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【掌編小説】10年目の亡霊
8月の茹だるような暑い日。ヤスオは今日も墓参りに来ていた。彼にはお盆も正月も関係ない、毎週のように先祖を祀る墓の前で手を合わせていた。
ヤスオは40歳を過ぎていたが未婚だった。両親が死んだのは10年前のこと。先に父親のミキオが病死し、母親が後を追うように交通事故で死んだ。
ヤスオは父親から墓参りをする習慣を植え付けられていた。義務的にやっているのではない。墓に参ることが彼の生活の一部になっていた。
「今日もお参りですか。若いのに感心ですなぁ」
墓守の北山が墓の掃除をするヤスオを背後から話しかけてきた。北山はもう70歳を過ぎていた。墓守の仕事をして50年近くになる。ヤスオの父・ミキオのこともよく知っていた。
「あぁ、北山さん、こんにちは。今日も暑いねー」
ヤスオは暑さで頭が回らず、ありきたりの挨拶を返した。
「あなたはなぜそんなにご先祖様を大切にされるのですかな」
北山は額の朝をタオルで拭いながら言った。
「なんでなんでしょうかね。ここに来ることが、ぼくの生活の中で当たり前みたいになってましてね」
ヤスオはまた返事にならないような返事をした。
確かにヤスオには墓参りをする明確な理由などなかった。だから改めて問われても、返答に困ってしまったことも事実だ。
「それが本来の人の行いなんでしょうなぁ。盆と正月、年に二回ほど慣例的な墓参りをされる人もたくさんおられるが、それではご先祖様の供養にはなりません。あなたにはきっとご先祖様のご加護がありますよ」
「いやいや、そんなことを期待してるわけじゃないんですよ」
北山は真面目な顔で言うから、ヤスオは謙遜してみせた。
ミキオも墓参りを欠かさない人だった。ヤスオは子供の頃から父に連れられて、散歩に出掛けるように墓場へと来ていた。北山はそのこともよく覚えていた。
「そう言えば今日はお盆ですなぁ。故人が現世に戻られる。お父様もあなたのお近くに来ておられますよ」
北山は懐かしそうな顔で言った。
「迷信ですよ、北山さん。でも親父は苦しまずに、眠るように死ねたんで、それはそれでよかったんでしょうね」
ミキオが病院で亡くなる間際、ベッドの上でうわ言を言っていたことをヤスオは覚えていた。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
ただただお礼の言葉を連呼しながら、黄泉の国へ旅立って行った。今思えば、だれに何のお礼を言っていたのだろうか・・・。
ヤスオはいつものように朝6時に起床し、会社へ出掛ける支度をしていた。いつものように食パンをかじって、いつものようにアパートの鍵を閉めて、いつものように駅への道を歩いていた。
青信号に変わったことを確認すると、ヤスオは大通りの交差点の横断歩道を渡ろうとした。大通りの中央辺りまで来て、ヤスオは不穏な雰囲気に気が付いた。自動車のエンジン音が近付いてくる。それも普通車のような音ではない。
横断歩道を渡る歩行者に、走行する車のエンジン音が聞こえることはない。それも少しずつ音が大きくなってくる。ヤスオは恐る恐る首をエンジン音がする方向に曲げてみた。
そこにはヤスオの体を一飲みしそうなばかでかい鯨のようなダンプカーが目前に迫っていた。ヤスオは咄嗟に逃げようとしたが、足がすくんで動かない。
「ダメだぁ、だれか、助けてっ!」
ヤスオはその言葉を発したが、周りの人は誰もどうしようもない。ヤスオは死を覚悟して目を閉じた。
「痛みを感じない。ぼくも黄泉の国に召されたのか」
ヤスオは少しずつ目を開けてみた。
眼前にはいつも見慣れた変わらぬ街並み。まだ自分は横断歩道に立っている。
「ここはどこだ」
ヤスオの鼻先から数センチメートル離れたところに、黒くペイントされたダンプカーが停まっていた。
ヤスオは全く状況が飲み込めなかった。自分は死んだはずなのに、なぜいつも歩いていた道路の上にいるのか、それに周りがやけに騒がしい。パトカーや救急車のサイレンの音が聞こえる。
「ぼくは助かったのか」
ダンプカーの運転手のよそ見だった。気が付いた時には赤信号に変わっていた。しかし運転手は人の姿に気が付いて急ブレーキを踏んだ。
「あなたが見たのは本当にこの人とは違う人なんだね」
封鎖された交差点はまだ緊迫した状況の余韻を残していた。駆けつけた警察官が、ダンプカーの運転手から事情聴取していた。
「この人じゃありませんよ。横断歩道のもっと手前に立ってて。しかも手を広げたまま体をにこっちに向けてて、逃げようとしなかったって言うか・・・。それにもっと年配の男性でした」
運転手はヤスオの前に人が立っていたと言う。その男性を見て急ブレーキを踏んだが、間に合わずにはねたと思ったらしい。しかし死体らしきものはどこにもない。
「あんた、一体何を見たんだ」
警察官は少し苛立ったように言った。そして運転手にはねたと思われる男性の姿を絵に描かせた。
「あぁぁぁぁっー」
運転手が描いた絵を見たヤスオは、悲鳴にも似た奇声を発した。
「どうしましたか」
「これは・・・、ぼくの父です。10年前に死んだぼくの父親ですっ!」
「なんだってぇ!」
警察官も運転手も驚きのあまり言葉を失った。
ヤスオの父・ミキオの霊がヤスオを救った?
そんなことが、果たして本当に起こるのだろうか。それは誰にもわからない。確かなことは、運転手が見た人物がミキオに酷似していたということだ。そんな偶然が起こりうるはずはない。
「そりゃ、危なかったねえ」
「よく間に合ったもんだ」
「神様は約束を守ってくださったんだね」
「息子さんはご先祖を大切にしているからなぁ」
北山はヤスオの先祖の墓の前で何やらぶつぶつと言っていた。まるで誰かと会話でもしているかのように。
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