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孤高の人が孤独を好む訳ではない:『VERDAD!』の礼真琴さんを観て

12月2日は礼真琴さんのお誕生日です。生まれて、歌を歌い続けてくれてありがとうございます。それを支えてこられた周りの方々にも深く感謝します。  ※これは2021年の12月1日深夜に書きかけた気色悪いド長文ポエムなのですが、『VERDAD!』のCS初放映がうれしいので加筆して公開します。ほぼ思い込みで気色悪いので閲覧注意です ※最後のほうで瀬央さんについて加筆しました さらに長文になってしまった……※


2021年夏に舞浜アンフィシアターで行われた礼真琴さんの初の主演コンサート『VERDAD!』のBlurayが11月末に発売され、同時に音源も配信され、なかなかの売り上げを見せているようでうれしい。とてもよいコンサートだった。なんせ礼真琴さんの歌を延々と聞ける。本当に延々と踊って歌い続けてくれた。舞空瞳さん、瀬央ゆりあさん、メンバーそれぞれに素晴らしい点があったけれどそれは別稿として、とりあえずこれは礼真琴さんが星組のトップになって初のコンサートで、制作陣も出演者も、この希代のポップスターの歌舞台を何が何でも成功させようという緊張感がほどよく漲っていた、よいコンサートでした。

礼真琴さんは歌、ダンス、芝居、筋力、持久力と五拍子揃ったトップスターとのことで、そのどこに魅力を感じるかはファンの中でもそれぞれだろう。どれも宝塚の基準点からは大きく優れているが、「贔屓」の不足点=個性を贔屓目で愛するのも醍醐味の宝塚においては、なおさまざまに言われることもあるようだ。技術だけで心がないとか(素面で書くとすごいなシリーズ)、180cmに届きそうな人もいる昨今の男役平均からは低めの身長と柔和な顔立ちから「男役より娘役が向いていた」(実際トップ就任以前には娘役としても大変素晴らしい演技をされている)、「早く外部で活躍すればいいのに」などの厭味まで。五拍子揃っても研鑽を強いられるとはなんと厳しい世界か。筆者はまだ真の宝塚ファンの魂を会得していないからか、礼真琴さんは男役として十二分に魅力的に見えるし、宝塚の男役になってくれたからこそ、若い頃からこれだけの大舞台を中央で幾度も踏め、その美しい低音が生きる歌をたくさん聴かせてくれた(しかも円盤に残してくれた)と思うと、ありがたさしかない。男役を選んでくれてよかった。トップとなった今はどうか少しも喉を傷めないでほしい。この人の行く先は長いものだと思うので。

五拍子のうち筆者はなんといっても歌で、礼真琴に気づいた。宝塚は公式youtubeで5分ほどのミュージッククリップをたまに公開しており、そこで『アルジェの男』をふと聴いたのがきっかけ。地声が低いのか低音でも男役特有の力みが感じられず自然で、しかし緩急巧みで、べらぼうに上手い。これはミュージカルスターだな、と思い、あれこれ友人を頼って観始めたらまあ何を観ても常にうまくて現在に至る。この『アルジェの男』(後述)がまさに象徴であるのだが、筆者が特に礼さんの歌で魅力に感じるのは、明るさよりも孤独感の表現だ。礼さんは孤独を歌で、バリエーション豊かに表現するのが大変上手い。

強靭な陽キャの喉からたたみかけられる、多彩な寂しさや決意

『VERDAD!』は二部構成の3時間弱にわたるコンサート。第一部は88年の歴史を持つ星組の演目からの名曲メドレー、第二部は宝塚的な歌唱以外の礼真琴の歌スキル披露として、ミュージカル曲やディズニー曲、最近のJ-popで構成されている。喉を傷めないでほしいという老婆心を暴力的に無視する、ほぼ歌いっぱなし&踊りっぱなしの公演で、三週間しかない稽古期間にしてはどの曲もつまみ喰い感のない、円形の舞浜アンフィシアターを全方位に沸かす表現となっていた。

