中国の水産物輸入停止 本当に「政治的な目的」なの?
「立場」10連発
ジャカルタで岸田首相と中国の李強首相が立ち話をしました。もちろん、時候の挨拶ではありません。福島第一原発からの処理水放出に反発した中国政府が、日本からの水産物を全面的に輸入停止にするという強硬措置を打ち出しているさなかです。日本政府としては措置の見直しを働きかける重要な機会でした。本来であれば双方が着席しての公式な会談が開かれることが望ましかったですが、たとえ立ち話でも、何も言葉が交わされないよりはずっといいでしょう。
読売新聞によれば、岸田首相は「李氏が(会議の)控室に入ったとの情報を耳にすると、食べかけの弁当を残して控室に急いだ」とのこと。いいですね、こういうリアルな描写。日本側の意気込みが伝わってきます。
そして、世の関心は、弁当が食べかけのまま捨てられたのかではなく、岸田首相がどれだけ強い姿勢で中国に措置の緩和や撤回を求めたのかに集まります。ジャカルタにいる記者たちもその点を繰り返し尋ねました。
が、岸田首相は何度聞かれても「日本の立場を申し上げた」と繰り返し、短い記者会見は終了。
官邸のHPに会見の字起こしが掲載されています。岸田首相の言い回しは「立場を申し上げた」や「基本的な立場について説明をした」など、いくつかバリエーションがあるので、「立場」という単語に絞って、その登場回数をカウントしてみました。
合計、10回。
字起こしを読むと分かるように、記者たちは両首相の具体的なやり取りを聞き出そうとはしましたが、岸田首相は「立場」を連呼するにとどめました。中国側を過度に刺激しないように、という思惑からでしょう。各メディアの見出しは岸田首相が李強首相に輸入停止措置の即時撤廃を求めた、で横並びなのをみると、いわゆるバックグラウンド・ブリーフィングで官邸側から「会見ではああいう説明で終わったけど、立ち話ではちゃんと撤廃を求めたよ」とレクチャーがあったのでしょう。
李強首相の胸中やいかに
岸田首相が言うべきことは言ったとなると、焦点は李強首相の反応です。彼は中国共産党内の序列は2位。習近平国家主席の次…で間違いはないのですが、いかんせん習近平体制になってから習氏一人に権限が集中する傾向が顕著です。1位と2位の間には、かなり大きなギャップがあるとみられています。
以前、中国政府の意思は共産党中央政治局常務委員の7人、「チャイナ・セブン」で決められていました。現在も形の上ではそうなのですが、党総書記&国家主席として3期目に入った習氏の力が突出しているので、もはや「チャイナ・ワン」だとの見方すらあります。
ただ、そうした強力な序列1位から大きく引き離されているとはいえ、李強首相に関しては、重要なポイントがあります。それは、中国において首相(正式には「国務院総理」)のポストは経済の舵取り役であるということ。何かとアメリカなどに対して吠える「戦狼外交」ではなく、中国経済が発展を続けられるように頑張るのが仕事なので、おのずと外国との協調に重きを置くことになるわけです。
李強氏も、それは心得ていて、今回ジャカルタで開かれた中国とASEAN(東南アジア諸国連合)との首脳会議でも「経済成長を主としてサプライチェーンの協力強化を進めましょう」と呼びかけました。
外国との協調を深めるべき李強首相が、日本からの水産物輸入停止をめぐってどのような反応を示すのかは、今後の中国側の出方を占うバロメーターであるのは間違いありません。
では、結果はどうだったのでしょうか。
中国国営新華社通信の日本語版ウェブサイトをみると、岸田首相との立ち話についての記事はありません(日本時間9月8日昼現在)。
中国側としては正式な会談ではなかったので、報じる必要は感じていないのでしょう。あるいは、報じると「で、我が方の首相はどれだけ強く日本を叱ったのだ?」という期待感のようなものが人民の間に広まるとやっかいなので報じていないのかもしれません。日本側も控室での立ち話で李強首相が何を述べたのか明かしていません。
ただ、ASEANと日中韓の首脳会議(ASEAN+3)において、李強首相は以下のように述べました。
中国外務省報道官らの口調よりは柔らかめですが、処理水放出をめぐる姿勢としては変わっていません。
李強首相の胸中を推し量るのは難しいです。経済が停滞しているのだから、日本と揉めている場合ではないぞ…と内心では考えているかもしれませんが、あくまで推測です。序列1位が「ここらで対日批判をやめようか」と言い出さない限り、序列2位とはいえ日本に歩み寄れば「弱腰だ」と共産党内で突き上げを喰らって政治生命が危うくなるリスクがあるのは確かです。
「政治的な目的」とは?
