パリのメーデーで催涙弾まみれになった話
天皇制と天井低すぎる問題
突然だが、僕は天皇制に反対している。ワナビーであってもアナーキストであり、人間は生まれながらにして平等である(べき)という信念を持っているので、それは当然のことである。天皇制に反対しているので、ここ最近のことについてはかなり憂鬱な気分で過ごしていると思われるかもしれないが、ところがどっこい、そうでもないのである。なぜかというと理由は明白で、4月末から一週間ほど日本を離れていたので、単純に触れる情報が少なくて済んだのである。より正確には、こんな期間を日本で過ごしていたら、ゲンナリした気持ちになることは火を見るよりも明らかだったので、あらかじめ避難することを数ヶ月前から決めていたのである。
そのような距離の取り方を採用することに賛否はあるだろう(「むしろ、そういう状況だからこそ、日本で何か行動するのが筋ではないか」みたいな)。しかし今年のはじめの時点で、(天皇制に限らず)日本の政治・社会状況に、もうかなり限界を感じていた、というのも事実ではある。
日本で生活することは、僕にとっては、自分の身長プラス1cmの高さに天井がある部屋で生活しているようなものである、ということを常々感じている。どういうことかというと、確かに生活はできるのだが、明らかに頭の上に圧迫感があり、ちょっと身体を伸ばしたり、ましてやジャンプやダンスなどしようものなら、すぐに痛い目にあう。そういう環境。痛い目を見ることがわかっているので、はじめから身体を少し曲げて生活したりする。さかしらな人たちは、「むしろそうしたほうが視界が広がって楽だよ」とのたまったりするが、彼らが身体を曲げるのに合わせて、むしろ天井は下がってくるように見える。そうこうしているうちに、また頭をぶつけ、鈍い痛みが走る。もうたくさんだ!ここから出してくれ!
冬季うつも加わっていたような気もするが、ともかく今年の冬はそのような閉塞感が本当にひどかった。一時的な旅行でもなんでもいい。さしてない預金残高を見つめながら、出発日の航空券を予約した。
パリのメーデーに参加してみた
さて、前置きが長くなったが、今回の旅ではドイツとフランスに行った。フランス、パリに来たのは、花の都を満喫するため、、、ではもちろんなく、デモである。5/1。Mayday 。1er Mai。この日はなんといってもメーデーの日なのである。メーデーは祝日であり、店舗もあまり営業していない。この日のパリにあって、デモに足を運ぶ以外にするべきことがあるのか、という感じで、現場を訪れた。
午前中、ドイツのフランクフルトから都市間鉄道であるICTに乗り、昼すぎにパリ東駅に到着。シェンゲン協定の加盟国なので、パスポートのチェックなどは一切なかった。パリ東駅では、パリ在住の日本人O本くんと合流。O本くんは、大学生時代の同期だが、いまはパリで大学院生(修士)をやっている。日本と違い、人権としての高等教育が保障されている国なので、学費は基本的に無料。フランス政府からの奨学金(外国人でも普通にもらえる。もちろん返済不要)と、前職で作った貯金で、わりと余裕のある学生生活を送っているようである。このあたりは、今後の参考にしたいところ。
さて、パリのメーデーは労働者のお祭りとしての側面が強く、もちろん個々に様々な主張はあるのだが、基本的にはピースフルな様子であった。
やはり白人が多いこともあって、アジア人としては多少の違和感もなくはなかったが、まぁそんなもんかなと思いつつ、行進に加わっていた。フランス最大の労働組合であるCGTの旗や、アナルコサンディカ系の組合であるCNT(ちなみにフランス語で「サンディカ」というのは「組合」を指す)や、その他膨大な数の市民運動グループや労働者、人民が大挙していた。
また、現場には黒づくめの格好をした人たちの集団が2種類いて、片方はブラックブロック。警察権力や商業主義(金儲けの象徴とされるグローバル企業や銀行など)に対して積極的な攻撃(破壊活動)を仕掛ける人たちで、もう一つのグループは、言うまでもなく武装した機動隊である。こちらの機動隊のフル武装具合はやばくて、そのまま戦場にも行けそうな気もするほどゴツい。こんなやつらに殴打されそうになったら秒速で転向する自信がある。
集まった人々は、それぞれ横断幕やプラカード、旗を掲げている人もいるし、例の「黄色いベスト」を着ている人もたくさんいるが、基本は普通の服装で、手ぶら。管楽器や打楽器でバカでかい音楽を流したり、踊ったり、思い出した時にコールをしたり、屋台の飯を食べたり、ビールを飲んだり、マクロン(大統領)の悪口が書かれたステッカーやポスターをその辺に貼ったり、信号機によじ登ったり、まぁそういう感じである。
ここは日本ではないので、大きな通りの車の通行が全て遮断され、全ての車線を使ってのびのびと歩くことができた。こういうこと一つとっても、日本との違いを実感する部分である。日本では、デモ申請をする際に、「ジグザグデモ、フランスデモ、渦巻き行進、過度な早足・遅足による行進は禁止する」みたいなことが書いてあるクソみたいな紙にサインさせられるのだが(札幌以外もそうですかね?)、ここでのフランスデモとは、道路いっぱいに広がって歩くデモのことである。しかし、道路の一車線しか使えない、ケチくさいスタイルのデモを「日本デモ」と呼べばいいのであって、いちいちフランスを特別視するような呼び方をするなと思わなくもない。
そして、不穏な事態に…
さて、とにもかくにもそのような平和的な状況で2、3kmほど歩き、終盤にさしかかってきた。このまま最後を迎えるのであろうか、と思っていたその時、前を歩いていた黒づくめの参加者が、メインのルートではない裏道を進もうとしていた。遠くを見ると、その道の先に機動隊がどんどん移動している。なんだろう。時おり、銃声のような爆発音(超デカい音)も遠くから聞こえる。
ともかく、デモ隊はのんびりした様子で、その裏道から坂の上の通り(デモの先端につながる近道である)に行こうとした。他の参加者にも「こっちおいでよ」と呼びかけており、それについてくる人たちと合流していた。ちなみにこの時、彼らはなぜか「レボリューション!レボリューション!」とコールしていた笑
そして、短い裏道を通った坂の上の道では、何があったのか、機動隊が道を封鎖している。もしや衝突でもあったのだろうか。不穏な空気。ここでも、散発的に銃声のような音が聞こえるが、位置は少し遠そうである。やはりこういう場面は気になる。
しかし、警察に道を封鎖されているので、なにができるわけでもない。ただその様子を眺めたり、写真や動画を撮っていた。ただ、なにか嫌な臭いのする煙がうっすらと漂っているのを感じて、手元の布で口元を覆ったりしていた。僕は、その時近くを通っていたおじさんが電動の一輪車のような不思議な乗り物に乗って移動しているのに気を取られていた。なんだろうあれ、変わった乗り物だな…と思った、その時。
近くにいた別のおじさんが、機動隊のほうに手を振りながら、「ストップ!ストップ!」と叫んだ。機動隊員の持っているランチャーのような武器が上を向いている。え、あれって…武器?