礼さんの歌の上手さをどう表現するかというのは悩むところで、巡り巡って「うまい」しか言えないようなところがある(ので、観劇しない人からは「うまいだけ」みたいな声が上がるのかもしれない)。音域が特殊な宝塚の男役娘役、どちらもできる際立った声域の広さとともに、声量の上限と下限の幅も広く、下限で声を絞っても発音が明瞭で歌詞が確実に聞き取れ、どんな忍者の修練か知らないけど激しく運動しながらも絶対に音を外さず、息も上がらない。バグパイプのように声量を革袋に貯めて小脇に抱え、猛烈に走ってタッチダウンを決めるアメフト選手のようというか……(笑)何を言っているのかと思うが、そのバグパイプのような声量袋を自在に絞ったり開放したりしながら、楽譜が見えるような正確な音取りで繊細に、作曲家作詞家の意図を汲む表現をする。そして濃密でツヤがあるのに少し掠れている生来の声質が、歌詞に生身の感情や礼さんの個性も乗せているような感じ。オタクの早口ではざっとこんなところだが、こうした特質をいちばん生かせるのが「孤独」な歌だと筆者は感じている。声を下限まで絞って、ただ吐き出すようにした呟きもきちんと歌として響いていて、その奥の感情が波のように伝わってくる。

『VERDAD!』の第二部では、こうした筆者好みの曲が多く選ばれ、さらにこの選曲に礼さん自身が関わっていると後に知り少しうれしかった。まず、tiktokやyoutubeなどの※違法※アップロードでバズり続けている、礼さんの存在のモダンさ、踊りのキレの良さなどがすべて詰まったAdoの「ギラギラ」。これを皮切りに、いつかエポニーヌをこの人が演じる夢を見ているところにまさかのジャべール……という喜びをくれたレ・ミゼラブルの「Stars」。版権のためか原詞での歌唱で、それがまた一生英語を勉強させられている筆者には文句なく素晴らしかった、Wickedの代表曲「Defying Gravity」、この3曲が特に出色。他にも名曲名場面はあるが、えもいわれぬほどの礼真琴を堪能できるこの3曲を挙げてみると、どれも歌詞の内容が寂しさや孤独と向き合い、それを強いる外界や敵と戦うことを誓う、決意の歌なのだった。3曲まったく声色が違うのがまた凄い。

生まれついての孤児だとしても:『アルジェの男』

遡って第一部、『VERDAD!』公演の少し前に他界された星組トップスター、峰さを理さんに捧げるメドレー場面がある。峰さんから多大な助言を受けたことを礼さんは常々語っており、モニターに大きく映される峰さんの舞台姿を観ながら、涙をにじませて歌う曲はどれも胸を打つものだ。これがまた全部寂しげな名曲。哀惜、悲憤、絶望、悔悟、さまざまな寂しさの色を、さまざまな表現で礼さんは歌う。

中でも峰さを理さんが1983年に主演した『アルジェの男』という演目は、礼さんが2019年の二番手時代、トップを見据えた初めての全国ツアーで演じたものだ。(この『アルジェの男』から当時専科の愛月ひかるさんが星組に参加し、その凄みも加わって大変な秀作となっていて、いつか別稿を書きたい)この主人公ジュリアンは天涯孤独の下町のチンピラ。下町といってもランベスみたいではない、自由でのんびり暮らせないタイプの荒廃した町アルジェ。その今にも抗争が起きそうな不穏な空気で幕が開き、礼さん演じるジュリアンはのっけからジェームズ・ボンド構文で飛ばす。

「俺の名はジュリアン。ジュリアン・クレール。生まれついての孤児だが、そいつは俺の罪じゃねえ。ガキの頃から何でもやった。博打に掏摸、カッパライ、密輸に詐欺。やってねえのはタタキにコロシ。それがこの俺、ジュリアンさ」

この「生まれついての孤児」というセリフを、トップ直前の重要な舞台の礼さんに言わせ、さらにジュリアンよりもっと強烈に下町の闇を吸い込んだ人物を愛月さんに演じさせた、その采配は素晴らしいの一言だと思う。礼さんの芸は明らかに優れているのだが、“宝塚的”ではないと言われてしまえばそうなのかもしれない(宝塚的の明確な定義がどこにあるのか知らないのだが)。これだけ目立つというのはそういうことだ。男役でいる限り、礼さんの世界には孤児のような孤独があるように筆者には見える。だから、アルジェのチンピラから総督の目に叶い、学をつけて資質を磨き、パリでのし上がらんとするジュリアンの孤独、熾火のように疼く野望の表現が本当によく似合った。『VERDAD!』の峰さを理さんへのコーナーで、2021年の礼さんによる「ジュリアン・クレール」が聴けたのがとてもうれしい。

孤児といえば、で、ここから数節、趣味の話で恐縮だが、筆者が勝手に礼さんの香りだと思っている「ロルフェリン(灰の乙女)」というセルジュ・ルタンスの香りの公式文を引用する。

