映画感想『ウィッシュ』(原題:Wish)
『ウィッシュ』 吹き替えで観ました。
ネタバレを含みます!!!
かつてシンデレラはいみじくもこう言った。
「話すと願い事が叶わくなるのよ」
「私が夢を見ることはだれにも止められないわ」
『ウィッシュ』はディズニー社100周年を記念した長編アニメーション。
ディズニーのテーマである「願い」「夢」「信じること」に焦点を当てた作品となっている。
私の感想を結論から言うと、「願い」というテーマへのステートメントとしては100周年に相応しい。一方で、記念作だからこそこれまでの名作との参照点が多く、「もっと見せてほしい」という期待が生まれることになってしまった。
アーシャの「願い」とは何なのか
公開前、そもそもこの作品にあまり期待が持てなかった。予告の内容もかなりぼんやりしていて、主人公・アーシャがこの物語で何を体験することになるのかが不明だったからだ。
王の秘密を暴くだけなのか?
なぜ暴くのか?
社会正義に燃えてるのか?
そして、これは後々詳しく語ることになるが、アニメのキャラクターとしてもっと見ていたいという魅力も、予告の時点では得られなかった。言葉を選んで言うと、自分が小さな女の子だったとして、好きなキャラにアーシャを挙げるかと尋ねられたら、挙げないと思ったのだ。でもそういう感覚は時代遅れなのかな、と思いつつ、大した前情報を入れないで映画館に行った。
これも結論から入るが、アーシャの願いは魔法使いになることだ。でもそれは本作の舞台・ロサス王国では超ハードルが高い。そしてアーシャはこの願いを作中で一度も口にしていない。
アーシャはマグニフィコ王と接して「この国では叶わない願いが大量にあるし、それが奪われたままだ」ということを知って、それを何とかしたいと強く思う。その時に歌われるのがメインスコアの『この願い』なのだが、「この願い」の中身も明確ではない。かつてこんなに願いが不明瞭な「I wishソング」があっただろうか。
でも、『この願い』のシーンのアーシャの表情。悲しみ迷い、それでも歌い微笑みながら星に願いをかける、まだ希望を捨てていないというのが、いかにもディズニーの主人公らしい。ここが『ウィッシュ』の魔法使いの弟子にもなれない主人公と、偉大な魔法使いであるヴィランの大きな違いだ。
『シンデレラ』の大好きなシーンを思い出す。ドレスを破かれ舞踏会に行けないシンデレラは『夢はひそかに』の曲に反発するように「つらいだけ」「信じられない、もうなにも、なにもないわ」と嘆くんだけど、フェアリーゴッドマザーが現れて「嘘だわ、そんなの本気じゃないはずよ」って言ってくれる。そう、シンデレラは本気じゃないのである!
どんな悲惨なことが起こっても、誰に何を言われても、夢が叶わないなんて、本気で信じてないのだ。
そしてそれは、アーシャもそうだ。「この願い 諦めることはない」
だが、不幸にも願いは叶わないと信じてしまった男がいる。残酷な現実に傷つき力を求めたのが、本作のヴィラン・マグニフィコ王だ。
『マグニフィコ王とたくさんのロサスの人々』
最恐にして最もハンサムなヴィラン
マグニフィコ王に対しては、予告の時点で「ディズニー史上最恐のヴィラン」の異名をとり、非常に興味深いものの、果たしてそんな悪い奴なんて描けるのか? という懐疑があった。
それにしても、予告の時点で唯一惹かれるのは思い詰めた主人公たちよりも、表情豊かにのびのびと歌うマグニフィコ王だった。マグニフィコはヴィランであるが、その魅力はディズニープリンセスのそれだった。彼には明確な欲求があるし、チャーミングで生き生きと自信に満ちている。それが虚栄心とかだったにしろ、観ていてワクワクするのはマグニフィコだけだったのだ。
果たしてそれは……本編でもそうだった!
