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第七回 『大人相談会』 / 劣等感との向き合い方

ある日、ぼうっとYouTubeを見ていると、ある俳優さんのインタビュー対談を見つけた。

今とても人気のある方で、私もファンなので興味深く拝見していると、彼がデビューまもない頃に感じた劣等感について話されていた。演技について何も知らない自分、できない自分のことを卑下しながらも、その時に監督からもらった言葉を糧に、これまで頑張ってきた、というようなお話しだった。

このときに聞いた「劣等感」という言葉がとても眩しく、懐かしい響きを持って私の心に刺さった。劣等感かぁ……。そう言えばここ何年も自分の中では忘れ去っていた言葉だ。それはなんだか途方もなくキラキラとした、まるで若さの特権のような、もう手に入らない期間限定の貴重な響きを纏っている気がしたのだ。


年を取ると否応なく少しずつ失くしていくものがある。体力、記憶力はもとより感情の部分の衰えの方が最近気になりだした。やる気が起きない、新しいことへの挑戦が億劫になってくる。そして「できなくなること」が増えるに従って「人と比べる」ということをしなくなった。できる人と自分を比べても仕方ない、それは気分が落ち込むだけだし、年齢だけではなく人それぞれ持って生まれた資質や環境の違いもあるのだから、「みんな違ってみんないい」だ。などと自分に都合のよい解釈にすり替えていた。

たくさんの経験を積んでいろんな学びを得ると同時に、人は自分にとって必要のない思考や概念を捨てたり変えたりしながら少しずつ生き方をカスタマイズしてゆく。自分にとって何が必要か、何が大切かを理解していく度にそれまでの価値観が上書きされて、自分だけの人生哲学が出来上がってゆく。それは「できなくなること」がだんだん増えていくのと比例するかのように、自分の生き方に対する信念の軸が太くなっていくことであり、自然と生きやすさ、在り方を定めていくと同時に自分自身を容認していくことでもある。反対に言うと、そうしなければ心も体もついていけないのだ。生きていくための論理的かつ合理的思考転換。それが年をとる、ということなのかもしれない。無理なことは無理と認めて初めて前を向ける。明日もなんとか生きていこうと頑張れる。特にこの2年近く続く禍の中では、物理的に停滞することがデフォルトだったこともあり、一層この思考が自分の中で肯定化されてきた感が強い。

そんなときに久しぶりに響いた「劣等感」という言葉。若い頃とは違った思考で、今この「劣等感」にもう一度向き合ったとき、これまでとは違った何かが見えてくるのではないかと直感的に感じた。大人たちの、今感じる「劣等感」とは。またそれとどう向き合っていくのかを聞いてみたい。


自慢じゃないが (いや、思いっきり自慢だけど) 私の主催するこの「大人相談会」のメンバーは皆、濃い (すまん)。只者ではない感が強い (マジで)。日本国内に留まらず、世界のあちこちから集まってくれた中身の濃い〜〜い人生を歩んでこられたメンバーさんたちによるトークセッションに、毎回私のちっぽけな思考や価値観が根底からガラッと覆されてワクワクする。

どこからどうみても、人格もキャリアも経験も十分兼ね備えていると思われる人でさえ、その長きにわたる海外生活のなかでいまだに感じるという劣等感や疎外感。「時々自分ではないキャラになっている」という違和感は、生まれたときからここ日本で暮らして、働いて結婚して(離婚したけど)子育てをしてきた私には初めて聞く自己認識の感覚にひたすら驚きを隠せない。

そんな風に感じるんだ……。そんな時は一体どのようにしてその渦の中から自分を救いだすのだろう? これは私などにとっては想像の枠を遥かに越えた、これまで感じたことのない未体験のお話だった。


