故郷、ワラビスタンと呼ばれて
埼玉県蕨市。小さな頃に住んでいた街である。
転勤族だった我が家は、私が幼い頃は色々な場所に移り住んだものだが、そのうち最も長く住んだのがこの場所だった。
(正確には最寄駅が蕨駅の、川口市内ではあったのだが。)
最近、何かにつけて蕨市の名前を目にすることが増えた。
主に不法滞在のクルド人の多さについて、である。
ネット上では「ワラビスタン」などと揶揄され、ニュースになるようなトラブルも頻発し、すっかりそういった「ネタ」の土地として定着してしまっている。
川口に関しても同様で、主に西川口駅周辺を指してコリアタウンと化している様子を面白おかしく書き立てられていたりもする。
外国人の流入に関してはこれらの市に限ったことではないし、一部のトラブルや事件を除けば、悪いことばかりではないはずなのだが、あまりにそちらの話題が有名になりすぎて、20年以上前、外国人ネタが盛り上がるよりずっと前のあの場所の空気を知っている身としては少々寂しくもあり、今回、回顧録を残し公開しておこうと思った。
小学生時代の記憶なので、いくらか勘違いや誤りもあるかもしれないが、ご容赦願いたい。
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蕨駅はJR京浜東北線の駅で、西川口駅と南浦和駅の間にある。
決して大きくはない駅のはずだが、駅舎の規模としてはなかなかのサイズだ。
出入り口は西口と東口がある。
西口裏は寿司屋やラーメン屋などの飲食店に加え、いかがわしい店が多く立ち並び、ごちゃごちゃしていた記憶がある。
(最近火災が起きた、ストリップで有名な蕨ミニ劇場もこの一角である。)
調べたところ、この辺りには戦後闇市が立っていた歴史があるらしい。
大抵の闇市由来の繁華街の例に漏れることなく、ここにも、どこか暗がりを抱えた賑やかさがあった。
ちなみに、蕨駅西口前を線路に沿って北上すると、外国人の居住率の高さで有名な「芝園団地」がある。
20年前に私が一度遊びに行った時は、まだそれほど外国人が多いイメージはなかった。
いっぽう東口は駅前に大きな目抜通りが通り、自動車やタクシー、バスや自転車でいつも混雑している。東武のビルや大きなパチンコ屋、銀行やマックなどがずらりと立ち並び、県道111号にぶつかるまでこれが続く。
当時の私は、この通り沿いの31にアイスを買いに行くのが好きだった。
また、大通りから一本脇道に入ると、地元の人から頼られている小児科や、昔ながらのビデオ屋、毛糸玉などを売る手芸屋などもあり、決して地方都市にありがちなステレオタイプな大通りというわけでもなかったと思う。
ちなみに駅前通りに斜めに交差する道の中央を占める自転車置き場(蕨駅第1自転車置場)はなかなか壮観だったが、今も残っている模様。
目抜通り以外の駅前の細道は、西口前に負けず劣らずごちゃごちゃしており、カラオケや飲食店、ゲーセンなどが立ち並んでいた。
当時小学生の私はこの辺りに、友達とプリクラを撮りにきたり、須原屋という大きな本屋に本を買いに来たりしていた。
当時はよくわからなかったが、アダルト向けの風俗的な店もちらほらあったように記憶している。
蕨駅東口前から駅前通りを行くと、すぐに川口市に入る。県道111号の北側には竪川という名のどぶ川(昔から臭かった)があり、その向こうは住宅地。
Googleマップを見ても、川口市の芝地区は碁盤の目状に整形な町並みが独特だ。国土地理院の航空写真を見る限り、これは昔、このあたりが一面田んぼだった頃の畦道の名残のようだ。
県道235号線と産業道路に挟まれたエリアが最も整形な町並みで、南北に通る主な通りは銀座通り、さかえ通り、みゆき通りあたりだろうか。
大通りに面した家々の裏には大抵、人がすれ違うのにギリギリの細い道が通り、由来はわからないが「避難道」と呼ばれていたのを覚えている(マップ上で緑の細い1本線で描かれているのが避難道)。
各通りについての思い出を書いていく。
まずは銀座通り。戦後の蕨駅の発展に伴って発達したらしい商店街で、緑色に塗られた道と、おしゃれな街灯が印象的だった。
