五月十六日、僕はアートを知らない

【以下の文章は、京都府立植物園に於いて開催された展覧会『生きられた庭』(2019年5/12~5/19)の公式サイトに寄稿したものです】


 展覧会の警備や監視をしていると、答えに窮する質問がある。


「これはなんですか?」


 僕は『生きられた庭』に季刊同人誌『モノ・シャカ』の一員として協力・参加し(公式パンフレットの下の方にロゴを載せていただいている)、文書の執筆から展覧会の設営、警備や監視などに携わっている身だ。キュレイターや参加アーティストたちとも面識はあるし、作品の意図やコンセプトを詳細に聞いたこともある。それでもなおどう答えていいのかはわからない。美術作品、アート、展示品、まずどんな言葉で端的に表現して良いのかもわからないし、二の句をどう継げば良いのかもわからない。それは、僕が作品を理解していないから、という批判も飛んできそうだが、それ以上にむしろアートを知らないことに起因すると思う。そしてまた、アートに関心がない人が多数存在するということにも起因する。


 本展『生きられた庭』は、京都府立植物園を舞台にした展覧会だ。この展覧会を目的にわざわざ足を運んでくれた人もいるし、いつもどおり植物園に散歩をしにきた人もいる。たまたま森林浴に訪れた老夫婦もいれば、遠足に来た幼稚園児だっている。これはなんですか? と聞かれたときに、最初の三日ぐらいは「今、植物園で展覧会をしていまして、その作品の一つです」、このように答えていた。しかしすぐにやめた。「作品」という言葉に、訝しい顔をする人もいるからだ。「これが作品?」「なんの意味があるんですか」と冷笑を向けられることもある。


「ないほうがきれいやと思うけどな」


 何を美しいと思うのかなんて人によって様々だが、自然の美というものは圧倒的だ。これは自然が「圧倒的に美しい」と言いたいわけではなく、「圧倒的大多数が美しいと感じる」という意味でだ。そもそもアートとは美を志すべきものなのか、という問題もあるがここでは触れない。知識がある人に突っ込まれるのも困るし、ペダンチスム(学問や知識をひけらかすこと)はまっぴら御免だ。


 公共の場所においての『美』を一体誰が決めるか、という問題がある。少し前の話だが、京都大学の立て看板撤去の話を僕は思い出した。昔京都大学の周りは、それはおびただしい数の立て看板(サークルや部活などの宣伝用)に囲まれていたが、今はすべてが撤去されその面影を残してはいない。立て看板も含めての京都大学の風景であり文化であると考える人もいれば、危険だしそもそも汚いと思う人もいる。僕自身は正直に言えば立て看板はあっても良いと思うし、なくても良いとも思う。どちらかの意見に賛同して行動を起こすほどの熱意はなく、ぼーっと眺めているという具合だ。しかし僕は空想する、「もし万人が美しいと感じる一枚の絵画が存在したとして、それが立て看板として設置されたら、それは撤去されるのだろうか」と。


 アーティストの一人と喫煙所にいるときに「僕は本来、自分の作ったものを人に見せるというのは、とてつもなく恥ずかしいことだと思っている」と話してくれた。そして彼は続けた。
「自分が作ったものを人に見せる。すごく嬉しいときもあるし、誰にも見せたくなくなるときもある。どうにか展覧会の初日には『見せたい』と思うように心をコントロールしようとする」
 また別のアーティストは「アートの役割をずっと考え続けている。でも私は、なにかに気づいてもらうことだと思う」と言った。
 美術関係者からすれば「そんな葛藤は当たり前だ」と思うのかもしれないし、そもそもこんな舞台裏をここで発表するのは汚いやり方なのかもしれない。
 しかしその答えを聞いて、僕は安らかな気持ちで筆、もちろん絵筆の方を折ることにした。ただ、ペンは折らないしパソコンも叩き潰さない。そして、僕の好きな人たちが必死に頑張って必死に考えて作ったものなのだから、多くの人に観覧してもらいたい、と思った。それ以外の理屈はないし、無理にひねり出すことも今はやめておきたい。