『小さな家の思想-方丈記を建築で読み解く』文春新書を出して⑮長尾重武
住みかへの執心 『小さな家の思想 方丈記を建築で読み解く』を読んで
|種田元晴………6 『建築ジャーナル』 2022年11月号 NO.1336
特集■「自邸とセルフビルド」
前号で書きましたように、『建築ジャーナル』 2022年11月号に種田元晴さんが、書評を書いて下さいました。種田元晴さんは、夭逝した詩人・立原道造の、建築家としての作品と思想を、若いうちに一冊の本にまとめ出版した優秀な研究者です。
今まで出た書評のうちで、最も長いもので、四〇〇字詰め原稿用紙七枚半ほどです。またこれまでに出た書評は、新聞、週刊誌、雑誌類ですが、いずれも、速報的なものが多かったのですが、ようやく、専門的な建築分野からの書評が出始めたのは著者としては大いにうれしく感じました。
それでは読みはじめましょう。
「鴨長明『方丈記』を建築の側から読み解いた本が出た。著者は、イタリア建築史家として高名な、詩人・ 俳人でもある長尾重武氏。近世イタリアの建築家を長年研究されるなかで獲得された、外国語を読み解いて、対象とする人物の内面としっかり向き合ってなされる追究の作法が、今度は和漢混淆の古語で書かれた中世 日本の歌人・鴨長明の言葉を相手に、じっくりと展開されている。」
私の紹介文としても、ちょっとはにかんでしまうような文章です。詩集2冊、俳句の本1冊(これについては、近じか書きたいと思っています)を出しているだけですから。
鴨長明の失意の生涯について、以下のようにみごとに要約しています。
「平安末期、鴨長明は京都・下鴨神社の最高位の神官の子として生まれ育った。しかし、不運にも若くして 父を亡くし、継ぐはずだった神職も失う。悲嘆にくれるなか大火、辻風、遷都、飢饉、地震の五大災厄に次々 と見舞われながらも、和歌と琵琶に才能を発揮し、後鳥羽上皇の目に留まるまでになる。やがて上皇の計ら いにより再び神官となるチャンスをつかむも、対抗者に阻まれ、ついぞ叶わなかった。絶望からか突如とし て出家し、山に籠って隠遁生活をはじめる。そして、小さく簡素な「方丈庵」を建てて、俗世への執心から 自己を解放し、安らかな死を迎える場を整えたのだった。」
そして、各章について 評者が興味を抱いた読みどころを紹介しています。第一章「「人と栖」の無常―『方丈記』のあらまし」は概要ですから、省略し、
「第二章「鴨長明の生涯」では、上記のような波乱に満ちた才人の半生を、長明のみならず藤原定家、源家 長、源実朝などの和歌を引きつつたどっている。詩、俳句を詠う長尾氏ならではの描き方だ。」と
これはちょっと嬉しい評ですね。第三章は、この本の最初の大事な箇所だと思っています。
「第三章「方丈庵に持ち込まれたモノ」では、「方丈庵」に置かれた最小限の持ち物に関する一節を丁寧に分 析し、「方丈庵」が、極楽浄土へと往生するための場所であったことを検証している。とくに、西側に安置さ れた阿弥陀如来の絵像が、阿弥陀単体を描くものではなく、観音菩薩、勢至菩薩とともに描かれた山越阿弥 陀図だったのではとの仮説など、仏画の作法を踏まえつつ、庵の設えを読み解く点に興奮した。絵画の図像 解釈による空間構成の把握は、イタリアの芸術に通じ、美大で建築を教えた長尾氏だからこそ持ちえた独自 の手法だといえそうだ。」
第四章は、いわば方丈庵の成立過程についての、ひとつの仮説の提出ですので同じく大切な部分です。
「第四章「方丈庵ができるまで―プロトタイプと完成形」では、様々なバージョンがある『方丈記』のうち、 略本『方丈記』が「方丈庵」建設前のラフスケッチであった可能性を検証している。敷地よりもまずは構造 と素材を決め、試作を経て、日野山での本設へと向かったと長尾氏はみる。記述のない屋根の最終形態につ いても、切妻であった可能性を推し、長明のルーツである神社の屋根形式にならって切妻に庇(向拝)を出 した形を想定した 3DCG を載せている。 長明の故郷の下鴨神社といえば、切妻の平側に向拝がつく流造で有名である。とすれば、平側に庇がつく のかと思いきや、長尾氏の CG では妻側に庇のついた春日造の姿が示されていたのも興味深い。」
