西の伊達 宇和島城・伊達博物館・天赦園【伊達家のトビラ2】 愛媛県宇和島市
土佐山内家・高知編で、古来土佐へのアクセスの難易度に触れました。加えて四国の西側もまたアクセスがあまり良いとは言えない地域(ネガティブな話ではありません)。ですが愛媛から高知を繋ぐ国道56号線沿いには大洲、宇和島、宿毛、四万十と雰囲気の良い町がズラリと並びます。いずれも長い歴史を実感できるトコロです。
その中で伊予の国(愛媛県)、宇和島のかつてのお殿様は伊達家。「伊達家って東北・仙台じゃないの?」と思う人は少なくないでしょう(色々あったんです)。おまけに天守閣がなかった本家・仙台に対し、分家・宇和島には全国で12城にのみ残る、いわゆる現存天守があります。
そんな宇和島の記録です。
宇和島市は南予地方(愛媛県の南西部)最大の都市で、人口は68,000人。
実は南予は九州東部からのアクセスは悪くありません。九州側は大分県臼杵か佐賀関、四国側は八幡浜か三崎へフェリーで渡れるので、長距離ツーリングでは休憩と気分転換になるので時々利用。対岸へ渡ると文化圏や空気がガラッと変わります。
宇和島伊達家とは
伊達秀宗(1591-1658)は、伊達政宗(1567-1636)の庶長子。豊臣秀吉(1537-1598)に臣従した政宗は、秀宗を人質として差し出します。「秀」は秀吉の偏諱。後に秀吉の子秀頼(1593-1615)の小姓となります。しかし徳川家康が江戸幕府を開くと今度は徳川家の人質に。そして政宗の正室に弟忠宗(1600-1658)が生まれ成長すると、秀宗は伊達家の家督から外れます。なんともツライ人生です。
大坂冬の陣には父と共に参陣し、陣後には父に与えられた恩賞の宇和島10万石に別家・宇和島伊達家を興します。家臣団は政宗に選ばれた57騎を中心に付属され、資金提供も受けています。借金というのが後の藩政に影響を与えますが。
本家からは独立し西国の伊達と呼ばれますが、仙台62万石は弟が継ぐ事になりました。秀宗の心にはモヤモヤが残ったでしょう。
江戸300藩に関する書籍として(まだ全ての藩が発行されていません)現代書館のシリーズ藩物語が参考になります。図録より少し専門書的。
何せ300藩、全巻揃えるにはチョットいいお値段過ぎてムリです(涙)。
それでは宇和島伊達家ゆかりの場所を。
宇和島市立伊達博物館
1974年の開館の公立博物館。宇和島伊達家伝来の大名道具(公益財団法人宇和島伊達文化保存会所蔵)を展示しています。所蔵品としては、狩野光信筆とされる豊臣秀吉像(重要文化財)がよく知られています。伊達家以前の宇和島領主だった富田家より金剛山正眼院(現大隆寺:宇和島伊達家菩提寺)に奉納され、8代藩主伊達宗城に献上された由来を持っています(秀宗由来ではない)。
コレクションは、本家に劣らず芸術系が充実しているのが特徴。
建物の老朽化のため、隣接する天赦公園に新博物館として移転予定。
愛媛県宇和島市御殿町9-14
伊達宗城(1818-1892)の祖父・山口直清(1754-1793)は、5代藩主伊達村侯(1725-1794)の次男で山口家の養嗣子になっています。7代藩主宗紀(1792?-1889)は跡継に恵まれなかったため、宗城を養子とし伊達家を継がせます。
宗城は幕末の四賢侯の1人(他に越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、薩摩・島津斉彬)。蘭学に理解があり、洋学導入による富国強兵をすすめました。
高野長英(1804-1850:医者、蘭学者)やシーボルトの娘・イネ(1827-1903:医者)を宇和島で庇護しています。
秀宗は父に付属された家臣をこっそり成敗して父から勘当されていますが、後に幕閣の仲介で2人は和解します。この展示は勘当に至るまでの秀宗の苦悩をテーマにしたものでした。チラシのコピーがデカルトっぽい(よく知らんけど)。
自らの意思で自らの生き方を決める事の出来ない立場だった秀宗。ずーっと人質(待遇は悪くなかったと思われますが)で、挙句に本家は継げない。キレても仕方ない胸の内を父に話し、そして政宗は子の気持ちを理解します。世の中が平和になった証ともいえます(チョット涙)。
かつて刃を交えた佐竹家から迎えた姫君がこの輿を利用したのは一度だけ!
