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板書 vs スライド which is better style?

こんにちは。明松です。

こちらの記事を見て、おぉ、これは面白そうな題材じゃないですかということで、僕も同じテーマで記事を書いてみることにしました。

教育におけるわりと大きなテーマ

まず、この「授業をするときに板書とスライド、どちらを使うほうが良いのか?」という議論は、結構教育という分野において大きなテーマだと思っています。僕もそろそろ20年ほど教育業界にいる中で、これについては随分と考え、悩みまくりました。まず最初に結論だけ言っちゃいますね。僕の結論は「場合による」。以上。笑

あ、ここで1つ断っておきますが、「そもそも板書とスライドっていう二元論で語っている時点でどうなんだ、もっと色んなやりかただって、今の時代はできるじゃないか」という意見は大変その通りだとは思うのですが、ここではあえて授業スタイルをこの2つに絞って、双方のいいところ、よくないところを明松の教育経験の中から論じてみることにします。

僕はどうしているか

「場合による」。僕はこれに全てが尽きると思っています。要は、板書のほうがいい科目もスライドのほうがいい科目もある。板書のほうがいい学生もスライドのほうがいい学生もいる、板書のほうがいいトピックもスライドのほうがいいトピックもある。ということです。

事実として、僕明松が普段の講義で板書、スライドどちらを使っているかと聞かれたら、「場合によりますね」と答えます。実際、
・プログラミング系の講義、IT系の講義はスライドがメインだが、板書のほうが効果が高い場面では板書に切り替える。
・数学の講義では板書メインが多い。ただし、スライドを使ったほうがいいところではスライドに切り替える。
・計算をしたり、図解をしてイメージを深めたり、特に学生と講師のスピードをある程度同期させる必要がある場面では板書を使う。
ので、答えとしてはどちらも使っている、になります。そして使い分けは、都度効果の高い方を選びながら切り替えている、ということです。

最近の明松の講義スタイルはもっぱらこれ。スライドと板書がどっちも開いてあって、いつでも切り替えられる。

板書 vs スライド

さて、ということで、ここでは板書 vs スライドということで、様々な観点でこの2つの方法を比較していきます。どちらにも一長一短があるので、それらをフラットに比較してみよますね。

「追体験」

まず、板書 vs スライドというトピックを語る上で絶対に外すことが出来ない用語が「追体験」です。

板書には追体験という効果があります。これはどういうことかというと、例えば数学の授業で数行に渡る式変形を先生が学生に教えているとしましょう。板書でそれを解説するということは、「先生が一度、その式変形を1から10まで手書きでやる」のを、「学生が追いかけながら再現する」というプロセスが自然に常に実行し続けることになります。要は、「先生がやっていることをそのまま学生がもう一度体験する」という、「さぁ、いまやったとおりにやってみましょう」というインタラクティブさが板書の授業には実は前提として常にあるんです。

例えば、数学の授業で計算の解説をするときや、プログラミングの授業でプログラムのウォークスルーをやって頭の中を整理しましょうみたいなときは、板書の追体験性が圧倒的な学習効果を発揮することになるので、板書の勝ち、というふうに僕は定義をしています。

ちなみにプログラミングにおけるライブコーディングは板書に近いものであると考えています。あれも、講師が1からプログラムを書くのを学生が追体験するという構造としては、板書と同じです。

一方でスライドに追体験性は(基本的には)ありません(一部の職人みたいな人はスライドを使った疑似追体験みたいなことをさせたりもできるが)。追体験による学習効果を期待すべき場面でスライドを使った講義で済ませてしまうのは僕的には違うかなと思っています。

「演出や図解の自由度」

一方、スライドを使う講義では、板書では実現しえないような演出や図解の自由度を好きに使えるという良さがまずあります。例えばわかりやすいところでいうと、アニメーションや、図表の貼り付けなどなど。スライドでの講義では「板書で出来ないことがたくさんできる」というのが大きなメリットです。ただ、これは「うまく使えることが前提」とはなりますがね。使うのが下手な人がアニメーションとか使いまくると、途端にとっ散らかったしょーもないスライドになったりするので、使う側の腕も存分に必要となるでしょう。