その後、何発か爆発音が鳴り、気付いた時にはもう遅かった。僕たちデモ隊の周囲に打ち込まれた催涙弾がもうもうと煙り、あたりは白くなっていたのである。「これはやばい。逃げないと」と思う間も無く、誰もが走り出していた。この時の様子は動画でも撮っていたので是非見て欲しい。混乱した様子が伝わると思う。
逃げながら、まずはじめに思ったのは、「喉がからい」ということであった。苦しくてゲホゲホせきこむのだが、いくら咳をしても、つらい状態は何も解消されない。うがいをしようとして、手元のペットボトルの水を口に含むのだが、何故だかうまくできず、ただただ吐き出してしまった。粘膜が攻撃されるようで、涙と鼻水が出てくる。たぶん、よだれも垂れていただろう。皮膚の薄くなっているまぶたの裏はヒリヒリしている。ゲホゲホせきこみ、息を吸う。息を吸うとふたたびガスが入ってきて余計に苦しくなる。ひたすら走って逃げる。逃げる途中にも呼吸をするので、苦しくなる。着ている服を口元に当てても何も変わらない。
当たり前の話だが、これまでの人生で催涙弾などというものは食らう機会などなかった。それゆえに知らなかったのだが、この武器の恐ろしい点は、呼吸すらまともにできなくなるということである。喘息発作のような状態になり、いくら吸っても楽にならないので、渦中では本当に生命の危険を感じた。とにかく、必死の思いでガスのない坂の下まで駆け下りた。
デモの舞台には、ボランティアとして救護を請け負っている人たちも参加していた。多くは水色や赤の十字マークをつけた服装をしており、デモ中に負傷した人へ対応をしてくれる。それはあらかじめ知っていたし、彼らが腰から下げているスプレー付きのボトルが、催涙ガスを中和するための道具だということも知っていたが、まさか自分がそれに助けられることになるとは…
あたりでガスを食らって苦しんでいる人に、片っ端からスプレーかけて回っていたお姉さんに声をかけ、顔に中和液を噴射してもらう。さらに、近くにいた別の参加者から、催涙ガス中和用の目薬をわけてもらい、点眼。この二つによって、状態はかなり緩和され、まともに話せる状態になったという感じである。
攻撃を受けてから、回復するまでの時間はせいぜい10分ほど。だから催涙ガス自体の効果が持続する時間はごく短いのだということもわかったが、それにしても、こんなに苦しいとは思わなかった。
さて、僕はわざわざパリくんだりまで来て、しかも上から下まで黒い格好をしていたのであるが、それはあわよくばブラックなブロックの行動に参加することを想定してのものだった。まぁせいぜい衝突している現場に行って、警察や銀行の窓に、石の一つでも投げつけてやればいいかと思っていたのである。
しかし、いざ現場に行ってみれば、そんなことはろくにできないどころか、何もしてないうちに警察から無差別・先制攻撃をくらい、一瞬で敗走したのであった。ゲームで言ったら、ステージ1のボス戦が始まった瞬間に、わけもわからぬまま即死。ゲームオーバー。
僕たちはその後、再び正規のデモルートに引き返して終着地点を目指したが、さきほどの「衝突地点」付近は警察によって封鎖されているのか、群衆は足止めを食らっていた。前線ではやはり催涙弾が放たれているようで、爆発音が聞こえ、白く煙っている様子が遠くから見えた。しばらくそれらを見ていたが、再び爆発音が響き、こちらにも催涙ガスが押し寄せてきたため、もはや逃げる以外の選択肢はなく、そこにいた大量の群衆が、デモコースから外れ、反対側の道から逃げ出していくこととなった。
この年のメーデーは、結局、参加者が終着地点までたどり着くことができずに終わったのであった。O本くんは、「パリのデモに参加することはたまにあるし、メーデーもよく来るけど、こんなことは初めてだ。何にもしてないデモ参加者に、あんな無差別攻撃を食らわせてくるなんて、警察のやり方は異常だし、報復したいほどだ」と興奮した様子で語っていた。我々のような善良な市民を、反警察の不穏分子に仕立て上げるとは、警察というのは悪い奴らである。
催涙弾を食らって考えたことについては、また別途記したいと思う。しかし、ともかくこのようにして、僕の初めてのパリのメーデー体験は幕を閉じたのであった。
この記事の続編↓
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