知ってることを知っている。魂の道標
うーん……やっぱりそうか……と、自分がこれまでも薄らわかっていたことを新しい光のもとに再認識する体験があった。
そうとはいえ、同時にそれは、今まで見てたのと異なる側面からのわたしを照らし出すものでもあったのだ。
おもしろいよね、知ってたものを、まったく別角度から知る感じ。
自分自身のエネルギーヴァイブレーションが大幅に変わるとき、新しい見地が必ず開ける。今にふさわしい、もっと深い情報が開示される。
それはこの世の枠内ではない、魂に関する情報なので、確信レベルでそうだろうなと根底で知ってはいても、「この世の私」は色々な複雑な思いや感情を抱いてたもんだ。
でも、それにしては、この人生がしっかりわしづかみにされるほど強烈に、そこから自分がどうしても離れられないので、
表層の私(今回の人生の個人と思ってる自己)の思いや要望、個人的人生に関して抱く期待群に関係なく、
この存在(わたし)の魂の望みは、本当はこれなのでは?
……と、わかってもいたのだった。
だけどそれを認めることは、あまりにも人間離れするようで。
それを認めたらそれなりに、わたしがやらなければならないことも多いので(意識をその道に沿って研鑽し、余分なものを手放し続けたりする作業)、
ああ……これを無視して、この人生のいち個人として、忘却の中でなあなあに過ごしていられたら。
そういう、いかにもエゴらしい発想も握りしめていたもんだ。
それでも自分の中に情熱屋さんがいて、それがわたしの魂で、
どうしたってそこから逃れられないのは、そいつが本体だからだ。
そしてまた、わたしは、真のよろこびは自分のその道に沿うことでしか感じられないことを、いやというほどわかってた。
ニセのよろこびか、真のよろこびかに異常なほど敏感なわたしのセンサーは、なぜ搭載されてるかといえば「何があってもこのことをやりたい!」という魂の熱意のゆえんなのだろう。
ああ、わかった、わかったよ、
あなたとわたしは同じひとつの「私」。
どうやったってどうせそこに戻ってしまうなら、
あなたの声をわたし自身のものとして全面的に受け入れようじゃないか。
そこに対する内的なケンカも口論もやめて、まるでそれは人生の苦難の予見なのじゃないかとおびえることもやめて、あなたの導くよろこびを受け入れる。
あなたの声だけを、わたし自身のものとして道標にしようじゃないか。
YOUR VOICE WILL GO WITH ME. THAT IS MINE, I MYSELF.