演出や図解の自由度としては、スライドのほうが出来ることが多いので、ここはスライドの勝ち、というのが僕の意見。

「安心感」

これはもはや、我々が小学生だった頃から深層心理に刻みつけられたものなのかもしれませんが、板書には安心感がありますよね。これは最初に述べた「追体験」にもつながる話なのかもしれませんが、板書で進む講義ってなんかこう、安心するというか、慣れているものに対するホッとする感というのは無視できないくらいにあると思います。もしかしたら、段々これからの時代の流れで板書による授業っていうものが小学校や中学校から消えていったときに、これはいずれ無くなっちゃうのかもしれませんが、現状やはり板書に対する安心感を無視することはできないなと思います。というわけで、ここは板書の勝ち

「ペースのコントロール」

これはちょっと高度な話になりますが、スライドは板書と違って「自然と学生と講師が同期する」ということが起こらないので、それを逆手に取って、学生のペースを自在にコントロールするということがやりやすいと思っています。

例えば、あえてちょっと突き放す瞬間とか、逆に、もう過ぎた内容を何度もリフレインのように見せていつも以上に寄り添うとか、ちょっとドキッとさせたり感動させたりというのも、結構「ペースコントール」が物を言います。こういうところのコントロールは、高度な教育的技術ではあるとは思いますが、スライドベースの授業ならではの演出なのかなと思います。これはスライドのほうがやりやすいので、スライドの勝ち

「アドリブ対応」

講義というのはいかに設計や予定を綿密にしても、蓋を開けてみたら何が起こるかわからないもんです。想定外の流れが講義の中で発生したときにいかにそれをいい流れにし、学生に気づきを与え、乗り切るかというのは教師としての非常に重要なスキルだと思います。アドリブ力ですね。

そして、これを圧倒的にやりやすいのは板書です。板書なら、好きなときに好きなところに好きなことを書けるので、アドリブで講義を運ぶときは板書ができるとすごくやり易いです。これは結構重要なポイント。板書の勝ち

「流用」

次の節にも少しつながる話ですが、スライド教材は流用が非常にしやすく、2回目以降の講義で負荷がが軽減できるというメリットがあります。大きめの講座を一人の先生で複数回すときなどは、これに非常に助けられることがよくあります。板書はまた1から書き直しなので、毎回結構大変です。スライドの勝ち

「組織をマネジメントする」観点でいうと?

さて、ここまでで板書スタイルの講義とスライドスタイルの講義の一長一短みたいなところを見てきたわけですが、どれも「1コマを切り取ったときの教育効果」という見方をしてきました。

すなわち、「この1コマで最大風速を吹かせるためにどちらを選択すべきか」という観点で分析と比較を行ってきたわけですが、実は板書 vs スライドの議論については、この観点だけでは全然終わりません。

僕は今、社会人向けの研修とかをちょいちょいやらせていただいているんですよ。あと、専門学校での講義とかも。で、そのときに教育効果という観点ともう一つ大きな問題として出てくるのが、組織全体のマネジメントという観点なんです。

「個人商店化」 (≒属人化)

まずもって組織で教育をやっていくと考えたときに、以下のような例を考えてみましょう。

・板書のほうが得意な講師Aがいました。講師Aのパフォーマンスを最大化するために、板書でどうぞと講義をお願いしました
・確かに講師Aの評判は上々でしたが、あるとき講師Aが病気で倒れてそのまま辞めてしまいました
・引き継ぎの講師Bは、講師Aがすべて板書で講義を行っていたため一切引き継ぎ材料がなく、どうすればいいか困り果ててしまいました

これは、眼の前での教育効果を最大化するほう(講師Aにの好きなようにやってもらう)を選んだにもかかわらず、結果として引き継ぎで困ってしまったというパターンです(よくあります)。

例えばトラディショナル内容の数学の授業を、指定された教科書に忠実に毎回実施しているなどであれば、このパターンで講師が変わってもそこまで引き継ぎで困り果てることもありませんし、内容のブレは生じにくいでしょう。しかし、例えば高度技術研修などのように、そもそも教科書に相当するものがない場合や、独自のコンテンツを提供することを売りにしている教育事業者の場合などは、その「独自コンテンツ」が講師Aのフリースタイル板書講義だったりすると、引き継ぎで詰むことになります。講師Bが講師Aを再現できなくなるんですよ。

