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なにも言えなかった "宗教3世"の本音
お父さんへ
あなたの言葉は、いつも否定的でしたね。
上手くいかないこと、失敗したこと、悩みについて
あなたに相談した時に決まって返ってくる言葉。
それは「ご本尊に祈らないからダメなんだよ、お前は」でした。
この言葉を、僕は生きてきた30数年間で、いったい何度言われたことでしょう。
祈らないお前は、ダメ。
祈らないからお前はダメ。
すべてはご本尊が決めること。
祈らないお前に、信仰心のないお前に、価値なんてない。
まるで、そんな言葉を投げ捨てられているかのような気持ちに、僕は何度思い悩んだことでしょうか。
とうとう、僕は、限界が来てしまって
ずっと自分の内側で留めていた想いを
誰に聞かれてもいいから、発信しようと思い、ここに、書いています。
もちろん誰にも届かないかもしれないし
「え、なに、キミは宗教3世なの?」と引かれるかもしれない。
書くのは怖い。
宗教批判だと、言われるかもしれない怖さ。
宗教に関わった人生を否定される怖さ。
今まで、大きな声で宗教と隣り合わせの人生だったことを言うことはできなかった。一般大衆的に、僕が入っている宗教団体はとても有名だし、たくさんの会員がいるけれど、社会に出てからというものの、その宗教団体に関しての良い噂を聞くことはほとんどなかったから。
いかに自分が「信じなさい」と言われたモノだけを見続けて、外界を閉ざして生きてきたかが、嫌というほどわかる瞬間が、何度もあった。
目の前でその宗教団体を批判する職場の同僚や先輩を見て、反論したくなる時もあった。それは、自分の信じていたものを否定されていたからだと思うけれど。
いまは、僕は、否定されたら「それは、そうだよね」と言ってしまうだろう。
自分なりに生きてきて、考え方も、捉え方も、変わったから。
「本当に、ご本尊だけを信じて生きていれば、自分らしい人生になるのだろうか」
ずっと信じ続けてきたからこそ、疑ったこと自体に悩み、もがき、自分自身で葛藤し続け、誰にも相談することなく、向き合い続けてきた。
今週の月曜日に、胸痛が悪化して病院へ。
そこから、胸痛を数日やり過ごして、今日改めて心臓のエコー検査をした。
結果は、至って正常。
とは、いかなかったらしくて。
今の自分の年齢にしては、心臓の動きが悪いのと
「右側の心臓の三尖弁逆流症の疑い」だった。
今すぐにはどうこうならないけれど、気にはなる結果だから
「半年後にもう一度検査しましょう」とのこと。
「ああ、とうとう来た」と思った。
もともと、幼少の頃から病弱だった。
大人になってからも「これは大病なんじゃないか」と思うような身体の異変が何度かあって、その度に検査するけれど「異常なし」と言われ続けてきたから、いつか大きなことが本当に起きるかもしれないと、心のどこかで思っていたから。
いま、何かを考えても仕方ない。
だけど、ふとした瞬間に、考えてしまう。
「怖い」と。
病院を後にして、自宅に帰ると、たまたま実家から父が車で来ていたので、検査結果を少し話そうと思って、車ごしに伝えた。
すると、そう。
冒頭の言葉が返ってくる。
心配する言葉でも、気を遣う言葉でもなく
ただただ、僕の日頃の行いすべてを否定する言葉。
「ご本尊に祈らないからダメなんだよお前は」
実家から離れて暮らすようになって、仕事も忙しくなったり、一人じゃない環境になったりする中で、僕は信仰から遠ざかっていた。
自宅に仏壇はあるし、何年祈らなくてもお経は覚えている。
幼少期から25歳くらいまで、ほとんど毎日お題目を唱えていたから
身体に染み込んでいる。
それが、今は、とても哀しく思えてしまうけれど。
心臓の検査結果を聞いて、僕を心配することなく、啖呵を切ったように出てくる父の言葉。
「今まで我慢してきたけど、お前最近全然お題目上げていないだろう。全部そのせいだぞ。やらないからこうなるんだ」
僕は、途中で会話を遮った。
なにも聞きたくなかったし、受け入れることもなかった。
どうして、純粋に心配してくれないの?
