はだかの王さまはバカだったか—バカという言葉と透明な服―
――王様は裸だ!
と叫んだ子どもはどんな子だっただろう。
子どもについては描写がない。どんな奴でも構わないのだ。
では王様はどんな人だろう。
こっちは詳しい描写がある。どうやら悪い人間ではないらしい。
服のために税金を浪費しているのは難点といえるが、「戦いが嫌い」な性格をしているのは好意的に評価しておきたい。
この王様がまず頼るのは、「賢く正直者で通っている人のよい大臣」や「根がまっすぐな役人」たちだ。この国にはそういう人がしかるべき地位にいて、王様はこうした人を信頼している。
大きな町は活気にみちていて、世界中から人がやってくる。実は王様、為政者としてはなかなかに優れているのではないだろうか。仮に仕事をしていないとしても、独善的な理想に燃えるよりずっとマシ。
しかもこの王様ときたら「バカやふさわしくない人間は王座にいるべきではない」というまともな感性をもち合わせていらっしゃる。そんな感性をもっているからこそ、「透明な服(詐欺師によれば、自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人にはとうめいで見えない布でできている)」が自分にはみえないらしいという事態に大きなショックを受けたのだ。
ここで一つの問いを立てておこう。
「透明な服」を売りつけてきた詐欺師をめぐる問題だ。
――詐欺師が嘘つきだとどうすれば見抜けるのか?
子どものように正直であればいい? 確かにそれも重要だ。しかし正直であればウソが見抜けるわけじゃない。
だって、「バカには見えない透明な服」は、本当にあるかもしれないじゃないか。私はバカだから見えないだけ。十分ありえる話である。
たしかに本編の透明な服は偽物だった。それは地の文に書いてあるから正解だと考えていいだろう。けれども、それだけじゃ解答丸暗記みたいなものだ。もっと掘り下げて考えよう。
ここに「バカには見えない透明な服」が存在しているのかどうか?
私が途方に暮れている間に、「その服は自分にはしっかり見えている」と言い張る連中が出てきたとしよう。そいつらがウソつき集団かどうか、見抜く基準はあるのだろうか?
この話の作者はロジカルなようで、申し分のない判断基準を描けている。
ウソを見抜く前提として、複数の人間が必要だ。
そしてキーになるのは具体性と多様性。
本当に服が存在するなら、どこがどうよいのか具体的に指摘できる。一人一人が自分の感性で判断するから、多様な観点からの評価もされるはず。
一方、服が存在していない場合、見事だとか鮮やかとか抽象的なことしかいえなくなってしまう。つまり具体性に欠けるというわけだ。詐欺師でさえできるのはせいぜい批評したフリだけ。みなは一様に詐欺師の評価を復唱するほかない。多様性にも欠けるのだ。
よって、具体性のある意見がでてくるか、その意見が多様性を見せているか、このあたりが「バカには見えない透明な服」が存在しているかどうかの重要な判断基準となる。
こんな基準は、言われてみれば当たり前の話。だが、なぜこんな簡単なことを人々は見失ってしまうのか。その理由もこのお話にはしっかり描かれている。
「透明な服」がありがたがられる一方で、嫌悪されているのが「バカ」という言葉だ。
しかし、「バカ」とはなんなんだろう。バカだったとして、だからなんなのか?
内実なんて、たった一着、見えない服があるだけじゃないか。
そんなのが仮に見えなかったところで、大臣は基本的に人の好い正直者だし、役人は根がまっすぐなのだ。王様だって優れた為政者たりうるというのに、もったいないことこの上ない。
たかだか一着の服のあり様に、それでもこだわりを持ってしまうのは、彼ら自身が「バカ」という言葉に過剰な意味を読み込んでいるからだ。バカというレッテルを恐れるがあまり、彼らは率直なことが言えなくなってしまう。
王様たちが恐れている「バカ」というこの言葉。何かに似てると思わないだろうか?