そして講師Bがまた新たに独自スタイルの講義をしはじめ、今度は同じことが起きて引き継ぎの講師Cが独自スタイルの…ということが起こると、組織全体としてみたときの教育クオリティ、さらには内容のブレが非常に大きくなり、結果として「組織の合力」が下がります。

これを防ぐために何をすべきかというと、あらかじめ決まった内容の「指定スライド」を1つ決め打ちで作っておき、これに沿って講義をしてください、という形をとることで、全体としてのコンテンツの安定化をはかる、ということをよくやります。個々の先生は個々のフリースタイルでやるほうが「爆発力」を出せることはありますが、ただ、一方でその方向性が点でバラバラでは組織として見たときにブレブレです。それより、多少爆発力が落ちることはあれど、組織全体としての方向性を揃えたほうが組織の合力は大きくなるよな、という考え方です。

これは圧倒的にスライドがあるとやりやすいですので、スライドの勝ちです。

講師に対して「好きなようにやってください」と講義を丸投げする教育事業者ってちょいちょいいます。僕は「好きなようにやってください」が「完全悪」だとは思わないですし、僕も講師に「好きにやってください」と言うことはあります。しかし、「好きなようにやってください」がはらむリスクをせめてこのくらい認識し、覚悟してから、その言葉を使うべきじゃないかな、と強く思います。

統一感の演出

さらに、全てを「指定スライド」で統一するという方法をとると、すべてのスライドが同じスタイルで作られることになるので、「あ、◯◯社のスライドだ」というふうに一目で分かるような統一感が演出できるというメリットもあります(弊社PolarTechもいずれはそうしていく予定)。これもスライド勝ちですね。

そのままテキストになる強さ

さらに、スライドってそのまま印刷するとテキスト(ハンドアウト)になってしまうという強さもあるんですよね。これは結構手軽に配布コンテンツを1つ増やせるということなので教育事業者としては大きなプラスです。

板書教材を印刷して配布っていうのはなかなか難しい(仮にやったとしてもよほどきれいな板書じゃないと「テキスト」と呼べるほどのものにはならない)ので、ここもスライドの勝ちですね。

「組織として回す」 「サービスとして回す」 となったときに、スライドが一気に強くなる

というふうに、特に社会人研修のような、「教育事業者がオリジナルコンテンツを提供する」ことを売りにしている場合や、組織として長期間安定したマネジメントをしなければならない場合などに、一気にスライドの勝ちが増える感覚があります。

だからこそ「板書がめちゃくちゃに強く」もなる

そしてここで、だからこそ時折出てくる板書がめちゃくちゃに強くもなるんだということも述べておきます。

スライドベースで進む講義だろう、多分徹頭徹尾そうであろうと思っている受講生に、突然大事なところで「ちょっとここは板書で説明しますよ」と、板書がバチンとはまるタイミングで板書による解説がちらっと顔でも出してご覧なさい。そのときの安心感、そして「板書やっぱいいわぁ…」という感動ったら多分すごいんですよ。

だから、「基本的にスライドベースで進む」、「ここぞという要所で板書」というのが、教育事業者として考えたときには、結構ベストソリューションなんじゃないかなぁと、考えているところです。今はね。今はですよ。

キカガクの脱ブラックボックスコース

僕がそれを最初に目の当たりにして度肝を抜かれたのは、キカガクという会社がやっている、脱ブラックボックスコースを最初に見たときでした。この講座、何が凄いって、「手書きでやってみましょう」というパートがすごいあるんですよ。特に数学のパートなんかは手書きで一緒にやってみようパートが多々あって、それが見事に受講生の安心感&追体験による学習効果を生んでいて、見事だなぁ、と勝手に感動していました。あと、ライブコーディングの使い方もうまかったなぁ。今だに思ってますが、僕にとってのIT系、AI系の教育の原点はこの「脱ブラックボックスコース」でした。

あくまで一個人の意見ですが

という感じで、あくまで一個人の意見ではありますが、板書vsスライドいうテーマについて、いろんな観点から掘ってみました。ゆーて結構長く教育はやっているので、それなりに裏打ちはある意見にはなってるんじゃないかなーと思います。

弊社、株式会社PolarTechも、この辺しっかり整備していかねばなりません。がんばります。

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