもなぁって。でも、初めて会う人に身につけるものっていうのも重いかなぁって、迷って」
「それで、プレゼントに、タオル」
私は神妙な顔つきで言う。
「センス、ないですか?」
彼は心配そうに、子熊のようなつぶらな瞳を私に向ける。ふふっと笑って、私は言う。
「私は、いいと思います」
「よかった。好きなんですよ、このタオル。すごくふっくら柔らかくて」
「ほんとね」
私はつぶやいて、右手でそのタオルの感触を確かめる。
「ありがとう。いただいて、いいんですか?」
「うん、うちにはもう、たくさんありますから」
「じゃあ、遠慮なく」
私は受け取るとすぐ、厚ぼったいタオルに、
ぽすっと顔をうずめた。
大きく息を吸いながら、心の内で10まで数える。
優しく包み込むような心地。真新しく、人工的なにおいの奥に、ほんの微かに干した草のような香りがした。馬小屋で生まれ、まぶねの干し草の上に寝かされた赤ちゃんは、こんな気持ちだったんだろうか。と、2024年くらい前の明日に思いを馳せる。
顔を上げると、彼は不思議そうにこちらを見ていた。
「気持ちよさそうだなと思って、見てたんです。こちらから」
と私は言い、ガラスの向こう側の誰もいなくなったテラス席に視線を移す。
ああ、と彼はうなずく。
「どうでした?」
「最高でした。ありがとう」
礼を言って、私は立ち上がった。
「本当にもらって行っちゃってもいいの?」
「どうぞ。気に入ってもらえてよかった」
彼はにこやかにこたえてくれる。
その顔を見て一瞬、胸がうずいた。あなたの名前は? と聞こうと思ったけれど、やめておいた。
ただ笑顔でうなずき返し、彼を残して、私はひとり店を出た。
雪がちらつく、明るいさざめきの中、私は私だけのしんとした孤独を胸いっぱいに吸い込んで、帰路につく。
帰り着いたあの何もない家に、チャコールグレイのタオルをかけるところを想像しながら。
(おしまい)
*
もつにこみさんのアドベントカレンダー企画に参加しました。久しぶりにnoteで小説作品を書く、よい機会をいただけました。ありがとうございました。
明日17日はミーミーさんです!