炎のランナー 原題「火の戦車」踵に翼を持つ青年
「炎のランナー・火の戦車」
1924年パリオリンピックにおいて、100m はハロルド・エイブラハム(イギリス)10秒6で金メダル。400mエリック・リデル(イギリス)47秒で金メダル。
800mは、ダグラス・ロウ(イギリス)1分52秒4で金メダルとイギリス勢の強い年であった。この映画はそのときの出来事である。
リデルとハロルドは100mで対決するはずだった。二人ともイギリス代表であったが、走る意義、目的が違うのであった。安息日を理由にオリンピックの決勝をボイコットするリデル。この映画が信仰を表していて、どこに感動するのか、日本人にはわかりにくいかもしれない。オリンピックは国の代表である。欠番になつたシーンに、「国が個人を競い合わせるなんて悪魔の所業である」という場面は欠番となったが、受け止めてかたは、人それぞれである。だがスポーツのいいところは人生に似ている。ルールの中で一生懸命に生きる姿に勇気と感動をみるのである。オリンピックが平和の祭典といわれる所以なのだ。
『炎のランナー』
(原題 "Chariots of Fire")という映画が、長いこと、陸上競技の映画だと思っていた。陸上競技を背景に使った信仰に関する映画だということに気づいた。日本語の映画紹介では、この映画を陸上競技の映画として紹介している。海外の映画紹介では、信仰を題材にした映画であると紹介している
ストーリーは、
1924年のパリ・オリンピックを舞台に、英国を代表する二人の実在の短距離ランナーを主人公にした。映画でイギリス系ユダヤ人としてのアイデンティティの葛藤からユダヤ人のプライドをかけてオリンピックで勝利することを目指しているハロルド。宣教師としてのミッションへを守りながら神への栄光と感謝の為に走る喜びを感じながら走るリデルとの二人の短距離走者としての違いが映画を面白くしている。
主人公の一人、ハロルド・エイブラハムズ(ベン・クロス)は、ケンブリッジ大学に在籍するユダヤ系英国人で、ユダヤ人差別を撥ね返すために、名門大学でトップ・ランナーを目指すという、自分の栄光をひたすら追求する青年ですもう一人の主人公、エリック・リデル(イアン・チャールソン)は、スコットランド人で、中国での伝道に携わる宣教師を目指しつつも、駿足を買われて周りからランナーとして押し上げられ、神の栄光を輝かすために走るということに、心からの喜びを感じている青年です。この映画は、二人の青年を通して訴えかけています。ハロルドは、自分の栄光のために、常に苦しみながら勝利を追求しますが、エリックは、神の栄光のために、常に喜びながら勝利を追求します特にエリックがレースで走るシーンでは、ゴールに近づくにつれ、微笑みながら軽く天を仰ぐように上を向きながらゴールインする表情が大変印象的で、彼が神の栄光を輝かすために走っていることが、観る者に強く伝わってきます。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造りこれを造ったという者がいる。ストーリーの終盤は、この二人のランナーが、パリ・オリンピックの100メートル走で直接激突することになるのですが、ハロルドは、プロのトレーナーを雇い、苦しい練習を重ねます。エリックは地元の教会などで福音メッセージをしながら練習を重ねるなど、いつものペースを崩しません。ところが、レースが間近になって、この100メートル走の予選が日曜日に実施されることが明らかになると、エリックは、安息日には走らないというキリスト者として妥協をしない決断を下し、その決断をそれをオリンピック実行委員会に伝えます。驚いた委員会は、ハロルドとエリックの直接対決という最大の見せ場を失う恐れから、エリックを呼び出し、英国皇室サイドの圧力も利用して力ずくで翻意をうながします。しかし、エリックは譲りません。委員会の大物が、お前が言っていることは単なるわがままだと言って最後通牒的な脅しをかけると、エリックは誰も個人の信仰を踏みにじることはできないとします。結局、エリックの同僚の中距離走者が、木曜日に実施される400メートル走のポジションを彼に譲ることを申し出て、ようやく混乱が収まります。ハロルドは100メートルを、走りエリックは400メートルを走り、それぞれ二人とも優勝します。この後で、ハロルドはオリンピックで優勝したが、なぜか虚しさを感じる。コーチと酒を飲んでも、喜びが感じられない。エリックは優勝を素直に喜び、喜びに満ちたまま、宣教師として中国に赴きます。(チョツト寄り道(この映画の原題について-"Chariots of Fire"「火の戦車」の意味は、聖書のことばからの引用です。イスラエルの王に仕えていた預言者エリシャが、敵国アラムの軍隊に包囲された際に、神様がエリシャに、無数の火の馬と火の戦車を援軍として送られたくだりです。
神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。これが火の戦車です。)
いよいよフランスで第8回オリンピックに参加する事になったが、ハロルドはじぶんにとつて走ることは信仰であると、ハロルドは、100m走が日曜日に行われると知って信仰の為、安息日には走らないと決断するが、フランス到着まで秘密にするようにいわれる。妹ジエニーの心配は伝導の道を忘れてしまうのではないか、ミッションを、続けないのではないかと心配して走るのをやめるように説徳するのだが、エリックは走り続ける。エリック・リデルのユダヤ人としての安息日を守ることを変えない。それでエリックは木曜日の400mに出場することになる1924年に起きた。安息日における競技拒否。「信念の人」か「狂信の人」大論争となる。まだ20代の若者達が、スタートラインに並び、勝つこと一着になることが目標だった。そして目的を果たした今。すべては虚しい。お守りを首から下げて走る。スタート台をヘラで作りウオーミングアップ開始六人の代表がスタートする。100mはハロルドの勝利だ。
400mはどうだろう。リデルには奇跡を起こす何かが、あると言われている。ゴールに向かうもの、の内から力はでる宣教は神の計画であり走ることが喜びであった。
ユダヤ人のハロルドエイブラハムは弁護士でありジャーナリスト。イギリススポーツ界の長老1971年1月死亡した。
エリック・リデル 宣教師任地中国大陸で死去。スコットランド全土が喪に服した。
新約聖書で提示されている「罪」からの解放を頑なに拒絶したまま、旧約聖書で提示されている「罪」の問題とは何か
自分の力で克服しようとするユダヤ教徒の立場が、「罪」がもたらす底なしの苦しみを象徴すのか。旧約聖書で提示されている「罪」が、新約聖書で提示されている通り、イエス・キリストによってすでにつぐなわれているということを素直に受け入れ、それに感謝しているキリスト者の立場にいるのか。安息日を守ることに固執しているのは何故か。イスラエル人がいずれ、聖書の予言通り、神殿の再建を果たす日が来るのだろうか、それにはどれほどの犠牲が必要なのか。私の行く道は自分て選んで進んでいる道なのか主の導き7日わからない。中国への宣教師の道は神の使命と思ってはいるが、オリンピックに出て優勝するのもまた主の栄光を表す神技だとも思う。オリンピックは日曜日に開催される。安息日である。私は走るのをやめた。安息日だからである。しかしながらキリストは安息日にも癒しをおこなつていた。彼は宣教師という立場にある。周りの説得に屈することなく、信じた道を進むということが大事だなのだ。信仰は時に、試されるのだが、それを知ることは難しい。だが解決策は神が示される。あなたの信仰が守られるために。どんなときも主はあなたの右におられ道を指し示めしているのだ。私は主に試されて、これを乗り越えたのである。ここに火の戦車は、完成して炎のランナーは進むのである。