〈灰の乙女、その香りは浮遊するベール。 父は木で、母は炎。 星屑のように優美で純粋。 けれどもやがて塵にまみれ、霞んでいく人生の軌跡。 それは記憶。 儚く繊細だが、しかし完全なもの。極めて優美なオリエンタルの香り。〉

恐らくルタンス原文の仏日翻訳→資生堂によるコピーライティングで、大変美しいが、ロルフェリンという名前の肝心の原義には故意に触れていない。L’orphelineとは孤児。これは孤児の香り。フランスの孤児といえば筆者にはココ・ガブリエル・ボヌール・シャネルが浮かぶが、そういえば礼さんが好む色として挙げるのは黒、金、赤で、これに白とベージュを加えると見事にシャネルのアイデンティティカラーが揃う。(蛇足だがセルジュ・ルタンスの調香師はシャネルのエクスクルーシヴ ラインと同じ、“孤高の天才” クリストファー・シェルドレイク氏という偶然もある。)

ガブリエル・シャネルの長い人生がそうだったように、孤高の人は孤独になりがちだけれど、決して孤独を好んだ訳ではない。本来は大変な寂しがり屋で、自分の周囲に自分が好きな人々が集うのを好んだ。しかし仕事中毒なところや、妥協しない姿勢、置かれた場所で過剰に咲きすぎる……というか「なんでこの人こんなに頑張ってんだろう」的なところでやがて孤独に置かれたりする。「日曜日はみんな仕事しないから大嫌い」と言い続け、その日曜の朝に職住隣接のオテル・リッツで死んでいった87歳。ひとりで。

礼さん自身は上級生には愛され下級生には慕われ、いまや優秀な管理職として達者なコミュニケーションを知る人だろう。陽キャですし。しかし芸の追求においてはどこか孤独で、でもその孤独のありさまや、孤独に寄り添う人々とのやりとり、孤独のままで歩む道行きにこそ、たまらなく魅力がある。誰が見ても唸る芸事の完成度を横においたとして、この礼真琴という人のスター性はここにあるのだろうと思う。快活にして、さびしげ。陽の中に衝動的な陰がある。生まれついての孤児である『アルジェの男』のジュリアンから始まり、異能の柳生十兵衛や悲憤にむせぶラダメスを演じさせてきた座付きの作家陣の眼はやはり確かなのだろう。そういえばよく死ぬ。死ぬのがまた上手。マッドマックスFRで「Mediocre! /よく死んだ!」っていうアンゼたかし訳が話題になりましたけど、礼真琴はいつも上手に、孤独の中でよく死んでます。

なおみとひとみ、孤独に寄り添うということ:『夜に駆ける』

礼さんが『VERDAD!』の宣伝番組か何かで、今回いちばん心に残ったのは最後の『夜に駆ける』の場面だと言っていた。セリ上に礼さんがひとりで立ち、シンプルにスタンドマイクで歌う。その下をメンバー全員が囲んで踊るところで、「組子が近くで笑ってくれて、その向こうにお客様が自分を向いてくれるのを遠くまで見通しながら歌う」のが、幸せだったと。

この『VERDAD!』の後、2021年12月に発売された『ザ・タカラヅカⅧ 星組特集』では、礼さんはこう語る。

「下級生の頃から自分でできることは自分でやってしまうタイプでしたが、(中略)自分の心の扉を少しずつ開けて、委ねるところは委ねる勇気を持てるようになった気がします」

えっまだ少し……?トップの心のドア、固すぎ……?こういう放っておくと一見陽気に孤独になっていくタイプの人がトップをやるというのは、本人も周囲もそれなりに大変だと思う。そのそばで、ここにいるよ!寄り添っているよ!と満面の笑顔で根気強く伝え続ける、舞空瞳さんと瀬央ゆりあさんとメンバーたちを観られるのが、『VERDAD!』のよいところ。

