改めて「解釈」について
「自己実現」から「自他実現」へ ©1981cos-com No.3
しばらくぶりに note を書き始めたのですが、それはつい先日、「解釈と判断」について話すことになったのがきっかけでした。
なんと前回noteを書いたのは、2021年10月17日に「解釈を変えると世界が変わる(1)」という記事が最後で・・・いやはや3年以上も前なんてびっくりしました。
(1) ってつけていたのは書くことがたくさんあったはずなんですよね。
ただね、継続するってことは大事なのに、なぜ書かなくなったのか?書けなかったのか?
そこを掘り下げちゃうと「しなかった自分、できなかった自分」に焦点がいっちゃうから。
それよりも「解釈や判断」というテーマはずっと私の継続性の中にもあることだから。
そう考えて「いま」からの方が面白い話題になるということで書いていきたいと思います。
上記に関する反応だって、「言いわけしてる」とか「屁理屈だよな」という解釈もあれば、「そうか、確かに『形を継続すること』と『中身を継続すること』の違いってあるよな」という解釈もあるように思うのですが(^^
冒頭に書いた「解釈と判断」は「立場が違うと同じ話を聞いても解釈が違う」というという話でした。それは「親と子」「配偶者同士」「会社の序列」「社会的な地位」に照らし合わせて見るとわかりやすいと思うのですが。
たとえば今話題の「裏金」に関することだって、バレる前の「内輪の人たち」にとっては「多ければ多いほど作ったやつは手腕がいい」って解釈になるけど、バレちゃったあとは、国民がどう解釈するか?の思いにも至らないことだらけだよね。