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中国の水産物輸入停止 舞台はWTOへ

問い:消費者に安全な食品が供給されることを確保するには、どうすればよいのでしょうか。また、健康と安全のための厳格な規制が、国内生産者を保護する口実として利用されないようにするにはどうすればよいのでしょうか。

https://www.wto.org/english/thewto_e/Whatis_e/tif_e/agrm4_e.htm

 冒頭から謎かけのようで恐縮です。
 これはWTO(世界貿易機関)によるSPS協定の説明の一部。SPSは Sanitary and Phytosanitary Measuresの略で、「衛生と植物防疫のための措置」に関する協定を意味します。冒頭の「問い」への答は、「SPS協定というルールを守りましょう」となります。


食品の安全を確保するには…

 おそらく、福島第一原発からの処理水放出をめぐって取り上げるなら、まずは中国政府が一体なぜ水産物の全面的な輸入停止という強硬措置をとったのか…を掘り下げるのがセオリーかとは思います。ただ、この問題、とうてい日中両政府の話し合いで打開できそうもありませんし、ここ数日のニュースを読むと、舞台はジュネーブにあるWTOに移った感もあるので、あえて順番を変えました。
 そうしたニュースの一つは、中国が輸入停止措置をWTOに通知したのに対し、9月4日、日本政府がやはりWTOに反論文書を提出したというもの。

 そもそも、中国がそうした通知をしたなんて報じられていなかったのでは…と思ってWTOの資料室のようなサイトで探してみたら、確かに8月31日に出されていました。味もそっけもない「ザ・行政文書」の感がありますが、ご参考までに。

https://docs.wto.org/dol2fe/Pages/SS/directdoc.aspx?filename=q:/G/SPS/NCHN1283.pdf&Open=True


 この通知でも、中国は「日本における福島原発事故による汚染水の海への放出は、食品安全及び公衆衛生に制御できない危険をもたらす。今回の緊急措置は、リスクを完全に防止し、国民の生命と健康を効果的に守るために発出されるもの」といった主張を展開しています。こうした一連の主張の粗や謎に関しては次回の投稿で掘り下げるとして、ひとまず、日本政府は以下のように反論しました。

 「ALPS処理水の海洋放出の安全性について日本が SPS 委員会を含め一貫して提供してきた説明にもかかわらず」、中国が日本の産水産物輸入を全面的に停止したのは「全く容認できないものである。日本は中国に対し、同措置の即時撤廃を求めてきており、引き続き求めていく」

https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100547829.pdf

 このように、すでにWTOにおいて日中両国は互いに初手を打ったといえるでしょう。

WTO提訴慎重論の裏に逆転敗訴のトラウマ

 ところが。
 日本政府・自民党内には中国の措置に対してWTOで訴訟を起こすことに慎重論も出ています。そもそも、WTOに裁判機能(正確には「紛争解決制度」)が存在するのは、昔の日米貿易摩擦のように二国間の対立がエスカレートして関税の掛け合い合戦が繰り広げられるといった「仁義なき戦い」が発生するのに歯止めをかけるためです。各国・地域が認めた裁判所に判断を仰ぐことで、紳士的にトラブルを解決しましょうというわけですね。

 今回の中国の輸入禁止、多くの日本人が憤慨していますし、一方の中国でも(主に管制メディアからしか情報を得ていない)人々が憤慨して日本に抗議電話をバンバンかけているのはご存じの通り。そういう迷惑電話の嵐に日本の人たちはさらに怒りが湧く…
 まさに、こういう貿易をめぐる対立が過熱しないようにするためにWTOがあるといっても過言ではありません。

 なのに、日本側でWTO提訴に慎重論があるのは、過去のトラウマに起因しています。2019年4月、やはり福島第一原発の事故をめぐって韓国が8県の水産物を輸入禁止とした措置に関して、裁判の2審にあたるWTOの上級委員会が1審(パネル)の判断を覆して日本の逆転敗訴とした一件です。1審では「韓国の措置は行き過ぎ」という日本の主張が通ったものの、2審では敗訴しました。WTOは2審制なので「ならば最高裁で再逆転だ」とはならず、韓国の措置の撤廃にはつながらなかったのです。日本にとってはショックでした。