昔ながらの個人商店が多く、これが県道111号の北から市立芝小学校の西側まで続く様は、今思うとなかなかの規模だったと思う。
花屋や豆腐屋、ちょっとした商店やブティック、自転車屋、美容室などなど……堀代公園という住宅に囲まれた公園もあり、ここで今は亡き「ぐるぐる回る丸い鉄の遊具」を回しすぎて吹っ飛ばされた思い出がある。
通りの北の方には須賀神社という神社があり、夏の夜には夏祭りが催される。折ると光り出す腕輪が当時は物珍しく、何本も買って冷凍庫に保管していたものだ。
銀座通りの一本東、さかえ通りは主に住宅地だが、なぜか葬儀屋や仏壇屋が多かったので地元民からは「仏壇通り」と呼ばれていた。
当時から静かな通りだった。
流行っていたのか、多くの家の前にゴールドクレストを中心にした木樽の寄せ植えが置いてあったのを印象深く覚えている。
さらに東のみゆき通りは、銀座通りとはまた別方向にごちゃごちゃした通りで、県道111号沿いには悪臭のひどいペットショップがあったり、工業事務所があったり、可愛らしいケーキ屋や昔ながらの豆腐屋があったと思えば、大きな銭湯があり、空き地の横に何故かポツンとスナックがあったりする。
銭湯の中にはヴィーナスの誕生の絵があったような……。
今は斎場になっているが、この通りには「かじ公園(字は不明)」という大きな公園があったり、虫捕りをするのにちょうど良い空き地がいくつかあったので、よく遊びに行っていたが、今思い返しても統一感のない、変わった通りだった。
全ての通りから細い路地(舗装されていないものも多かった)が交差するようにあちこち伸び、その両側に長屋のようなバラックのような家が並んだり、古い文化住宅が建っており、そういう場所に住んでいる友人も多かった。
今でこそ、そういった「昭和レトロ」はディープな風景として怖がられたりもするが、私にとっては懐かしい風景だ。
当時の小学生たちは、これらの風景の間を「避難道」あるいは塀の上を駆使して動き回り、遊戯王カードやポケモンのフィギュアで遊んでいたものである。
この住宅地エリアのさらに東へ行くと、車通りの多い道があり、バッティングセンターや大きなスーパー、子供公園などがある。
このあたりは近隣の小学校の登下校路でもあり、当時はよくお世話になった。
Googleマップ上で緑の線で示される「避難道」はこの辺りにもランダムにあり、その道沿いに建つ廃屋のようなバラックは、よく怒鳴るお爺さんが住んでいたり、しょっちゅう犬の糞や人の吐瀉物が落ちていたりして、小学生ながらに薄気味悪く感じたりもした。
この地域にある市立芝小学校は歴史の長い学校で、古いながらも設備のしっかりした小学校だった。校舎前に立つ二宮金次郎像、校門近くの飼育小屋、校舎に沿って置かれた岩石の標本が印象的だ。
小学校よりさらに北へ行くと、新体操を習っていた幼稚園があり、産業道路があり、長徳寺があり、上谷沼調整池がある。
この辺りは車通りが多く、小さい頃は親から行くのを止められていたが、自転車を買ってもらってからは、行動範囲に入っていった。
長徳寺は臨済宗建長寺派の寺院で、足利基氏の祈願所として1300年代に開基されたらしい。もちろん当時はそんな歴史は知らず、「大きなお山にあるお寺」「墓場が怖い」くらいにしか思っていなかったが、どんぐりがたくさん拾えるので、小学生には人気な場所だった。
上谷沼調整池は広い運動場で、旧入間川の湿地帯であり、藤右衛門川の治水対策に作られたすり鉢状の設備だが、これも当時は全く知らず、「広い運動場のある公園」として、小学校のマラソン場として使っていた。
この辺りは近くの浦和宿の名物とされたうなぎが採れるらしく、親戚の集まりの時には沼の裏手にあった鰻屋に行ったりもした。
逆に県道111号より南へ行くと、新町と呼ばれていたちょっとあやしげな町並みの向こうに、今やクルド人のイベントで有名になった蕨市民公園や、小学生当時に建ったことでご近所を震撼させたイオンモールなどがある。
新町は夜になるとなんだか生き生きしてくる不思議な町並みだったが、それは蕨駅に近かったせいもあるかもしれない。芝地区と隣り合っているが、田舎の住宅地的な風景の芝と比べると、川口など都会寄りの風景だった気がする。
