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2.パチンコの射幸性
宝くじや公営ギャンブルよりもかなり低いレベルと言われているが、そもそも射幸性というのは、風営法第二条第一項第四号によれば『偶然に財産的利益を得ようとする欲心』
だが、257万人の依存症2674件の事件、個人の問題だということもあるが、「誰の金も使いたいです。助けてやってもまた使う。金は命を削る麻薬。
また昔からの噂で、パチンコ業界から北朝鮮に資金が流れている」ということもあったが、もはや過去の話で、現在は当たらないだろう。
過去には、資金は定期的に日本と北朝鮮の交流船であった「万景峰号」に乗っけて運ばられ、北朝鮮に現金で届けていた。この送金額は年間数百億円に及んだとされている。朝鮮総連が在日北朝鮮人の歌劇団である「金剛山歌劇団」の公演を全国で行うことで各地方の在日商工団体が公演に合わせて募金を募る。この規模は一回あたり10〜20億円規模に及ぶこともあったらしい。
パチンコの戦後の復興は、農村部などに残っていた戦前の遊技機を改造して営業するところから始まります。 昭和20年代の半ばには、今でも「パチンコの神様」といわれる正村竹一氏が、現在のパチンコの基本となる画期的な釘配列「正村ゲージ」を考案しました。現在のパチンコのルーツは諸説あります。かつては、大正時代に欧米から輸入された「コリントゲーム」や「バガテル」といったゲーム機が原点といわれていました。最近では、こうした横に寝ている仕様ではなく、パチンコのように縦型のゲーム機が欧州各地に点在していたことが分かり、こちらをルーツとする考え方が主流になっています。
うしたゲーム機を露店商が扱い、縁日などに置いたことがパチンコ業の始まりです。昭和に入ると一銭銅貨をはじくタイプの遊技機が人気を博しましたが、皇室の御紋の入った硬貨を遊技に使用するのはまかりならないと言う理由で禁止令が出されると、今度は模擬硬貨としてメダルを使うものや、玉を直接入れて遊ぶ遊技機に変化。またアメや駄菓子といった子供向けの景品がタバコなどに変化したことで大人にも好まれるようになりました。しかし、太平洋戦争に突入してからは、「不要不急の産業」として禁止の憂き目に遭います。金属供出でお寺の鐘や家庭の鍋釜まで回収された時代ですので、パチンコ玉なども当然のように供出され、営業したくてもできない状態でした。
バラ釘と呼ばれる釘配列の間を玉がコばれる釘配列の間を玉がコトコトと落ちていくパチンコ機が一変し、スリルと意外性という遊びとしての面白さが増した結果、第一次パチンコブームと呼ばれる活況を呈していきます。さらに、昭和20年代の後半には、玉をひとつずつ入れてハンドルを弾く単発式から、現在のような玉皿から自動的に玉が送り込まれる連発式が登場。この時の連発式は、1分間に140〜160個の玉を発射できることなどからパチンコブームはさらに加速し、最盛期には全国に4万5,000軒以上が林立しました。しかし、この連発式でもってパチンコ自体の射幸性も跳ね上がり、結果、プレイヤーが大量に獲得した賞品を路上などで買い取る通称「バイ人」がホールの回りをうろつくようになりました。さらに、一度に負ける金額が多くなったことなどで社会的な批判が高まり、昭和29年にこの連発式には禁止措置が打ち出されてしまいます。翌30年4月からは、旧来の単発式による営業が強いられ、全国のホールの軒数は一気に1万軒を割り込んでしまいます。当時のパチンコ機メーカーは、こうした反省を踏まえて射幸性に頼らない遊技機の開発に乗り出し、昭和30年代にはジンミットやチューリップといった遊びのアクセントとなる「ヤクモノ」が登場。また、昭和30年代の雀球のほか、40年頃には今のパチスロ機の原型となる「オリンピアマシン」など、新タイプの遊技機が登場します。さらにこの頃には、玉貸機や玉の補給装置といった省力化機器の発達が後押しし、店舗の大型化も進行しました。ブームの終わった郊外のボーリング場が続々とホールに鞍替えする現象もみられました。これを機に、ホールも当時のモータリゼーションの流れに反応して郊外型店舗を伸張させていきます。並行して、電動ハンドルや電子基板の搭載など、社会的なエレクトロニクス化の動きも一早く取り入れました。しかしこうした努力を行っても、連発式の禁止後のホール軒数は20数年の長きに渡って1万軒前後で推移するという状態が続いたままでした。こうした状況を打破したのが、昭和55(1980)年に登場した「フィーバー機」。社会の経済発展に連動するかたちで射幸性もあがり、その後、年間で数百軒ずつホールが増えるという空前のブームを作り出します。昭和56(1981)年に登場した「ハネ物」もかなりの人気を博したほか、雀球やアレンジボール、さらにはパチスロ機といったように遊技機のバリエーションも増し、大衆娯楽としての人気を不動のものにしていきます。
平成に入ってもその好調さは続き、プリペイドカード方式の導入や遊技機へのカラーモニター搭載など技術革新もどんどん進んだ結果、ホールの市場規模は実に30兆円にも達する巨大産業に成長しました。しかし、好調に映るパチンコ業界には、かつての連発式禁止令とほぼ同様の展開が待ち受けていました。プレイヤーののめり込みに起因するホール駐車場での幼児の事故や多重債務問題、さらには変造プリペイドカードの横行などが社会問題になり、行政による規制、そして業界団体による自主規制などが設けられ、規模縮小を余儀なくされたのです。結果、平成7(1995)年の1万8,000軒をピークに25年連続で減少し、現在のホール数は約9,000軒になっています。市場規模も縮小傾向にあります。
近年はプレイヤー人口の回復に向けて、1円パチンコに代表される低価貸営業による遊びやすい環境の整備や、幅広い層に支持されるエンターテインメント性を重視した遊技機の開発なども積極的に行われていますが、数値的な回復には至っていないのが現状です。
フィーバー(FEVER)は、日本のパチンコ機器メーカーの三共(SANKYO)が開発したパチンコ台のシステム、およびそのシステムを採用したパチンコ台のシリーズ名であり、同社の登録商標。スタートと呼ばれる入賞口に球が入ると、中央に設置されたドラムが回転し、図柄が揃うと大当たりとなり、中央下部の大きな入賞口が一定時間開放され続けるシステム。現在主流であるデジパチの起源となった。
一発台(いっぱつだい)とは、パチンコ店(ホール)における営業方針(遊技方法)として定められた、パチンコ台のジャンルのひとつ。特定の入賞口へ玉が一発でも入賞、もしくは大当たりの状態が獲得できれば、パチンコ店(ホール)の定める規定数まで出玉を獲得し続けることが可能なゲーム性を有する。
パチンコ台は、その開発に当たって規則上デジパチ・羽根物・権利物・一般電役・普通機などに分類される。
パチンコで人生を失ってはいけません縄があるからクビくくる。包丁があるから刺す。山があるから登る。パチンコがあるから、競馬があるから、ギャンブルする。貸すから借りる。環境の性のしますか。私も借金で、破産宣告をしました。借金をチャラにして生きています。お金で死んではいけません。責任かの強い人ほどよくハマりやすく自死しやすいのです。