最後の博打
彼女の言葉を、はじめは上手く聞き取れなかった。
今思えば、脳が解釈を拒否したのだろう。しかし数秒遅れて、やっと彼女の発した音が意味を成した。
「もう無理だよ、別れよう」
その言葉をようやく解したとき、頭は冷静だった。女性に別れを告げられたときに、選択肢は二つある。
一つは「最後まで格好付けて、別れを綺麗に受け入れる」だ。内心穏やかでなくとも、せめて最後は美しく。彼女の最後の思い出は、クールで男らしい僕。
もう一つは「拝み倒して泣き倒す」だ。別れたくない。いやだいやだいやだ。こういうときに限って、他の男が彼女の肢体をまさぐる映像が脳内を駆け巡る。そんなのいやだ。僕のものだ。情けないのはわかっているが、そんなことはこのさいどうでもいいーー。
そうして考えを巡らせたなかで、僕の目に止まったのは『太鼓の達人』だった。今思えば、こういう田舎のイオンモールではたくさんの恋が生まれ、そして無くなっていくのだろう。けたたましくメダルの落ちる音がフロアに反響していた。
「太鼓の達人やっていい?」
彼女は不思議そうな顔をしていたが、頷いて言った。
「……私はしないけど」
僕は太鼓の達人が好きだった。そういえば、今まで彼女と二人で色んな曲をプレイした。僕の難易度は「おに」。彼女は最初「ふつう」を選んでいたが、ご機嫌なときは「むずかしい」を選んだ。いつもノルマクリア出来ないのは彼女の方だった。ゲームオーバーになったら、目を合わせて笑い合った。
二百円を入れると、別れの場には不相応な効果音がドンドドン、と鳴った。
僕は曲を選んで、フチの右側を連打した。こうすると「おに」モードが出るのだ。すでに手は汗ばんでいた。
別れを告げられた男には何もできない。何もできないから、その最後の形式ばかりを気にするのだろう。格好つけて笑顔で別れられるほど僕は子供じゃなかったし、泣きわめいて縋るほど大人でもなかった。
「フルコンボだったら、もう一回やりなおそうよ」
声が震えているのを、できるだけ誤魔化して僕は言った。
「なにいってんの?」
選んだ曲は、『残酷な天使のテーゼ』。星の数は七個だから、この賭けに申し分はないだろう。
「冗談で言ってるんじゃないよ、わたし」
冗談じゃないことはわかっている。しかしもう曲は始まっていた。
ドン、ドン、ドンドドン、最初は簡単だ。ただメロディーラインに合わせて叩く譜面——。
第一難関はイントロだ。連符の数が増え、左右の手が慌ただしくなってくる。しかし焦る必要はない。無心でいれば、ミスをするような場所ではない。三連符程度なら、腐るほど叩いてきた。大丈夫、大丈夫。バチに付いたゴム紐が邪魔だ。腕の可動域が狭くて苦しい。僕はMYバチを持つほどの上級者じゃないが、この場面では勘弁して欲しかった。人生がかかっているのだ。
「そっとふれるもの もとめることに夢中で」
『夏祭り』を選ばなくて良かった。こんな状況で「君がいた夏は、遠い夢のなか」なんて歌われたら、臭くてかなわない。大丈夫、まだ大丈夫。
Bメロは後乗り感のある譜面だ。タタッタタッタ、タタッタタッタ。裏拍をきっちり意識する。コンボ数は怖くて見られない。しかしまだミスをした感触はない。
「だけどいつか気付くでしょう その背中には」
遙か未来めざすための羽があること。口ずさむ余裕はある。
長年一緒にいると、こういうときに思い出すことはなんでもない日常のシーンだ。あのときの喧嘩は何がきっかけだったか。何がきっかけで仲直りしたか。なんで泣いてた、なんで笑ってた。今となっては思い出せないが、思い出せないことが全ての元凶なのかもしれない。去年の誕生日プレゼントはなんだっけ? 貰ったものは覚えているが、あげたものは覚えていない。
最愛であるはずの彼女に「器用に上手く立ち回る」のは嫌だった。だからデートも毎回ノープランだったし、記念日なんかも億劫だった。ただ、それは自分の問題だった。「器用に上手く立ち回る」自分が嫌だっただけで、彼女には何の関係もない話だった。
残酷な天使のテーゼ、窓辺からやがて飛び立つ、ほとばしる熱いパトスで、思い出を裏切るなら。
五連符、四連符、二連符、四連符、二連符、五連符……。どこまで彼女を思えば良かったのだろう。どこまで感情移入するのが正解だったんだろう。思えばバンドマンは羨ましい。こういうときに、自分の演奏を聴かせられるのだから。人は歳をとればとるほど、一発勝負の博打なんか打たなくなるし、打てなくなる。今から手紙でも書いたら、プレゼントでもあげたら、間に合うだろうか。いや、それは今までの自分の行動を顧みて、誰に対しても失礼だ。
この宇宙(そら)を抱いて輝く、少年よ神話になれ。最後の一打、その余韻のあとには確かに手応えと達成感があった。
「フルコンボ!」
「せいせきはっぴょう!フルコンボだドン!」
振り返ると彼女はもういなかった。みじめだと思いながら、僕はランキングに彼女の名前を入れた。
一位だった。僕は嬉しくて泣いてしまった。