まるで人に張り付いて離れないものだと思われているが、とても抽象的で退屈なほど単純。内実はほとんどないのに騒ぎを引き起こす空虚な妄想物。
こんな空虚を仰々しく持ち上げて、得をしているのは誰なのだろう?
「透明な服」の販売人。そう。詐欺師だ。
「透明な服」はいつだって、「バカというレッテル」とセット販売。「バカというレッテル」を貼りつけてしまえば、客はそれを覆い隠そうとして「透明な服」を買ってくれる。
『はだかの王様』にはこの窮屈な世界観から自由だった人間が二人だけ書き込まれている。
二人は「透明な服」をありがたがらないし、「バカ」というレッテルを恐れたりしない。
一人は子ども。けれども子どもは未熟なだけだ。やがては大人になってしまう。
だから、もう一人の方がずっと重要。
そいつは語り部だ。
作中に「バカ」という言葉は何度もでてくる。「王様は裸」だと明確に書かれている。なのに、「王様はバカ」などという評価は一度も書かれていないのだ。ここには大きな違いを見て取るべきだろう。
王様も人間だ。多面性がある。
彼のこともまた決めつけてはいけない。
王様の全てを、臣下たちの全てを、彼らに追従する大人たちの全てを「バカ」の一言で一蹴するとき、新たな詐欺師が新たな装いで「透明な服」を売りつけにやってくる。
王様は自分が裸だと気づいたあとも、むしろもったいぶって行進する。形式の虚しさに気づいたからこそ、いっそう形式にしがみつく。しがみつけるものが彼の手元には形式しかないのだから当然といえよう。
あの後の世界はどうなったのだろうか。
王様たちは、服は本当に見えているという体をつらぬくかもしれない。『あれはジョークで、騙されたフリをしていたんだ』と言い出すかもしれない。『みんなが見えるっていうから合わせた』と責任転嫁するかもしれないし、もっと暴力的に振る舞うかもしれない。それとも、ひたすら風化を待つだろうか。
――王様は裸だ!
と叫んだ子供は、あの後どうなったのだろう。
しかしながら、その後のことなど描く必要は最早ない。この童話が描いたものは世界そのものなのだから。
ただ目を開けばいい。耳をすませばいい。
続きはそこにある。
………
C「いやーいい発表だったでしょ。われながら惚れ惚れしちゃうよね」
O「王様みたいな自惚れぶりですね。指摘してあげましょう。あなたもまた裸なんじゃないですか?」
C「あれ。お気に召さなかった? どこがどうダメだったのかな?」
O「具体性のある多様な意見がでてくる社会が望ましいという話でしたね。でも子供が叫んだ後はどうなりましたか? みなが『王様は裸だ』と一様な内容を叫びはじめただけでしょう。勘違いしてほしくないですが、私はそれが悪いとは思いません。思い上がった王様の愚行には批判がなされて当然だからです。いくら優しい人に見えようが、それどころか実際に優しい人間であろうが、王様は人民の生殺与奪の権を握る大権力者です。そのことをゆめゆめ忘れてはなりませんよ」
C「いやいや、ひとしきり『王様は裸だ!』と叫んだ後には具体的で多様な評論がなされるだろうさ。へその形がどうだとか、体毛がどうだとかいうくだらない話もあれば、愚かな権力者は追い出すべきだというきみみたいな率直な人の言論だって次々出てくるに違いない。もちろん太鼓持ちや御用学者もでてきて王様への誹謗中傷は不敬だと言い募る。それでいいんだよ。だって、突破口は開かれて議論がはじまった。局面は一変だ」
O「突破口が必要だった理由、すなわちみながそれまで服への言及を恐れていた理由は「バカ」というレッテルを恐れていたからだというのがあなたの解釈でしたね。でも「バカ」という言葉の効果をそんなに誇張して忌避するのには、口触りのいい結論に持っていきたがるあなた流の日和見根性を感じました。人間、子どものように正直な感性を言葉にすればいいんですよ。裸だと思うなら裸だと言えばいいけれども、バカだと思うならバカだと言えばいい。例の子どもは続けて『王様はバカだ』と叫んでも良かったんですよ。私は正直に言いましょう。王様は裸だ! しかもバカ! 草!」