どうして、否定するような事ばかり言うの?
どうして、ありのままの僕を受け入れてくれないの?
僕の本音が心の奥底でじんわり広がって、父の言葉を打ち消していく。
信仰をしない、受け入れない、信心が無い実の子供は、価値がないのか。
言い方というものがあるんじゃないだろうか。
幼い頃から、ずっと否定され続けていた。
だからその反発で、否定されるような道に足を突っ込んだり、愛されたいが故に道を誤ったこともたくさんあった。
すべては、ただ、純粋に、「父親、母親に、純粋に愛されたかっただけ」だ。
どうして、それが、わからないんだろう。
この人は、僕の、息子の僕のなにを理解しているんだろう。
なにもわかっていないからこそ出てくる言葉。
言葉は、簡単だ。
言葉は、すぐに発せる。
だからこそ重いということを、父は理解していない。
僕よりも40年も長生きしているというのに。
「家族だから、言いたいことを言っていい」なんてこと、ないよね。
家族だからこそ、言葉を大切に扱って、想いを持って、言葉を交わす必要があるんじゃないのか。どうして、そんなにいつも、簡単に僕を否定するような言葉を平然と「お前が悪い」という顔で投げつけてくるんだろうか。
もう、僕には、理解できない。
そもそも理解したいとも、思えない。
実の父を、愛してはいるけれど、信頼していない。
実の息子から信頼されていない事実を、理解しているんだろうか。
その事実と、向き合ったことはあるんだろうか。
言葉が、止まらない。
誰かを批判しているのではなくて。
何かを批判しているのではなくて。
僕はただ、ただ、嘆いていて、哀れんでいて、かなしいだけ。
このカナシイという感情を抑えきれなくて、言葉にしているだけ。
わかるよ、わかる。
僕だって25年くらいは、純粋にその宗教を信仰していた。
疑うことなく、信じ切っていたから、信仰心が強いままであれば
僕も父の言葉をそのまま受け取って、反省して、またお題目をあげようとなっていたのかもしれない。
けれど、いまの僕には、父の言葉は、自分が感じる恐怖心を信仰に押し付けているだけのように聞こえた。
息子が若くして心臓の病気になりそうで、場合によっては死ぬかもしれない。
だけど、その理由を病気のせいにするのではなくて「信仰をちゃんとやっていないから」という転嫁をすることで、自分が安心したいだけなんじゃないのか、って。
別に、息子に信仰を促すのではなくても、自分が「祈っておくから、安静にしておきな」とか、言い方は、いくらでもあるんじゃないんだろうか。
いや、そもそも、僕が父に何かを期待していること自体が、大きな間違いなのかもしれない。なにひとつ、もう、期待などすることは誤りなのだろう。
僕は普通に、日々の生活に気をつけつつ、可能なら別のセカンドオピニオンを探して病院へ行き、食生活や運動を増やして自らの身体に対して健康を促し、できる限りのことをやって、それでもダメなら、純粋に死のタイミングを、自分のタイミングを受け入れようと思う。
今を生きることでしか、未来なんて視えてこない。
それは変わらないから。
支離滅裂に、いろいろ書いてしまったけれど
そのほとんどは、僕の父に対する想いだったか。
これを読んで誰かの何かが解決することなんてないし
ただ、ひとりの30代男性が葛藤していることを言葉にしただけだけれど
書き残すことで、僕はまた、前に進もうと思う。
もちろんまだ、近々では死ねないし、やることはあるし、守りたい人もいる。
人生は続くから、父から投げつけられた言葉を昇華して
また思い立ったら宗教3世の話も書こうとは思うけれど
いまは、ここまで。
できること、やっていこう。
ちゃんと自分の人生を、選んで、生きよう。
ただ、それだけ。