蕨市民公園やイオンモールも、当時は「おしゃれで現代的な場所」であり、出かけると少し大人になったような気がしたものだ。
ちなみに、この頃(90年代中頃)は蕨近辺で、クルド人やそれ以外の外国人と会った記憶は全くない。
……色々書き殴ってしまったが、まあ、こんな感じである。
ご近所の人たちと一緒に焚き火をしたり大縄跳びをしたりと牧歌的な一方で、明け方に家の前でやくざ屋さんが殴り合いをしていたりと、危険な側面も強い場所だった。
女児が一人で空き地で虫とりをしていても誘拐されない一方で、スナック前や公園の公衆トイレで変質者に声くらいはかけられる場所だった。
そんな、おそらく誰もが経験したことのあるような、田舎でも都会でもなく、安全でも危険でもない、ごちゃごちゃしたご近所の光景。
それが蕨〜川口の地域に20年前(ワラビスタンとして名を馳せる今より前、無名の時代に)、広がっていた風景だったと思う。
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印象的に覚えている光景がある。
芝や新町や蕨の公園で遊んでいると、夕暮れ時を迎えてあたりが薄暗くなってくる頃に、(今思うと)昭和レトロなデザインの白い街灯がぽつぽつと灯り始める、その道路沿いの歩道を、あちらにひとり、こちらにひとりと若い女性たちが歩いていく。
当時流行っていた明るい茶髪の、20代前半の日本人女性が多かった。
タイトスカートから伸びた足にパンプスを履き、ヒールの音を響かせながら駅の方向へ向かっていく、夕闇に浮かぶその脚の白さをぼんやり覚えている。
多くの人が駅から住宅街に歩いていく時間帯、その流れを逆行していくそんな女性をしばしば見かけた。
当時は少し不思議に思ったくらいの、日常的な夕暮れ時の風景。
今思えばそれは、水商売関係の女性たちの出勤風景だったのだろう。
蕨の駅前、あるいは川口あたりの繁華街で働く女性にとって、上記の地域は当時ベッドタウンだったのだ。
人波に逆行する女性がほの白く輝く時間、女児の私はそれを横目に見ながら帰途についたものだ。
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これまでも何度か記事にしているが、私の家には虐待や性暴力があったので、家は決して幸せな場所ではなかった。
それでもその地域においては恵まれている家だったはずだし、両親の離婚話が持ち上がるまでは物的・金銭的に不自由することもなかった。
私は草花や昆虫などの自然と触れ合うことで癒され、友達と遊ぶことで自己を育てーー雑多な町で、愛憎まみれた雑多な感情を抱いて育った。
今もこの「ふるさと」の空気は懐かしく、一方で苦痛に沈んだ子供時代を思い出したくなくて、どうしても再訪できない場所でもある。
小学校時代の途中で関西に引っ越してからは、比較的静かで新しい住宅街に住み、こういった雑多な風景とは長らく無縁だった。
だが、最近花街巡りで何度か尼崎周辺を訪れた際、風景から感じる雰囲気の類似性にくらくらした。
懐かしさに胸が締め付けられ、そして気が付いた。
この類の場所に漂う雑多な空気……癒しと苦痛が隣り合わせる空気への狂おしい思いが、おそらく私を花街巡りに掻き立てている。
あの手の跡地に特有のあやしげな空気の中に立った時、体を包む感覚は郷愁だ。
帰れない故郷の代わりに、私はあの「危機感と親密さ」の入り混じった独特の空気を味わいに、足繁く花街跡に出掛けているのだろう……。
……それにしても。
今回記事にするためにGoogleストリートビューをじっくり見たが、20年以上前の記憶と比べても、ほとんど街並みが(空き地も含め)変わっていないことには心底驚いた。
再開発で大きく変わることもなく、かと言って寂れ廃れるわけでもなく(むしろ当時寂れているように見えたスナックやバッティングセンターは綺麗にリノベされ現存していた)。
あちこちの都市が廃墟化している現代、蕨はなかなか底力のある街のようである。