T「どこがどんな風にバカだったのかな?」
O「まぁ騙されやすすぎますね。騙され慣れていないというか、考える習慣がなかったんでしょう。ずっと頂点に君臨していて、対等な立場から異論を唱えてくれる人も今までもいなかったんでしょうね。政治にしたってとことんオンチでお話にならない低レベルだったと思いますよ」
C「そこまで理由が言えるのはいいことだね。きみは単に『バカ』というレッテルを貼って済ましたわけではないということだから。でもやっぱり理由づけは大事にしないといけないよ。王様が『透明な服』を求めた動機の一つは、『けらいの中からやく立たずの人間や、バカな人間が見つけられる』と思ったことにあった。本来なら役に立たないかどうかは、仕事内容に照らして、きめ細かく評価していくべきでしょ。でも王様は全ての能力を一発で判断できるような属性があると信じてしまった。その上、そんな属性を『バカ』なる一言で表せるはずだと思い込んでしまった。『バカ』という言葉がここまで魔力を発揮するのは、理不尽な現実を反映しているんだよ。この世界では『バカ』というレッテルを貼られたら、きめ細かい評価なんてすっ飛ばして『何もできない奴』扱いされてしまうでしょ。そんなしょうもないレッテルが通用してしまうのは、みんなが普段から理由づけっていう地味で堅実な営みをすっ飛ばすからなんだ」
O「なるほどね。この程度の反論は織り込み済みでしたか。でもねぇ。いつでもどこでも、なんでもかんでも丁寧な理由づけなんてしてられません。『バカ』で済ますことが必要な場面だってありますよ。それだけでも言われた方が自分の過ちに気づけることはありますし、きっちりした理由づけを考えている暇のない状況というのもあるんです」
C「そうそう。今きみは『いちいち理由づけしていられない』理由を理由づけしてくれた。そういう理由づけに溢れる世の中になって欲しいわけだよ、ぼくは。きみの言う通り、『バカ』って言葉も使われてよい文脈がありうる。だから『バカ』って言葉を使っている人を単に罵倒するだけではダメだろうね。『バカっていう方がバカなんだ』というオウム返しもまたこれだけでは理由づけには欠けている。これは程度問題なんだ。大切なのは理由づけを求めることができる社会であること、理由づけの習慣をつけること」
O「結局はそのあたりに落ち着くわけですね。もともと無難な結論だったのに、さらに普通な話になってしまった」
C「まさか、『無難だから間違っている』って言いたいわけじゃないよね。きみ流の逆張り精神を感じちゃったなぁ、いま。それともほかに反論があるのかな? だったら、子どもみたいな正直な感性でなんでも言ってごらん? 今回の発表のために、ぼくは準備してきたからさ。ほらほら」
O「なんかむかつく」
C「でもこういう対等な関係性だからこそ、率直なことも言えるわけよ。ありがたいじゃない。ぼくときみの関係性。なんだかんださ。王様と臣下じゃこうはいかない」
O「なんかむかつく」
――
青空文庫にて『はだかの王さま』(大久保ゆう訳)を読んだのですが、こんなにいい作品だったのかと惚れ惚れしてしまい、感想もかねてこの記事を書きました。子どもの頃に読んだ作品を改めて見返すと当時は気にもかけなかったところこそが光を宿していたりして面白いです。
この作品、日本では「はだかの王さま」として知られていますが、アンデルセンがつけたタイトルは『皇帝の新衣裳』だったそう。日本語Wikipediaによると、もともとはスペインの王族が1335年に発表した作品をアンデルセンが翻案したものだそうです。