最後の指摘は、とても興味深い観点で、こちらが驚かされています。第五章については、種田さんらしく、立原道造の連想が出てくるところが興味深いです。
「第五章「再生の地、日野山」では、「方丈庵」周囲の自然環境を「庭」と捉え、それが西側へと広くひらけ た、西方浄土を意識した敷地であったことが示される。この西方にひらけたさまから、後に十章で登場する 立原道造の小さな週末住宅「ヒアシンスハウス」をすぐさま連想した。浦和の別所沼畔の東側に計画された 「ヒアシンスハウス」も西にひらけた空間であった。「方丈庵」と同じく台所も風呂もない、文芸活動のため の空間である。文学者の半身をもち、本歌取りを得意とした建築家・立原道造は、「方丈庵」を想起しながら 「ヒアシンスハウス」をつくったのではないかと思えてくる。」
「第六章「『方丈記』のルーツ」では、『方丈記』以前の文学のなかの庵に着目する。とくに、慶滋保胤の『池 亭記』の記述が『方丈記』によく似ているとして詳述されている。『池亭記』の浄土信仰に基づく「往生の空 間」を描いた点に倣って『方丈記』が書かれたと、長尾氏はみている。歌人として、長明が先人の作品を本 歌取りするかのように随筆を書いたことは興味深い。」
なるほど、立原道造が出てきたことが、このように本歌取りでつながるところは、みごとですね。才人、種田氏が冴えます。
「第七章「方丈庵を継ぐもの―数寄の思想」は、「方丈庵」を音楽と信仰を両立させる「数寄の場所」と捉え て、数寄屋の一種である茶室へと連想し、茶匠・小堀遠州と「方丈庵」の関わりにも触れている。池亭や「方 丈庵」で水平展開されていた空間構成が、茶室のルーツである会所の代表例、金閣、銀閣で垂直展開されて いたとの指摘も鮮やかである。」
「第八章「江戸期の小さな家―芭蕉・良寛・北斎」では、松尾芭蕉の4つの庵、良寛和尚の3つの庵、葛飾 北斎の 93 回の引っ越しに触れ、そこで生まれた作品や臨終のあり方を「方丈庵」と照らし合わせながら読み 解いている。北斎の最期をミケランジェロへとつなげるくだりなど、豊かな連想がここでも発揮されている。」
「第九章「ソローの「森の家」」では、近代アメリカの思想家ヘンリー・D.ソローの手掛けた小さな「森の家」 での生活記と『方丈記』の呼応が語られる。本書ではしばしば、長尾氏の豊かな連想と博識による「遠いこ だま」が美しく響くが、本章はその最たる例であろう。」
「最後の第十章「現代の「小さな家」」では、立原道造「ヒアシンスハウス」、清家清「私の家」、増沢洵の九 坪ハウス、東孝光「塔の家」など、「方丈庵」に類する近代日本の建築家による小さな自邸が紹介されている。 現代の小屋にまつわる文献、アート、映画にも触れられている。」
そしてまとめの以下の文章が、かつて、種田氏が紹介していた鯨井勇作品と見ごとに呼応しているところがなかなかいいと思います。少し引用が多くなりました。これで終わりです。御免なさい。
「「方丈庵」はセルフビルドの自邸である。セルフビルドによる建築家の小さな自邸といえば、鯨井勇 氏の「プーライエ」も想起される。これについては筆者が以前、佐藤さとる『誰も知らない小さな国』 との連関から読み解いた(本誌 2019 年 10 月号掲載)。『誰も知らない小さな国』では、山に住む小人「こぼ しさま」と主人公のやり取りが主題となる。長尾氏は五章で、長明が小童とともに日野山の自然に遊び、 臨終までの活力を得たことにも触れているが、その姿は、佐藤のこの物語へも通じている。 とはいえ、建築家の自邸には、新しい住まい方の工夫をするなど、住みかへの積極的な愛着(執心) に満ち溢れている。この点、極力執心を消し去ろうと努めながらも、やむを得ず愛おしい、消極的な愛 着(執心)のまとわりつく「方丈庵」とは、似て非なる対極なものといえそうだ。 「方丈庵」を通じて、安寧なる暮らしを輝かせる建築とはなにかを考えさせられる一冊である。」