ある人は数ヵ国語を自由に操り、文学や哲学に対しての造詣も深く、世界を股にかけて社会的貢献度の高い活動をしてこられた才女であるにも関わらず、「こんな風に日本人だけの中でコミュニケーションをとる場面が一番緊張する、劣等感とは違うけれど、自分の中ではとても大変なこと」などと想像もできないことを仰る。本人にとって何が当たり前で何が難しいことなのかは聞いてみないと本当に分からない。そしてその感情を「劣等感」という簡単な言葉では当然のことながら言い表せないのだな、と感慨深い。


幼少の頃から否応なく置かれた環境に順応するべく、精神が早く大人になったある方は、その早熟の過程にあった心の葛藤を見事に俯瞰して見ておられた。そこには、あって当然だと思われる劣等感や僻み、嫉みなどの感情はほとんどなく、それこそ人と比べることの無意味さを人生の早い段階で獲得し、他人の恵まれた生活に対して素直に「素晴らしいな」「美しいな」という感覚しか持たないと仰る。驚くと共にとても羨ましく、ひと回り以上年を取っている私でも、なかなかその境地には至れていないことにひたすら尊敬の念を持った。しかし当然のことながら、当時のご自分の幼い子供心には、言葉にできない複雑な思いがたくさんあったに違いない。「今考えると、当時の自分を『そんなに頑張らなくてもいいよ』と抱き締めたくなる」と優しい笑顔で仰った言葉が印象的で、胸が詰まる思いがした。


人と違う自分をいかに肯定するかという意味で、何か一つのことに秀でた才能があるのはとても恵まれているし「劣等感」という感情は生まれにくいような気がする。しかしそこには「自分の中にある、できない自分との戦い」という最も困難な課題があるようだ。

仕事でも趣味でも、一つのことに努力を重ね、実績を積み上げてきたことは周りの人達に認められ、そのまま自信に繋がる。しかし人生には思いもよらないターニングポイントというのが待ち受けているもの。抗えない状況の変化によって突然環境が変わったり、居場所を失ったりして、それまで積み上げた土台となる足元がぐらついて、自信喪失に陥るときもある。「消えたい」と思うこともあるだろう。

他人と比べるのではなく、自分自身の中にある劣等感をいかにして克服するか。乗り越えるにはメンタルのコントロールが必要だ。ダメな自分を否定したり抗うのではなく、そんな自分を受け入れ、とことん落ち込んでみる。行くところまで行かないと見えてこない光景は確かにある。怖がらず、腹を据えてそんな自分ととことん向き合うことも大人になる過程においては避けることのできない課題なのだろう。


そんな話の中、劣等感をプラスに変えるという意見が飛び出した。自分にとっての『圧倒的な存在』に出会ったとき、そこには劣等感は存在しない。手の届きそうもない、雲の上の存在のように圧倒的な憧れや尊敬を抱ける人を見つけたとき、その人と同じステージへ行って話してみたい、同じ目線で、同じテーマでコミュニケーションをとってみたいと思う心には負の感情は皆無だ。そこには希望があり、楽しみがある。「よし、やってやろうじゃないか!そう思いながら刀を研ぐ」と仰る。なんてステキ!これこそ大人が持つべき「豊かな劣等感」というものだ。


今回のテーマは少々重い過去の感情を呼び起こしたり、辛い出来事を思い出させてしまうかもしれないと始まる前は懸念していたが、それぞれの経験してきた思いや感情をシェアしていくうちに、大人になった今だからこそ、余裕と余白を持って、自分を大切にしながら楽しむための「豊かな劣等感」は持つべきだという着地点に辿り着いた。

経験と実績によって得られたマインドによって、マイナスをプラスに変える力が私たち大人にはある。そう思えば、顔を上げて明日も頑張ろうという力も湧いてくるのではないだろうか。


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今回はお二人の新しいメンバーさんが加わっての開催になりました。

参加してくださったメンバーさん、ありがとうございました。


*「大人相談会」は会員募集中です。詳しくはverdeのTwitterのDMまで。@verde88988252


#大人相談会 #コミュニケーション #劣等感 #とは








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