今度は「一にも二にも科学」で

 そうした過去もあり、日本側では、中国を相手取ってWTOに訴え出てもまた勝てない可能性があるのでは…という心配があるわけです。ただ、そこでは大きなポイントが抜け落ちているように思えます。それは、韓国との訴訟において日本は科学を前面に押し出すという戦略をとらなかったのです。
 詳しく知りたい方のために、文末に専門家による詳細な解説のリンクを載せますが、平たくいうと、日本は韓国の措置が科学的に正しいかどうかを争点にしなかったのです。日本が争ったのは、韓国の措置が不当な対日差別か、そして韓国が設定した「(食品の)適切な保護の水準」を達成するための輸入禁止が過剰規制であるか、の2点でした。テクニカルで分かりにくいかもしれませんが、日本は例えば「年間の放射線量」といった数値を伴うデータや科学的な基準を掲げて韓国の措置撤廃を求めたわけではなかったのです。
 そうした訴訟戦略、実はかなり珍しかったようで、研究者の間では「SPS協定ができて25年だが、訴訟の審理で科学に依拠しなかったのは日本が初めてだったのではないか」という指摘もあります。
 なにしろ、冒頭で紹介したWTOのSPS協定についての説明には、こう書かれているのです。

SPS 協定は、加盟国が独自の基準を定めることを認めていますが、規制は科学に基づいていなければならないとも定めています。規制は、人や動植物の生命・健康を守るために必要な範囲においてのみ適用されるべきで、同一または類似の状況にある加盟国間で恣意的または不当な差別をしてはいけません。

https://www.wto.org/english/thewto_e/Whatis_e/tif_e/agrm4_e.htm

 食品の輸入を止めるのが妥当かどうかは、一にも二にも科学が大切、というわけです。
 なお、もう一点補足しますと、韓国との訴訟において2審は(紛争解決機関の仕組み上)韓国の措置が科学的に妥当かの判断はせず、1審の審理の仕方に「ダメ出し」をしたものでした。なので、当時、菅官房長官からは「日本産食品は科学的に安全で、韓国の安全基準十分クリアするものだとの1審の事実認定は維持されている。わが国が敗訴したとの指摘はあたらない」といった発言も出ました。「勝負には勝ったが試合には負けた」と言わんとしたのでしょう。

 中国の問題に戻ります。
 日本側やIAEA(国際原子力機関)は福島の周辺海域でモニタリング調査をしていて、その数値も発表し続けています。トリチウム濃度をどれだけ薄くするかに関しても日本側はIAEAと意見交換を重ねてターゲットの数値を内外に公表するなど、科学を前面に押し出しています。そして、中国政府の一連の言動は「科学的根拠に基づいていない」と批判しているわけです。実際、中国政府から放射能に関する数値はなんら示されていません。
 であればこそ、韓国とのケースを反省材料にして、科学(とくにデータ)を最大限に押し出してWTOに提訴すべきでしょう。「また敗訴したらどうするんだ」という懸念も出るのは分からなくもありませんが、一方で、提訴を見送ると「処理水に関わる科学・データに絶対の自信がないのか?」との疑念を招きかねません。このままでは、日本の漁業関係者や中国の日本料理店関係者らが経済的に打撃を受け、両国の国民感情が悪化するだけです。繰り返しになりますが、提訴は対立をヒートアップさせるためではなく、クールダウンさせるための制度なのです。

 そして、もっというと…WTOで敗訴することが、実は、メンツを何よりも重視する中国にとっても唯一残された「拳の下ろしどころ」かもしれません。日本に諭されて措置を緩和・撤回することで指導部が人民から「弱腰だ」との批判を喰らうより、「国際機関の決定が出たので責任ある大国として従わざるを得ない」という体裁をとるほうがハードルが低いかと。

(参考)


 さて、今回(というか実質初回ですね)の本文は以上です。このnoteでは週3本をメドに東アジアに関するニュースの解説や取材記事を書いていこうと思います。9月中は無料で読み放題として、10月からはメンバーシップ制に移行しようと考えていますので、9月の記事をお読みいただいて購読されるかを検討していただければ幸いです。


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