なぜ狩猟の世界に入ろうと思ったか
2021年9月、自分は初めて狩猟免許を取得した。
一年前は狩猟をやるのに免許が必要だということも知らなかった。
なぜ、狩猟の世界に入ろうと思ったのか。自分の当時の出来事や感情を思い起こしてみる。
「狩猟という世界に入ろう。」
そう決めたのは、丁度今から1年くらい前の12月のことである。
当時、自分は人生初居酒屋バイトをしていた。
コロナ禍であったとはいえ、年末年始の時期である。客が途絶えることはなく、特に夕方から夜にかけてはひっきりなしで来ていた。
年末から始めた居酒屋、そして人生初めての接客業であった。そのため、休憩の取り方も分からず、仕事を覚えることで頭が一杯になっていた。
刺身の盛り合わせや焼き鳥を客室に持っていくときには、くつろぎながら旨いものを食べている客の姿が脳内でイメージされ、
「いいなぁ、羨ましい。俺も食いたい。」
という気持ちを押し殺しながら働いていた。
そんな悪戦苦闘していたある時。
客が帰り、テーブルを片付け始めるために先ほどまで客がいたところに赴いた。
そこで目に飛び込んできた光景とは、
自分が持っていった刺身の盛り合わせが全く手をつけられない状態で置いてある
というものだった。
店の決まり(大抵の飲食店はそうだと思うが)のため、一口も手をつけられていなくとも廃棄しなければならなかった。
その時、「怒り」というよりも、言葉にならないような感情や違和感を覚えた。
もちろん、客は金を払っている以上それに手をつけようがつけまいが自由であるし、せっかく作った食べものを残するなという強要をしようとは思わない。
しかし、何も手をつけられてない刺身を捨てるとなったとき、食べものである前の姿、つまり「魚」としての姿が思い浮かんだ。
「彼らは人間によって食べるために殺された。にも関わらず、食べられもせず捨てられてしまうのか。」
このような出来事があってから次の日以降も、食べ残したものの廃棄は続いた。
飲食店で働く上で、これは避けることができないと言っても仕方がないのかもしれない。
けれども、あの日に感じた感情や違和感が薄れることなはく、廃棄することに慣れるということもなかった。
この気持ちを忘れたくない。忘れるような人間にはなりたくない。
という思いが日に日に自分を支配していった。
「食べものを粗末にするな。作っている人の気持ちを考えろ。」
この言葉を否定する気持ちはない。
情報社会の現代、第一次産業に携わっている人の様子はスマホ1つで見れるので、何をしているのか、どのような気持ちで仕事に当たっているのか、ということはある程度は想像できる。
けれども、「ある程度」の枠からは抜け出すことはない。だからこそ、今の自分がこの言葉を発すると薄っぺらくなってしまうと思った。
その時の自分の身近に農業をやっているはいなかったし、狩猟をやっている知り合いもいなかった。
無論、自分も食べものを生み出す側に回ったことがほとんどなかった。中学生のとき、農業体験のために秋田へ修学旅行に行ったが、その時にこのような強い気持ちは残らなかった。
生み出す側に回らなければ、作っている人の気持ちについて、その深いところまで知ることはできない。
そして、生み出す側の中でも特に命のやりとりを身近で感じられるところに行きたい。その世界を知りたい。
そう思い、狩猟の世界がそれを感じてるのは?と思い、この世界に入ろうとめた。
これが原点である。