そういえば上記の本で、舞空瞳さんについて礼真琴さんが語っている言葉に筆者は一瞬「おっ?」となったのだった。『私の隣にいるにあたってどうすればよいかを彼女も考え始めている』という箇所。基本謙遜しがちな礼さんが、字面だけでは傲岸にも見える物言いだと思った。まあしかし、これは本当に礼さんとしては文字通りの、以下のような意味だったのではないか。「この(実力派の)私の隣にいるにあたって(あなたはふさわしいですか?)」ではなく、「この(劇団に評価されてるか知らんが大概な難題を課せられるけど、一切手抜きせず完遂するつもりである)私の隣にいるにあたって(あなたも自動的に難題降ってきちゃうけど身体、丈夫?)」あるいは「この(毀誉褒貶を背負ったトップスターとしての)私の隣にいるにあたって(色々言われるけどメンタル、丈夫?)」というように。ちょっと待って~~~~気持ち悪い~~~~ことなこ好きすぎちゃう自分が気持ち悪い!!!!この辺にしておきますが、上記のような妄想の流れを受け、礼真琴さんの孤独になにがなんでも寄り添うことをつねに決意しているような舞空瞳さんのお顔を観るのが筆者は好きです。かわいらしいお顔に美しく長い手足を持ちながら、精神とその発露(踊り)は燃えるような激しさと慈悲を持つ。手塚治虫の『火の鳥』の火の鳥みたいな娘役だと思う。アイーダを当ててくれた先生の眼はやはり確かだった。お慕い芸と言わば言え、これはものすごい決意の首席のお慕い芸やぞ、という。妄言極まってきましたが。

そしてついこんなニワカでさえ「なおみ」と親しげにあだ名を書いてしまう瀬央ゆりあさんの存在。円盤にも配信にも千秋楽しか残っていないけど、全公演通して『VERDAD!』の相手役は瀬央さんだった。筆者は強火の舞空瞳ファンでもあるのでやや忸怩たる思いもあるが、すぐに仕方ないとも思う。第一部冒頭、瀬央さんが『ハロー!』と登場したときの、あの会場の隅から隅までの気を一掃するような爆発的な清涼感はなんだっただろう。「あなたの心にハロー!瀬央ゆりあです」と『VERDAD!』の宣伝番組で瀬央さんが陽気に挨拶していたが、瀬央さんのモーレツな清潔感というのは現実に「いまあなたの心に直接語りかけています……」というインターネットミームのような力を持つ。瀬央さんの声質は礼さんよりも澄んでいて、いつも心の底から朗らかだ(ほぼ素で出演されている『VERDAD!』では。この後、『モアー・ダンディズム』での綺城ひか理さんとのタンゴや、『グラン・カンタンテ!』での闘牛士の場面ではまた新しい表情を愉しませてくれた。)素で付き合うことがあればなおさら、こんな人は見たことがない……と孤立しがちな人ほど魅了されてしまうだろう。陽キャと言うのとも違う、心のドアを一瞬で吹き飛ばす宇宙的なすがしさ。瀬央さんが使徒だったらエヴァなんて第一週で終わっている(みんな補完されてしまう)。

このような清く正しく美しい外見と人格、芸風を、比類ない朗らかさで包んだ瀬央さんは、恐らく礼さんが欲しいものを健やかに備えたまぶしい半身なのだと思う。何より実際に礼さんの音楽学校時代からの親友である瀬央さんが、礼さんに寄り添った形で『VERDAD!』が行なわれて、本当によかった。これは今、また星組の構成が変わる節目である2022年の夏に心から思う。そもそも『VERDAD!』でようやく礼さんと瀬央さんが揃ったのは(『阿弖流為』以降これまで揃わなかったのは)、組が分かれて活動する編成になるときはいつでも、二人が組にとってそれぞれ比肩する技量の存在として重要な役を担ってきたからだ。瀬央さんがあの舞浜で短くも礼さんとコンビとなって、それが永遠に記録として残ったことが、ただ観ていただけの客にも幸せである。なぜなら、孤高の人が孤独を好むわけではないから。このように心強く見守る人々に囲まれて、礼真琴さんがとてもうれしそうに最後の曲を歌っていた。その軽やかに歌う『夜に駆ける』が胸を打つのは、そういう仕組みになっている。

そしてオーラスのアンコール曲『僕こそ音楽』で、「このままの僕を愛してほしい」と礼真琴はまたひとり、立ち尽くして歌う。見事に。こうまで歌われれば、観客は愛するだろう。


(恥)……というように、『VERDAD!』は本当にいい公演だった。しつらえはシンプルで、内容は外連味なく盛り沢山。礼真琴が歌ってメンバーが寄り添っていた。礼真琴の歌はこういうものなんだということが、よく伝わってきた。ぜひ何度でも、頭から、繰り返し観たいものだと思う(礼さんがよく言う円盤の宣伝)。あの夏は本当に楽しかった。




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