『ウィッシュ』はディズニークラシックらしく、『ウィッシュ』という物語が綴られた絵本をめくるシーンから語られるわけだが、そこにまず登場するのが若き日のマグニフィコである。彼は元々夢の力を信じているタイプの青年だったが、「夢は叶わない」ということにショックを受けて、魔法使いになったのだ。
普通の人は「夢を次世代に託す」とか「夢が叶わないから、次の夢を探す」とかするんだが、きっと彼の絶望はひとしおだったのだろう。努力して夢をかなえるため魔法使いになって、王国まで作って、そこに来る人々の願いを叶えると同時に、願いを守る側としての魔法使いになる。
「辛い思いをするくらいなら願いを忘れた方がいい」というのは、かなり究極の、恐らく本作で描かれた、願いを破壊された時の心の悲しみよりずっと辛い経験をしてないと辿り着かないのでは、と思わされる。でなきゃあんなにも強大な魔法使いになろうとは思えないだろう。そしてそんなバックグラウンドを考えさせる魅力が、マグニフィコにはある。
はっきり言って、「願いは叶わないという現実」に打ちひしがれた青年の話の方が興味があるというか、もうそれだけで恐らく一本の映画になるだろう。彼の悲惨な過去は、書斎にかけられたタペストリーからも分かる。が、詳しく語られることはない。
アーシャと2人で歌う『輝く願い』(”At All Costs”)のシーンでは、国父としての父性すら感じさせる。ただ、そういう側面がフィーチャーされることもない。(ちなみにアーシャの父親が哲学者で既に亡くなっているというのも意味深だけど特に何もない。)
マグニフィコは非常に魅力的で、フックがたくさんあるのに、それらを主人公たちが深く知ることもなく、王妃・アマヤとの関係もあっさりしており(アマヤのキャラデザも、いかにも共謀者として作られて、途中で性格を路線変更したなというデザインである)とにかくマグニフィコの表情や仕草や髪の動きまでが過去のディズニー作品の主人公級に華やかでチャーミングで、魅力だけでいえば、アーシャや仲間たちを完全に食ってしまっている。
これは私にとってマグニフィコが、『ライオンキング』のスカ―や『ベイマックス ザ・シリーズ』のオバケ以来の、滅茶苦茶好みのヴィランだったというだけではなさそうで、他の人もそう言っていたので少し安心した。
そして、パンフレットを見て、更に納得した。「7人のティーンズたち」である。
『誰もがスター!』とはどういうことなのか
マグニフィコ王が超絶魅力的なのは、彼が王だからという理由ももちろんあるが、王だからと言って魅力的になるわけではない。平民だって、魅力的に描こうと思えばいくらでも魅力的になる。
ただこの映画を見終わった時に、「7人のティーンズたち」の全員を覚えているだろうか。私は覚えていなかった。
7人はもちろん白雪姫の「7人のこびと」と呼応しているし、必須要素である多様性とも呼応している。7人のこびとは所謂「箱推し」的な愛着を抱かせる存在で、彼らは観客の感情を増幅させる役割もある。彼らがいるから、『白雪姫』の冒険がエモーショナルなものになるのだ。
だが今回の7人は、そもそも覚えられないし、多様性の面でも「とりあえず揃えられてもな!?」という気持ちになってしまった。果たして、名前も覚えられないほどの友人たちは、1人1人が必要なのだろうか……そして彼らの多様さの扱われ方が「凡庸」の証のようになってしまっていないだろうか……。
誰もがスターなのは事実だ。でも、彼らとの冒険はワクワクしただろうか。観客は彼らみんなに輝きを見いだせただろうか。少なくとも私はしなかった。
そう考えると、マグニフィコ王に圧倒的輝きがあったことが皮肉に思える。誰もがスターなのだから、アーシャの仲間にもそれを強く感じさせる表現をしてほしかった。一人一人がもっと生き生きとした姿が見たかった、というのが一番近い。
ダリアについて
アーシャの仲間がスターであるという描写は、クライマックスでダリアを中心として少し描かれるが、というか、もうそもそもの話だが、さっさとダリア(のような女性)を主人公にすればいいのではと、チラッと思ってしまう。
そもそも、ダリアは魔法書が読めるほどインテリなのに、なぜ宮殿でクッキーを作る仕事をしているのか?
これは完全に私の邪推だが、障害者雇用の現実みたいなものを感じさせられた。(障害者雇用では頭脳労働よりも手作業を求められることがある)アーシャが望んでロサスのガイドをやっているように、ダリアもクッキー作りを望んでいるといいんだが……。
ダリアが王様に片思いをしてるってパンフレットに書いてあって初めて知ったわ!
