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籠の中の乙女
20250212@ル・シネマ渋谷宮下
先月、「どうすればよかったか?」を見に行った際に、この作品の予告を観かけて、なんだか面白そうだと思い鑑賞した。
2009年のギリシャの作品だそうで、4Kレストア版として上演されていた。(レストアとは正直初耳だったけど、リマスターみたいなもんらしい)
家の中に監禁するように、洗脳するように育てられた子どもたち。子どもといってももう30前後だろうか?(設定上はもっと若いのか?)立派な家で衣食住としては十分なものが与えられているようには思えるが、家の塀の外とは一切遮断された環境のなか、両親の”教育”による奇妙な規範の中で生活している。
その目的というのは私には最後まで理解することはできなかった――というか、この手(シュールレアリスムというか前衛的というか、どういう言葉で当てはめるべか、私には持ち合わせていないジャンル)の作品に対して、「そういうことね~」というゴールを求めるものでもないのかもしれないけれども、面白かった。(もうね、面白いという言葉でまとめるのも幼稚な感想だけれど)
唐突にエンディングを迎えた瞬間にハッと感じた(気がする)こととしては、意識/無意識とか、現実/非現実とか、嘘/本当とか、相反するものの境目について考えた。
この家族の奇妙な生活の中の普通/異常だとか、ひょっとしたら自分にとって普通の事として観ていたシーンも、誰かには異常に感じていたかもしれないし。もちろんその逆もだし、月並みだけどそもそも普通って何とか。
それから、映画だけでなく美術作品や音楽を鑑賞するにしても、身近で普通な題材・素材であればあるほど、自分の「普通」との差異を認めやすいというか、差異以外の部分に注目させづらい気がした。異常性の強いようなものほど、実はなんてことない部分にも鑑賞者は何かを見出そうとしがちかも。
ということで、ひょっとしたらこの作品だってあんまり意味とか目指すものとか、そういうのは無いのかもしれないなぁと思った。
(考える・感じることの放棄や正当化でもあるので怖い)
エンディングの直接的な印象としては、娘が車のトランクから出てくるのか、中で寝ている?死んでいる?出てきたとしても行く当てもあるのか?とか、なかなかの長尺でトランク見せられて普通に次の展開wktkって感じで色々想像できて楽しいなとも思ったし、あ、これシュレディンガーの猫や~と思った。
(あと猫の虐殺シーン、かなりショッキング。そんな鳴き声聞いたことないけど、なんかリアルな気もした)
…と書いたところでパンフレットを読み、監督のインタビューだとかを読んでみて、【自分の家族を極端に守ろうとする男】というアイデアが発端だそう。「描きたかったのは、人の心を操作しようとすること、自分の意のままに何かを信じ込ませようとすることが、相手をどこまで極端に走らせてしまうかということ」
そういうことね~(と、結局ゴール見つけて分かった気になってしまう)
でもこのヨルゴス・ランティモス監督、敬愛する監督の作品を観ても「一体どうしたらこんな映画を…」とつぶやくほどで、畏敬の念を抱くが「わかる」とは思わないとのこと。
そんなもんなのね~