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ストックホルムの少女➀(暫定)


今回は多くの方が僕を知ってくださるきっかけになったであろう、ストックホルムの少女のツイートについて少し語ろうと思う

あのツイートについて言及するのは恐らくこの場限りになる。前回の記事を読んでくれた方は理解していただけると思うが、僕はあのツイートについて多くをダラダラと語るわけにはいかない

もう一つ、あまり触れない理由がある
以前にヘイリーのファッション(余談だが、僕と彼女はジャスティン&ヘイリーカップルに心酔している)を紹介したツイートがすこしバズったことがあり、その時に僕は「自分は実際にあったできごとを、ツイートを見た人に伝達したに過ぎない」という違和感をおぼえたのだ

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すごいのはヘイリーであるはずなのに、その投稿へのlikeに対して彼女の知り合いでもなんでもない赤の他人の僕が「ありがとうございます」と言うのはおかしな話だ、と。もちろん、自分はその情報とマスをつなぐ〈センスのいいメディア〉としてはいくらか機能したけれども

「サムい」という感覚と同じように、僕はこうした違和感を大事にしたい。このヘイリーの法則にのっとれば、今回のストックホルムの少女のツイートも、僕はパンを配る少女の風景を切り取って伝達したにすぎない。間違っても「likeありがとうございます」なんて絶対に言えないのである

それがたとえ350,000 likesだろうと

そう

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これが例のツイートのデータ(10/29現在)だ
途方もない数字である。日本に存在するアカウントが約4500万だというから、その3人に1人程度の方がツイートを目にしたことになる。これは言っていいのかわからないが、いくつかのメディア様からの取材もあった

今はまったく目を通せていない状況だが、基本的にDMはすべてお返しするつもりでいる

例のツイートをした翌日、朝起きて通知の異変に気付いた時、僕はまず最初にGoogleで「Twitter バズったら」と検索した(僕は何事もすぐGoogle先生にに尋ねる。最近では「しゃっくり 止め方」「コーラ 微妙に味違う」「爪 黒いやつ 原因」等)。するといくつかの共通するノウハウが浮かび上がった

ざっとまとめると

➀過去のツイート、プロフィールの見直し
➁返信のところでなにかを宣伝する
➂否定的なツイートに反応しない

といったところだ

➀に関してはこれを機にInstagramやnoteといったいくつかのsnsを始めてみた。忙しい上に色々あるボタンも怖くてまだほとんど何もしていない

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みんな、一体どこでsnsのやり方を学ぶんだ
ゲームの最初みたいに、snsにもチュートリアルのようなものがあってもいいと思う

さて、➁は何かを宣伝する、ということだ
前の記事でお伝えしたように、僕にとってsnsはあくまで〈言葉と思想、匿名性のある写真とできごと〉での発信をする場なので、実生活については然るべきときまで触れない。学生時代にアルバイトで大変お世話になり、今でも通うの焼肉屋を宣伝しようか、とも思った。けれど小さな規模のお店なので、『バズった店に待つのは破滅だけ』だ(一度限りの客が集まることで固定客や元々いた常連が離れる)。そこで僕は一番多くの人に伝えたいことについて散々頭を悩ませた結果、思想の宣伝、という結論にいきついた

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このツイートについて少し捕捉しておきたい

薄々勘づいている方もいるとは思うが、僕は内面世界をかなり重視している。肉体なんてほとんど思想や魂にこびりついているモノ、程度に思っている。これは外面の軽視ではない(ご存じ、僕はファッションをこよなく愛しているし、メンズメイク等も日常的に行っている)。ある程度のタイムリミットはあるものの、肉体と同じように、人生もまた自分の内面世界にひっついていくものだ、というほとんど信仰に近い価値観があるのだ

そうした中での言葉選びは簡単な作業だ。
僕は常に何かに対してほとんど怒りともいっていいほど溢れんばかりのつよい感情を抱いているので、それをギリギリまで抑え、それでいて得体の知れないなにかに届くように、知らん顔をした強烈な皮肉としてひっかき傷を残せるように、というような気持ちで言葉を選ぶ

会話も、この記事も、卒論だってそうだ。僕の所属していた学部は恐らく、日本でもトップクラスの文字量を誇る卒業論文を書かねばならないが、やはり僕の場合は先にその2倍の文字量を書き、そこから削りに削っていく、というやり方で進めるのだ

