【赤色巡りレポ⑤】 金沢・愛宕遊郭+主計茶屋街 【五遊郭の二、東廓の落し子】
前回の記事で、金沢随一の遊郭にして観光名所である、旧東廓についてご紹介した。
※東廓についてはこちら↓
今回は金沢の5つの遊郭の中でも、その東廓に伴って発展した2つ、愛宕遊郭と主計町について書いてみようと思う。
本当は全ての花街ごとに1記事にしていくべきなのだろうが、なんせ金沢には5つも遊郭があるし、今回の2つは東廓という母体から生まれた、いわば落し子という立ち位置が共通であるため、合わせて紹介させて頂きたい。
なお、以下は前記事でも掲載した地図だが、各遊郭の相互位置関係を把握するために、再度同じ地図を掲載しておく。
愛宕遊郭
まずは、東廓の北側に発展したという愛宕遊郭についてご紹介する。
現在の知名度で言えば主計町から紹介するのが自然なのだろうが、愛宕には東廓と切っても切れない関係があるのである。
以下の地図を見て頂きたい。
上地図には、現在のひがし茶屋街と愛宕遊郭、そして赤線としての愛宕と思しきエリアを書き込んでいる。
実は前記事の東廓でも、愛宕遊郭についてはしれっとこのように示していたのだが、よく見ると愛宕遊郭のエリアというのは現在のひがし茶屋街のエリアと重なっている。
これは現在のひがし茶屋街が東廓から整理された際に、北側に広がっていた愛宕遊郭を含めた形で形成されたからだと思われるが、そもそも愛宕遊郭に関しては他の遊郭に比べて資料が少ないので、あまりはっきりしたことが言えないのである。
金沢の古い地図に関しては、たとえば以下のページでいくつかを見ることができるが、地図によっては「愛宕」が「東新地(東廓)」の北にあったり、南にあったり、一定していない。
東廓内の町名が「愛宕○丁目」だった場所があったこともあり、また、東廓が整備されるより前にこの辺りが愛宕茶屋街と呼ばれていたという話もあり、情報が錯綜しているのは資料が失われたからだというだけではないのかもしれない。
(ちなみに愛宕という名前は、東廓の東にある卯辰山にある愛宕神社から来ているのではないかと思われる。)
昭和5年に刊行された「全国遊郭案内」には、東廓について「高い上町、安い下町」という区分が書かれているが、もしかしたらこれが時代が下って、東新地と愛宕にわかれたのかも知れない(しかし、この記述とは別に「愛宕」の名もあるので定かではない)。
また戦後の赤線を多く掲載した「全国女性街ガイド」には
と記されているが、明確な場所については情報がない。とはいえ、多くの店が繁栄した赤線であったことは事実のようだ。
以上を鑑みると、前回「東廓」の記事でご紹介した以下の建物などは、おそらく「愛宕遊郭」に所属していたものであろうと思われるが、現在は「ひがし茶屋街」に組み込まれているので、前記事にて取り上げることとした(ややこしいね)。
ただ、少なくとも戦後の赤線時代の「愛宕」は上地図のように、おそらく現在のひがし茶屋街よりも北に、さらに広がっていたのではないかと思われる。
また、赤線のそばには青線が出来やすいこともあるので、愛宕がどこまでのエリアを指していたかは、はっきりとは言えないというのが結論である。
資料の上では「はっきりとはわからない」が結論なのだが、実際に当地を歩いてみると、見えてくるものもある。
ひがし茶屋街から北に歩いていくと、だんだんと建物や風景の質が変わってくるのがわかるだろう。
茶屋風の総格子の建物は減っていき、赤線によくあるタイプの小さな町屋が増えてくる。道の幅も狭くなり、「隠された」場所の醸し出す、独特の雰囲気を感じられるようになるはずだ。
現在のひがし茶屋街と、それより北のエリアとの境には、金沢では人気の飲食店「加登長」の愛宕店がある。ここが現在、唯一「愛宕」の地名が残る場所だ。
(ちなみにこちらのお店、うどんも、金沢名物のハントンライスもとても美味しいらしいので、次回は訪問する予定だ。)
この加登長より北へ入ると、細い路地が迷走するように通る、古い町並みに入り込む。
この辺りが、現在一般的に「愛宕」があったであろうと言われているエリアだ。
赤線となる前から、格式高く値段も高い茶屋街であった東廓や主計町に比べ、庶民向けの(つまり安い)花街であった模様。
色街に近い側面もあったのであろうことは、この辺りの雰囲気の濃厚さから察することができるが、もちろん全ての建物が赤線関係であったわけではないだろうし、もちろん今では、どれも静かな住宅となっている。
いくつかの建物と風景を紹介しよう。
愛宕エリアで特筆すべきは、昭和ガラスと呼ばれる、柄の入った硝子窓の種類の多さだ。