月丸扇紋はめでたさが増すデザイン(ずっと日の丸と思ってました)。政宗のトレードマークは下弦の月。
宇和島伊達家の竹に雀紋は宇和島笹と呼ばれます。本家の仙台笹に比べて葉っぱの枚数が少ないのが特徴。
所蔵品の写真と解説を網羅的に大集合。読み物の部分がないので、内容は研究者向け的でドライ。おまけに高価で重い(文句言いながらも買う)。
本家仙台での特別展で発行されたコチラの方が読みやすく、宇和島伊達家を理解しやすい。お値段もリーズナブル。
宇和島伊達家は明治時代には宗城の後継・宗徳(1830-1905)が伯爵から侯爵に、仙台伊達家は伯爵。宗城の明治維新時の功績により差がつけられました。
天赦園
天赦園は伊達家の大名庭園。伊達博物館から歩いてすぐの場所にあります。
ベースは2代藩主宗利(1635-1709)の浜御殿。7代宗紀(1792?-1889)が隠居用の南御殿として築庭。
政宗の残した漢詩「若い頃は戦場を駆け、世の中は平和になりました。老人が余生を楽しんでもお天道様は許してくれるでしょう」(超意訳)から天赦園と命名。宗紀は長寿の人で、実は100歳オーバーとも。
園内には伊達家の家紋から竹やご先祖の藤原氏から藤が多く配されています。
ここ春雨亭で能書家だった宗紀は、多くの書を残したそうです。政宗の血筋ですね。
宇和島城
伊達氏の居城・宇和島城の南側登城口にある上り立ち門。現存天守と同じ頃のモノとされる薬医門。
宇和島城を築いたのは藤堂高虎(1556-1630)。外様ながら徳川家康から信頼された人。築城名人として知られ、愛媛県内では今治城も高虎に手によるもの。高虎は最終的に伊勢・伊賀32万石の大名に。
石垣が幾重にも連なり、本丸までは結構な運動量です。樹木が生い茂り南国感満載。天守がなかなか見えてこないので、余計に距離を感じます。
パンフにも記載されていますが、バリアフリーとは無縁のワイルドな城。まあ400年前の遺構がほぼそのままなので当然でしょう。
山里倉庫は、元は三の丸にあった武器庫。1966年に現在地に移築され資料館になっています。
資料館では宇和島の偉人の解説が。
伊達宗城はテッパンですが、ここでまさかの油屋熊八。
油屋熊八(1863-1935)は愛媛の対岸、大分県別府市を温泉の一大観光地にした人。別府に亀の井ホテルを開業するだけでなく、日本初の女性バスガイドや別府地獄めぐり等、別府全体をPRして街の発展に貢献。そして由布院には亀の井別荘の原型となる草庵を作り、自ら見出した中谷巳次郎(1869-1936)に託します。
後に巳次郎の孫・健太郎さん(1934- :亀の井別荘)と溝口薫平さん(1933- :玉の湯)の2人が、現在の由布院ブランドを創り出す事になります。
おんせん県の基礎をガッチリ作った熊八さん。
高虎築城の天守は地震で損傷し、現在の天守は2代伊達宗利によって寛文期(1664-1671)に大修理されたもの。望楼型から層塔型に変わっています(重要文化財)。名実ともに伊達の居城に。
愛媛県松山市出身の茂本ヒデキチさんの墨絵。筆遣いにスピード感が溢れます。左が独眼竜政宗、その右が秀宗。
階段が急なのは現存天守では基本。
江戸時代の海岸線は城山のすぐ側まで迫っていました。後に埋め立てられ市街地は拡張されています。
手前に見える学校の裏側が天赦園、その左に伊達博物館。山が迫り平地が少ない。
北側登城口にある門は、家老だった桑折家の屋敷に残っていたものが寄贈され現在地に移築。宇和島城には立派な追手門がありましたが、太平洋戦争で焼失。あー残念。
長屋門前には観光情報センターがあります。愛媛で歩き回った後には冷たいミカンジュースが定番です。種類が色々あって味をチョイスできるのがうれしい。また宇和島特産のブリや鯛には、ミカンの皮や搾りカスを混ぜたエサを与えてブランド化しています。生臭さが減るそうです。
ジュースを飲んでいると、観光客と思しき方が情報センターのスタッフにおススメの鯛めし屋と松山への鉄道ダイヤを質問していました。ちなみに松山と宇和島では鯛めしが違います。松山は炊き込みで宇和島は刺身を醤油漬けしたもの。どちらも美味しい。
そういえば宇和島鯛めしは大分(宮崎北部も)の郷土食りゅうきゅうに似ています。まさか熊八?
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