頭の中にうごめく感情の渦に比べたら、コトバはあまりにちっぽけな細いストローのようなものだ

〈奥でうごめく背景や感情をぐっと堪え、シンプルで簡潔な言葉にそれを匂わせる〉というのが優れたコトバ選びのやり方だろう

そんなわけで、あらためてツイートの内容については言及するなんてことはしない

僕はコトバの背景や、まったく言及していない部分に対しての補足はするが、そのコトバの目的自体への説明はできないのだ。何を言っているんだと思われるかもしれないが、これはある程度の前提となる知識や思想を共有していなければ説明するのが難しい。それでも簡単に説明すると、芸術の最大の魅力とは〈それぞれの解釈が真実となりうる〉ことなのだ。そしてミュージシャンにとっての芸術が楽曲であるように、少なくともsns上における僕にとってそれはコトバとなる

もしアーティストが曲の背景から歌詞の意味までをすべて解説しつくしてしまったら、この世に名曲なんて存在しないだろう。「優れた芸術作品は不完全である」という言葉に表されているように、人々の芸術への根本的な欲求は〈共感〉だ

曖昧さがあるからこそ、そこに意味の揺らぎが生まれ、人々に共感や自己投影の余地を生む

スポーツはどうだろう
団体戦に残るのは勝ち負けという結果のみだ。たとえば陸上選手にとってはタイムこそがすべてであり、100m10秒という結果が100m9秒という結果に勝つことなんてあってはいけない。練習によってタイムを縮められた、というような自己世界における文脈が意味合いを持つことは可能だが、その話は置いておこう

芸術という世界では、100m10秒という結果が100m9秒という結果に勝ってしまうのだ

遅いからこその意味が生まれ、唯一の価値を持つこれを僕は縦の尺度に対して横の尺度、と勝手に名付けている(x軸とy軸をイメージしていただけると分かりやすいだろう)

この考え方は小学生の頃、無理やり連れて行かれた父とその友人たちとのカラオケで、一人の酔っ払いに教わったものである

昔から酔っ払った大の男が苦手な僕は、その日も大人たちが騒ぎ立てる中、早く帰りたいと願いながら端っこでちびちびとジュースを飲んでいた

すると一人の酔っ払いがMr.childrenの「彩り」を歌い出した。僕は昔からMr.Childrenが大好きだったものの、個人的に『home』はあまり聴かず、「彩り」に対しても特に思い入れはなかった

いいさ
誰が褒めるでもないけど
小さなプライドをこの胸に 勲章みたいに付けて

僕のした単純作業が この世界を回り回って
まだ出会ったこともない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が 日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 少ないけど 赤 黄色 緑

その酔っ払いは泣きながら歌っていた。介護職の男性だった。音程もめちゃくちゃで、歌詞も所々間違っていたと思う。「これは俺のために作られた曲なんだ」と言っていた

そんなわけはないが、それはまぎれもなく真実だった。そしてそれは僕にとって、その後の自身の音楽活動も含めて人生最高の音楽体験だった

僕は今でもこの曲を聞くたびに、その瞬間のすべてを思い出すことができる。まだ若かった父、嚙みすぎてボコボコになったストロー、泣きながら歌う顔のない酔っぱらい。夏は永遠に続くと思っていたし、父は無敵だと思っていた

その時、僕には「自分の感想なんて、この世で好き勝手に生まれまくる解釈のひとつにすぎない」という〈芸術〉に対する偉大な記憶が刻まれた

もちろんこんな大袈裟な言葉じゃない。実際は「あ、ワイの感想なんてちっぽけやな」程度だ

なんとなく見えてきたのではないだろうか
芸術や内面世界で白黒をハッキリさせるなんていうのは無意味でナンセンスな行為だ

僕の敬愛する甲本ヒロトさんの好きな言葉がある

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「売れてるものが良いものなら、世界一美味いラーメンはカップヌードルだ」

ただでさえ偏差値だとか収入だとかで白黒をハッキリさせたがる社会で、芸術や内面世界だけはあいまいさを楽しめる場所であってほしい

これは余談だが、顔だとか収入だとかでパートナーを選ぶ、という行為に対する違和感もこの考え方で説明することができる。決して間違っているわけではないが、縦の尺度で説明できてしまう種類、ということだ。社会で生活する上で最低限の能力や責任感を測る水準としてそれはある程度有効だが、言ってしまえばそれは〈永遠に続く上位互換への妥協〉でしかなく、非常に困難で、不幸な生き方であることは間違いない