そもそも、処理水の放出をめぐって、なぜ中国政府は飛びぬけて強調な措置に打って出たのでしょうか。多くの分析が日本メディアを賑わせていて、概ね「本当は処理水が危険ではないと分かっているのに政治的な思惑から日本叩きに走った」という見方です。日本政府も、そう見ているようです。例えば、東京の中国大使館が事実に基づかない主張をしたことに対して外務省が反論しているのですが、その最後のほうにこういう一節があります。
でも、中国の「政治的な目的」とは、何なのでしょう。中国は他者との摩擦が起きると貿易を絡めて「報復」に走ることが珍しくありません。最近では、台湾総統選挙(2024年1月)の与党・民進党候補である頼清徳副総統がアメリカに立ち寄るやいなや、台湾産マンゴーの輸入を停止しました。台湾ではマンゴーの主な産地が民進党の支持基盤である南部とのことです。実に分かりやすい。
そういった分かりやすいケースが多い中、今回の水産物輸入停止が何に対する「報復」なのか、分かりません。「台湾情勢で日本がアメリカと足並みを揃えるのをけん制した」という見方も目にしますが、やや強引かなと。「『世界の環境保全を重視する中国』というイメージの向上を狙った」というのもありますが…それなら何かしら日本批判の具体的な根拠を用意していたように思えます。
科学は科学でも…
個人的には、中国の科学者が共産党指導部に「処理水放出は危険だ」という見方を示し、それを指導部が信じた(そして今も信じている)ように映ります。そして、放出を止めようとしたのに日本に聞き入れられなかったので怒った、という案外と単純な流れかもしれません。日本政府は中国の言動は「非科学的」と批判しているのですが、ある種の「科学」だとも言えます。
「弁護科学」です。
耳慣れませんが、「弁護科学」とは、初めから結論ありきで、それに沿う材料ばかり集め、沿わない材料は無視することを指します。結論を「弁護」するための科学ですね。もちろん、真っ当な科学ではありませんよ。冤罪事件が起きてしまう構図になぞらえると分かりやすいかもしれません。
どこかで中国の指導部内で「処理水は危険」という結論が出されたのではないかと考えるには理由があります。それは、中国側はトリチウムの濃度を問題視しているというより、トリチウム以外の放射性核種がALPS(多核種除去設備)によって十分に取り除かれたのかは疑わしいと声高に主張しているためです。
つまり、ある時点で指導部内において「ALPSの性能は疑わしい。トリチウム以外にも色々な放射性核種がきっと処理水には残るので、危険だ」という結論が出され、あとはひたすらその結論を「弁護」するためのレトリックを構築した。日本から示される各種のデータは無視する。日本に対して自分たちの結論に基づいて海洋放出をしないよう申し入れたのに受け入れられず、メンツを潰されたとして憤慨した…
確証はありませんが、一つの可能性でしょう。日本がトリチウムは十分に薄まっていると強調して「中国の原発のほうが多くのトリチウムを放出している」とまで指摘しても、中国は「トリチウム以外」を問題視するというズレが続いているのは確かです。
日本側としては、「中国は処理水が安全だと分かっているけど政治的な目的で日本を貶めている確信犯だ」と断定しないほうがいいように思えます。ALPSの(トリチウム以外に関する)性能について中国の疑念を払しょくするための協議を粘り強く申し入れ、「弁護科学」から本物の科学に基づく議論に応じさせるのがポイントかと。
(お知らせ)
このnoteでは週3本をメドに東アジアに関するニュースの解説や取材記事を書いていこうと思います。9月中は無料で読み放題として、10月からはメンバーシップ制に移行しようと考えていますので、9月の記事をお読みいただいて購読されるかを検討していただければ幸いです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?