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自分の文章を少し振り返って

うずうずしていた。


とても書きたい気持ちはあったけれど
この1週間に書く余裕なんてものはどこにもなかった。

自分の好きなことだけを書くだけの人生だったのなら
書けたのかもしれないけれど、そうではないリアルがそこにはある。

ふつふつと書きたい気持ちを腹の底に溜めて
でも構成なんてものは僕の中に存在していなくて
タイミングを逃せば内容なんてものはすべて変わってしまう。

目的意識を持って書く文章は
気持ちが乗らないと書けなくて
結局のところいちばん書きやすいことは
自分の内側のおはなしだから
誰かに刺さることもなく
誰に読まれることもなくて過ぎ去っていく。

だから静かに
そっと自分に対して
言葉を並べていく。

なぜ発信するのかといえば
そんな言葉の連続でも「読まれたい」が並んでいるから。

矛盾だらけの中で生きている。
そういう人、この世界のどこかに、一人くらいいないかな。

見えない、知らない誰かを思って
言葉を紡ぐ。


「プレスリリースを書いてくれないか?」

突然のことだった。
いま働いている派遣の仕事先で
いきなり言われ、自分に「無理です」の選択肢などなく
「書いてくれないか?いや、書け」という指示。

いま入っているチームのリーダーが
なぜか自分の文章力を評価してくれていたらしく
「私が推薦しちゃいました!」とチャットで教えてくれた。

誰かの期待や評価を背負って書くのが難しいことくらい
過去の経験からそれなりに知っている。

また「怖いな」と思う。

プレスリリースはいまやっている仕事を他の人に渡してでも
僕に任せたいというらしい。
「いや、まだ、できますって言ってないけど」って
僕の内側ではボソボソつぶやいているけれど
人生で初めて、ちゃんとライティングの仕事をすることになりそうだ。


過去にプレスを書いていた時期はある。
それは明らかに人員不足で、僕が書かないと仕事が成り立たなくて
ほんと不安で書いたリリースを毎週月に7本前後書いていた。

「これでいいのかな」が常に頭をよぎる中で
世の中にニュースとして発信されていた自分が書いたリリース。
まさかまた、書くことになるなんて。


文章を初めて教わったのは専門学校の時だ。
僕はライターになりたくて専門学校に入って
文章講座を受けていたけれど
あの時に何を教わったのかって、いま思い出しても
当時教わった内容をまったく思い出せない。

講座が面白くなかったのか。
それとも自分に絶望してちゃんと内容が頭に入ってなかったのか。

確かに句読点とか、改行とか、センテンスがどうのこうのとか
その頃からしっかり意識するようになった気がするけれど
講師の人に教わった内容をそのまま落とし込んでいるというより
そこから結局自分が書きやすいようにアレンジしまくった結果
いまの「自分流」が出来上がったような。

自分にとって大きかったのは
19歳で出版社に入ってから
当時の上司から担当媒体のWeb記事を任されて
週に5本くらい書いては添削されたこと。

自分なりに先輩の記事を見ながら、見よう見まねで書くんだけれど
提出した文章は泣きたくなるほど朱字(赤字)が入っていて
最終的にはもう「自分の文章じゃなくて上司の文章じゃん」みたく
リライトされまくっていたのを覚えている。

あれは本当につらかったなぁ。
一度、あまりにもつらくて、あろうことか心が折れて
途中で帰ろうとしたとき、普段怒らない上司が初めて怒ったのは
たぶん一生忘れないくらいの出来事だったし、僕はそれくらいダメだった。

そうして3年くらい書き続けては添削される日々を過ごして
4年目を過ぎると提出した文章に入るアカはほぼゼロになっていた。

あのとき費やした「数」は
確かに自分にとっての経験値として
いまの僕を創ってくれたのかもしれない。

こうして久しぶりに振り返ってみると
ターニングポイントだったような気もする。


次に転職した先の出版社で「「文章力向上系の本」を買って読め!」とか
めちゃくちゃ言ってくる先輩がいた。
やたら偉そうで、忖度ばかりしていて、自分の保身しか考えてない人。

自分も小説家を目指していたとかなんとか言っていたけれど
コテコテのビジネス文章しか書けなくて、文章にまるで感情が見えなくて
「ああ、だから本を読めってこの人は言ってくるんだな」と思った。

その人にとっては「教科書のような文章が正解」だったから。

言葉を紡ぐことすべてが表現に繋がると思っている僕とは
相容れない考え方だったな、って。


いろんな角度から蓄積された僕の経験は確かにある。

けれど、僕は専門的に「文章を書く仕事」を任されたことはない。
だから物書きの人やライターさんからはバカにされるレベルだと自負しているし
ほんと大したことないし、自信なんて1ミリもない。

いや、そういう時期もあった。
それは誰かと比べることばかりしていた時期。

いまは、少しは自信があるというか、自負があるというか。
自分の書くことを信じることが、少しはできている。

それはたぶん、自分以外の誰かが
「あなたの書く文章は素敵だ」
「あなたの書く文章が好きだ」
「あなたの書く文章が読みたい」

たった数人だったとしても
そういうことを言ってくれる人が、確かに居たから。

その人たちと疎遠になったとしても
その人たちとの関わりが消えてしまったとしても
そこで受け取った言葉の熱は、僕の中で消えることはない。

自分がもらったその言葉たちを、信じ続けていれば。


生きていればそれはいろいろあって
間違うこと、失敗すること、失うこと、たくさんある。

それこそ、死にたくなることもある。

ただ、それでも、息をしている瞬間が
いま目の前に在るのなら
まだ何かできることがあるのかもしれない。

自分の人生なんて
死ぬ直前まで「どうだったか」なんてわからない。

生きていれば、できることも、ある。

どうせなら「表現」してから死にたいよ。
たぶんそれが、自分の中にあるほんとうの本音。

成功とか失敗とか
読まれるとか読まれないとか
ハートがひとつもつかないとか
誰にも見向きされないとか
批判されるとかされないとか
肯定されるとか否定されるとか
存在価値があるとかないとか

全部ぜんぶゼンブ置いて
表現してみたいよ。
表現してぇよ。
表現してから死にてぇよ。

死ぬほど怖いけど
表現したいって
ただ、それだけのこと。

また書こう。
自分の気の向くままに。

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