「魔法使い」の役割
話をアーシャの願いに戻す。アーシャの願いは冒頭で既にチラッと示唆されている。
「今日100歳の誕生日に願いの儀式があるなんて、これはサビーノの願いが叶う」
つまり、アーシャの願いは「人の願いを叶えること」、つまりそれを具体的に突き詰めた存在が「魔法使い」なのだ。
だからアーシャはロサス王国で「叶わない願いがある」「その願いを取り戻すこともできない」ということにショックを受けたのだ。
王のしたことを公表して願いを返す行動に出るのは、社会的正義とかいうよりは、アーシャの「願い」に反するものだったから、という方が近い。(これは分かりづらいが……)
そもそもディズニーが手掛けてきたことにおいて、ディズニーマジックとか、「夢がかなう場所」とか言うのは、ディズニー社が魔法を起こしてきた、その成果だ。「願いを叶える」ストーリーを『白雪姫と七人のこびと』から80年以上社運を懸けて訴えてきてるのがディズニーで、ストーリーを必ずハッピーエンドに導く我こそは魔法使いなのだという自負がある。
「願いがかないますように」をずっとずっと貫いているのだ。
そして、それはアーシャの『この願い』そのものなのだ。
でも、「この世には叶わない願いがある」という現実の問題を、魔法使い・ディズニーはどう処理していくのか。『ウィッシュ』の中では、願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そもそも「願いを持つこと」はその人の心そのもので、人を生かすものだと肯定している。
そして「叶わないかもしれない願い」へのアンサーは、映画の最後の方でチラッと示唆される。
それは、空を飛ぶことを願う女性が、彼女の願いは作中何度か出てきているが、その彼女とピーターという青年が王妃の手引きで出会うシーンである。
ピーターはもちろんピーター・パンがモデルとなっている。それは他のオマージュ要素よりもかなり明確に示されていて、ディズニーに親しみのある人なら「おっ」と思う描写だ。あのピーターは紙飛行機を持っていて、空を飛ぶことを研究している。つまり現状「空を飛べない」のだ。しかし私たちの世界には飛行機があって、私たちの知っているピーター・パンは空を飛ぶことが出来る。あの二人が信じ追い求め続けることで、その願いは未来に継承されていく。「願いは叶わないという現実」は今あるとしても、100年経ったらどうなるか。
魔法使い・ディズニーは常に未来を見据えている。
次の100年は明日から始まる。
「明日のため この願い あきらめることはない」
そしてアーシャは慣れないながらも遂に魔法使いになり、スターはまた別の誰かの願いを受け止めにいくのだ。
蛇足
水彩っぽい表現はよかったけど、これも「なぜ」感が少しぬぐえなかったというか、特にそこに目が行くことはなかった。
最初のロサスのガイドをするところで、新規入居者の人たちがアップになるところとかは、この描画スタイルを見る側の方にも慣れが要るかもなと思った。
スターはとてもかわいい。グッズほしい。
スターはミッキーマウスをモチーフにしたとあるが、『ワンス・アポン・ア・スタジオ』を観た後では、「そうか」となってしまう。『ワンス~』との兼ね合いも、『ウィッシュ』にとっては課題だったのかもしれない。オマージュの割合とか。
でもディズニーオタクとしては十分に「願い」のステートメントを受け取った!という感じなので、辛めに書いてしまったけど、全体的には満足だし、また字幕で観たい。
そして繰り返しになるが、やはりマグニフィコ王の深堀りがもっと欲しかったところだ。最恐のヴィランの名に恥じないし、とにかくカッコいい。
素晴らしいディズニーキャラクターには「ハッ」とさせられるような表情があって、100年の歴史でその瞬間は何度となくあるわけだけど、『ウィッシュ』で「ハッ」の軍配が上がるのは、アーシャよりマグニフィコだった気がする。
(個人的に「ハッ」の頂点でパッと思い浮かぶのは、『魔法使いの弟子』の最後の微笑むミッキー)
アーシャは覚悟を決める、とか、情報としての表情や肌の質感は伝わってくるんだけど「惹かれる!すてき!憧れる!」とかがあまり……特徴であるロングヘア―もボックスブレイズであるということは分かるんだけど、ときめき印象が少なかったし……(それこそポカホンタスのような、動きそのものが見事、という芸術を見たかった)
でもこの感性も古いのかもしれないし、マグニフィコのようなハンサムとか、attractiveなキャラデザが「古い」と言われてしまうのであれば、もうどうしたらいいか分からないが……(男女のロマンス要素とかも「今や不要」なのかも知れないと思うと、とても悲しい)
見た目だけでなく、マグニフィコはキャリアが思わせぶりで、アーシャよりずっと人生経験があって思うところがあるだろうから、そこが気になってしまう。
でもそれを描くとアーシャの物語じゃなくなっちゃうから省略は当然だろうけど、ラスト結構ストレートに負けてしまうのも「まあアーシャの物語だから」みたいな、無理やり納得させる形で呑み込む、みたいになってる。(アマヤ王妃もだけど、今作は作ったけど端折ったんだろうな、みたいな痕跡がチラホラ感じられた。)
マレフィセントのような、理由のない悪(絶対悪)であれば、彼女の動機の深堀がなくても『眠れる森の美女』を観てあのオチでも納得できるのだが、マグニフィコは深掘りできる設定がたくさんあったからこそ勿体無い。
そして彼の人生の描き方にこそ、「願いが叶わない現実」をどう扱うのか、手腕が問われると思う。
実写版『マグニフィコ』待ってます!
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