bokete:現代アート


 モメにモメる現代アート話だが、それゆえ何かを言いたくなった。 

 まずは次の画像を見て欲しい。


 私はこの「bokete」を面白いと思った。声を出して笑ったわけではない。興味深い、interestingという意味でだ。

 私はこのドラえもんの元画像の原典を知っている。それも何度も繰り返し読んだ作品だ。このコミック『ドラえもん のび太の太陽王伝説』は、劇場版(2000年3月11日公開)の作品をコミカライズしたものである。当時は月刊コロコロコミックにも掲載されたから、読んだことのある人も多いだろう。

 個人的な話で、『ドラえもん のび太の太陽王伝説』は私の一番好きなドラえもんの映画だった。コミック版も小遣いで買ったし、VHSも何度も繰り返し見た。

 問題のこの画像は、画像の台詞に空白があり、ユーザーたちが思い思いの単語、セリフを入れてボケる、所謂「穴埋め」「空欄補充」型boketeだ。

 元の素材の状況を説明する。この画像の「のび太」のような人間は、実は「のび太」ではない。のび太とそっくりの「ティオ」というマヤナ国の王子だ。時空が乱れたタイムホールの向こうからやってきた古代の異国の王子であり、性格は粗暴で横柄、のび太たちのいる世界の文明に驚き、それを学ぼうと、のび太と入れ替わり生活をしていた。現代文明に驚き四苦八苦し、車に喧嘩を売ったり、テレビをボコボコにしてしまったりする。そうして帰ってきたママに怒られ、草むしりを頼まれている、という場面だ。

 この画像、空欄のところに元々あったセリフは「だったら、私は女王様よ」だ。もう何が言いたいかおわかりだろう。

 このboketeの投稿者は、画像を見て精一杯ボケて、それを投稿した。そしてそれを面白いと思ったユーザーが「いいね」をした。そして2ちゃんねるまとめに載り、私の目に止まった。

 投稿者の無知を笑いたいわけでも、藤子先生のセリフの面白さを褒めたいわけでもない。何が言いたいかというと、このboketeは「知識の有無で解釈が変わる」ということだ。


 愛知トリエンナーレに端を発する現代アート論争は、もはや留まるところを知らない。各々が各々の論点を持ち出して熱くなるから、収拾がつくわけもない。ただその論争のなかで、僕は一つだけ気にくわないものがあった。

「現代アートは知識をもって、鑑賞するものだ」。

 アート、アートと呼ばれるモノに関する議論は至って難しい。なぜなら、多くの大衆に「高尚」なものと見なされるからだ。多くの場合で、テレビドラマや漫画、はたまたnoteでの投稿などと同列に語られる訳ではない。それは「アートは果たしてそうあるべきか」という議論を一旦置いての、現状の話である。

 アートは聖域だった。確かに聖域だった。しかしその聖域性が脆くなってきているから、製作側も受容側も対応に追われているのだろうと思う。なぜアートが聖域だったのか。無論、先人達の偉業によるものだ。先人達の作り出したものが、“問答無用”で人の心を動かしてきたからだ。その「圧倒的」といえる力で、アートは他のいわゆる「娯楽作品」とは一線を画してきた。しかし現在、その力は「圧倒的」とは言えなくなってきている。

「アートは美を標榜するモノではない」「アートは何かに気付いてもらうモノで快・不快、美・醜は関係ない」

 もちろんそのような意見は理解する。共感もする。

 ただ一つ、私が言いたいのは「作品がどのような人に、どのように受け取られるか」を考えるのは、ジャンルを問わず、製作者に必要不可欠なことではないのか、ということだ。

 大衆に叩かれることを覚悟して、叩かれるのはいい。大衆に賛美されることを期待して賛美されるのはいい。

 もし現代アートを「知識のある一部の人間」だけのものとしたいならば、製作者や批評家連中は表、ないしはツイッターに出てこず、長野の山奥にでも籠もってお互いに褒め合っていればいいと思う。嫌味ではない。理解される相手にだけ作品を提示し、楽しい仲間と酒でも飲みながら、紫煙をくゆらせればいい。それはそれで大いに楽しいに違いない。

 boketeの画像の話に戻ろう。このboketeをboketeとして面白いと思った人がいる。私のように「わっ! 原作と被ってる!」と楽しんだ人がいる。そして、もっと違う解釈をして面白いと思った人もいるだろう。アートの魅力というのは、そもそも解釈の多様性への寛容さではなかったのか。

 大衆、または国や行政、そのような多数派に自らの作品がどのように受け取られるか、そしてその結果何が起こるか、どこのラインまでならギリギリ許されるか、言いたいことをそのまま言うのが無理ならばどこにどうやって暗喩をしこむか、皮肉をしこむか。様々な制約のなかで、自分の考える世界を、全ては自分の思い通りとはいかないまでも、何とか表現して世に伝えていく。それはアートワールドに限った話ではない。モノを作っている人、否、全ての人間に共通する。

 もちろん権力者からの圧力は断じて許されるべきではない。表現の自由というのは、戦い続けることが必要だと思う。声を上げることには意味がある。

 しかし、もうアートはその「圧倒的」な力を失いつつあることを理解して欲しい。なぜなら、大衆が「圧倒的」と思えないようになるぐらいには、製作側または受け手側がチープな消費の仕方をしてきたからだ。先人のプラスを打ち消すほどのマイナスを作り続けてしまったからだ。

 こうなった場合、とりうる手段は一つだ。もう一度「圧倒的」なものを作ることだ。これは激励文に近い。
 その力がアートにはあると、私は未だ信じている。