昭和ならではの模様が入った美しい硝子戸は、花街跡では決して珍しくないが、1箇所におけるその種類の多さに関しては、愛宕は一、二を争う場所のように感じられた。
多くの美しい建物が古びて無人になっていく様を見るのは、心苦しいものがあるが、保全活用に力を入れている場所もある。
「愛宕」に関連するものかどうかはわからないが、加登長の裏手にある路地のひとつに、カフェなどに転用されている建物が多い場所がある。
今回はここにある喫茶店のひとつ、「金魚庵」に行ってきた。
名前にちなんだ、金魚のランプと赤い建物が目印。
引き戸を開けて中に入ると、視界いっぱいにレトロな空間が広がる。
赤い絨毯に重厚な家具、美しい雑貨や蓄音機……「大正浪漫喫茶」の名前の通り、レトロで華やかな美空間に息を呑むこと必至だ。
メニューも美しいもの、美味しいものが多く、女給さんが供してくれるその光景にはうっとりしてしまう。
今回はハントンライスと昔ながらの固めプリンを頂いた。大満足のおいしさだ。
「愛宕」エリアは寂れているように書かれることも多いが、人の手が入ればその本来の美しさを取り戻すことはまだまだ可能だ。
こういった取り組みは心から応援していきたい。
※金魚庵の公式HPはこちら↓
名残惜しく「愛宕」を歩いていたら、イソヒヨドリが飛んできて、良い声を響かせてくれた。
どこの地域でもそうだが、花街・色街の建物は、寂れるに任せるにはあまりに惜しい魅力を秘めているように思う。
主計町茶屋街
一方で、浅野川を挟んだひがし茶屋街の対岸には、ひがし茶屋街・にし茶屋街と並んで、現役の花街である主計町(かずえまち)茶屋街がある。
こちらも以下に、地図を示しておこう。
主計町は東廓や愛宕と比べ、エリアとしてはあまり広くない。
成立は明治期。東廓が繁栄しすぎて入りきらなくなったお茶屋が、浅野川大橋の対角線上の川沿いに立ち並ぶようになって形成された茶屋街であり、つまりその起源は東廓にあることになる。
「金沢には5つの遊郭があった」と言われるが、実際には主計町は遊郭であったことはなく、高級な花街として独立発展した独特の地域である。
前述の「全国遊郭案内」には以下のように書かれている。
主計町は高級な花街であり続けた一方で、前記事でも書いたように金沢においては芸妓は娼妓とほぼイコールでもあったため、ちょっと変わった遊びの容態に感じられたのであろう。
その「ちょっと変わった感じ」は町並みにも表れている。成り立ちと、川沿いという立地のゆえに、決して場末ではないのに、裏路地を駆使した不思議な作りと雰囲気になっているのだ。
「全国遊郭案内」には「檢番制度でもない」と書かれていたが、東廓・西廓と同様に、主計町にも検番があったらしい(東廓のように芸妓の出入りの制限まではされていなかったのではないかと思うが……)。
現在は主計町事務所として運用されているこの建物は、暗がり坂と呼ばれる坂の下、丁字路の小さな広場のようになった道に面して残っている。
主計町は周囲を塀や堀で囲われた「遊郭」ではなかったが、北側を浅野川、南側をちょっとした高台に挟まれており、天然の「くるわ」のような、隙間地形に栄えていた。
そのため、南側にはいくつか高台に登るための階段があり、特に「あかり坂」と「暗がり坂」は有名だ。
主計町は泉鏡花や五木寛之など、著名な作家の故郷でもあり、観光客向けではない、しっとりした雰囲気が染み渡っている。
この空気感は昼間でも十分に濃いが、日が暮れ始めるともっと濃厚になる。美しく艶っぽい主計町の夜景をご紹介したい。
やがてすっかり日が落ちると、世界はファンタジーのような幻想的な夜に沈む。
せっかく夜の主計町に舞い降りたので、川沿いの割烹「いち凛」さんにお邪魔してみた。リノベーションされたお茶屋の建物で、丁寧に調理された海の幸メインの懐石が頂ける。
静かな和の空間で、日本料理を頂く時間は至福だ。
また、この時の訪問では、「元お茶屋の古民家に一棟貸しで泊まれる」という、「かずえや」に宿泊した。
しっかりリノベーションされているので、冬でも寒いことはないし、水回りもストレスフリー。花街云々を抜きにしても楽しめる、美しいお宿だ。
日本家屋は周りの騒音が気になりがちだが、この一帯は街ごと静かなので、その心配もなく……文学的な気持ちの芽生えそうな、素敵な宿泊体験だった。
*
住宅街として色街の歴史からフェードアウトしていく愛宕と、花街として現役の主計町。ひっそりとしているのはどちらも共通しているが、その静寂の種類は全く異なっていた。
観光地としては東廓ことひがし茶屋街が注目されがちだが、その落し子である2つの赤色にも、是非注目してみてほしい。