どんな豪華な食事よりも、気の知れた友人と食べる安い食事の方が美味しいということは誰もが到達する真理だが、誰もがそれを忘れてしまう

人生もまた、スポーツではなく芸術であって欲しいものだ

これはあのツイート自体についても言えることだ。特定のメッセージではなく、少女がパンを配る光景そのものがそれぞれの人にとって何かしらの意味を持ってくれると嬉しい

背景として、海外に行けないストレスや、選挙前ということ。負のエネルギーに溢れているSNS全体のムードにうんざりしていたことはあるが

あとハッキリ言っておく。僕は基本的に社会が嫌いだ。一人一人はいいが、〈社会〉になった時の愚かさと言ったらとんでもない。もちろんどこの国だろうと〈社会〉が愚かであることに違いないが、とりわけ日本のそれが持つ負の側面は最悪だ。こんなことを言ったらいつかこの部分だけ抜粋されて大バッシングを浴びるだろう

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愛国心を持つなら地球に持て
魂を国家に管理されるな

ちなみに俺は大麻なんて合法にしてしまえと思っている。大麻に比べたらタバコやアルコール、ギャンブルの方がよっぽどロクでもない。きっと利権絡みでうまく行かないのだろう。あと日本人は自分を持ってない人間が多すぎるから、きっと大麻も自制できないだろうな。そう考えるとこのままでいいか、面接付きの筆記試験でも設けてほしい。法を犯すつもりはない。全員で決めた法律を守る、それが偉大な法治国家だがら

今こそ「それ、まずいですよ」の出番かもしれない。ちなみに炎上したときは責任を持ってバッシング勢に対抗して戦っていただきたい。わざわざ肯定の言葉を伝える人が批判の言葉を口にする人よりも圧倒的に少ないのはこの社会の構造が抱える大きな問題である。かくいう僕もまさに批判的な言葉が人間の一番の得意分野であることを体現してしまっているのだが

今思い出してしまったが、僕は前回、高校生活とか大学生活とかそこら辺について書くと言っていたみたいだ。予告詐欺はこうして生まれるのか

次回はせっかくなので〈ストックホルムの少女➁〉と題して、今回のnoteがツイート自体の話だったのに対して、旅自体の話をしようと思う。そもそもなぜあんな場所にいて、パンを食べたのか食べてないのか、後日談等

あらかじめ言っておくと、まったくもって信用しないで欲しい。これを恒例のノリにしていこう。もっともらしい次回予告と、まったく違う内容を

ノリといえば、僕はお笑いが好きだ
ほとんど愛していると言っていい。人を笑わせて金を取るなんて、そんなことが合法的に認められているんだから。バラエティーも好きだ。ガキの使い、ざっくりハイタッチ、GANMI、今ちゃんの実は、タレント名鑑、テベコンヒーロ。あれ?ぜんぶ終わってる。有吉のサンドリもオードリーのオールナイトニッポンもダイアンのよなよなも最高だ。あ、これも終わってる、なんやねん

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なぜ最高の文化は終わるんだ
文化を大衆に合わせてしまったら終わりだという単純なことに気づく人間が業界内にいないのか、そういうことに気づく人間はお金がないのか


お気づきだろうが、もう僕の集中力は限界だ
ついでに膀胱も限界をむかえている

あ、➂について触れてないことに気付いた。けどもうみんな忘れてるだろ、そんなの

批判については前回の記事の発信と批判に関する部分を読んでいただきたい。クソ食らえ、だ

もう終わりにしよう

最後にじゃんけんでもしたいところだが、文字だと難しいので、せっかくここまで読んでくださった方には毎回僕が適当に選ぶ最高のカルチャーをひとつ紹介しようと思う。それは曲やアルバム、映画かもしれないし、本かもしれないし、カフェやレストランかもしれない

記念すべき第一回目となる今回は、、、

Alvvaysの「Archie, marry me」


深い意味はない。洋楽は歌詞なんて気にしなくてもいいと思うけど、この曲は歌詞も素敵なのでぜひ歌詞も頑張って和訳してみて欲しい。

今こそGoogle。よい夜を

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