眼福:岩崎さんの茶道具系 静嘉堂文庫美術館3 東京都千代田区
2022年に世田谷区から丸の内へ引っ越してきた静嘉堂文庫美術館。界隈では出光美術館と並ぶアートスポットとして各種メディアで目にする機会が増えました。
コレクションの核となるのは、岩崎弥之助&小彌太父子による蒐集品。
国宝7件、重要文化財84件を含むおよそ20万冊の古典籍と6,500件の東洋古美術品を収蔵。うち茶道具類は約1,400件。
茶道具展は8年ぶりだそうですが、静嘉堂文庫のオールスター集合の様相。チラシに引っ張られて、オープン以来久しぶりに足を運びました。
今回の展示の主役はやはり曜変天目でしょう。世界中に3碗(しかも全て日本に)という希少性はもはや使い古された紹介になりますが、茶の湯に興味のない人でもこの視覚的なインパクトには目を奪われます。
この茶碗のみ撮影不可ですが、曜変天目の3碗のなかでは最も露出度が高いのが岩崎さんの稲葉天目です。
静嘉堂文庫美術館
東京都千代田区丸の内2-1-1
受付から入館するとホワイエが広がり、その傍らには岩崎親子の胸像が。
静嘉堂文庫美術館ではで8年ぶりの茶道具展というコトで、過去の資料を掘り起こしてみると、2013年開催の「受け継がれる東洋の至宝パート3 茶道具名品展」と同じ展示フォーマットでした。
この時は展示品を詳細に解説したリーフレット(8ページ)が配布されています。表紙は曜変天目に油滴天目。
曜変天目と稲葉家、そして岩崎家
個人的には今回の主役は別に。ただし触れないワケにはいかない国宝茶碗。
曜変天目茶碗の伝来は、徳川将軍家→春日局→稲葉正則→淀藩稲葉家。文献からは足利将軍家所蔵の可能性も。
徳川3代将軍家光(竹千代:1604-1651)に乳母として仕えた春日局は、家光が子供のころに薬断ちしています。局が晩年に寝込んだ際に、薬を飲まないのを心配した家光は曜変天目でなら飲むだろうと(局は飲んだふりをしたそうです。頑固というか律儀)。茶碗はそのまま下賜され、稲葉家へ伝来。
小彌太さんが入手したのは1934年。小彌太さんは生涯曜変天目を使わなかったそうですが、小弥太さんの三回忌に夫人が仏前に献茶。
春日局(1579-1643)は、明智光秀の重臣だった斎藤利三(1534-1582)の娘。稲葉正成(1571-1628)との間に三児をもうけますが、大奥に入るため離縁。子の正勝(1597-1634)の子孫は後に淀藩主となり幕末まで存続。
麟祥院は1624年に春日局の隠棲所報恩山 天澤寺として創建。後に菩提寺となり麟祥院に。所在地は春日通り沿いの湯島。
局のお墓の隣には孫の稲葉正則(正勝の子:1623-1696)の正室の墓が。
岩崎家が曜変天目とともに入手した茶入稲葉瓢箪も同じ展示室内に。
付属の仕覆や象牙蓋に共箱が揃ったセット一式で展示されるのは興味深い。箱にも凝ったモノが多い。
そして小彌太さんゆかりの品々を。
御所丸茶碗の黒刷毛。絵は描いたのは小彌太さん、句を添えて林雅之助(婿養子・忠雄の実父)に贈ったそうです。原本は失われたそうですが、小彌太夫人により複製されています。
ちなみに小彌太さんの俳諧の師は高浜虚子、日本画は前田青邨。
1941年、小彌太さん制作の茶杓夕すげ。不苔庵は茶室の号で、釣月庵などの一部は、三菱グループの迎賓館開東閣に移築されています。
青漆小旅箪笥は、1945年の中村宗哲(11代:1899-1993)作で、極めは表千家13代即中斎(1901-1979)。
旅箪笥は千利休考案とされる携帯用の点茶箪笥。久田宗也(11代無適斎)から小彌太さんへ贈られました。久田宗也は小彌太夫妻の茶の湯の師匠。
では主役は?
付藻茄子(九十九髪)は、大名物の唐物茄子茶入。
過去のオーナーには足利将軍家、朝倉教景(宗滴:1477-1555)、松永久秀(1508-1577)、織田信長(1534-1582)、豊臣秀吉(1537-1598)、豊臣秀頼(1593-1615:罹災)。
松永久秀が上洛した信長に献上し、大和一国を安堵されています。
本能寺の変でも罹災の可能性があり、時の権力者の手を渡ってきました。
付藻茄子とほぼセットで展示されるもう一つの茄子茶入。
松本茄子(紹鴎茄子)も大名物の唐物茄子茶入。
こちらのオーナーは松本珠報、天王寺屋宗伯、武野紹鴎(1502-1555)、今井宗久(1520-1593)、信長、秀吉、秀頼(罹災)とこちらは著名な豪商の手を経ています。
2つの茶入の共通点は大坂の陣で罹災している点。
徳川家康(1543-1616)の命を受け、藤重藤元・藤巌父子により大坂城の焼け跡から探し出されて、3ヶ月で修復。後に家康より父子に下賜されます。
文字通り戦国時代を駆け抜けた茶入。
1994年の透過X線撮影によって修理状態が確認され、茶入の由来書にある記述も証明。さらに2022年にはトーハクでX線CTスキャン撮影され、藤重父子の修復技術やそのセンスがより詳細に把握されています。
CT画像では、両茄子茶入の複雑骨折具合が確認できます。
1884年、彌之助さんは購入にあたり給与を前借しています。この件で彌太郎さんから訓戒を受け、茶入は本家預かりに。彌之助家に戻ったのは1945年と小彌太さんの代になってからのハナシ。
以上の2点が今回の個人的主役。
ほぼ主役級の脇役
油滴天目(重要文化財)は、茶碗では曜変天目に次ぐNo.2の格付けで、産地は曜変天目と同じく建窯。天目台は水戸徳川家伝来。
虚堂智愚(1185-1269)は中国の禅僧。ともに重要文化財の墨跡。
就明書懐偈(左)のオーナーは足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、前田利家、角倉家と移り、表装は古田織部が改修。
景酉至節偈(右)は永く仙台伊達家所蔵を経て、伊達家の売立で岩崎家へ。
虚堂智愚はトーハクでも時々目にする、貴重なお坊さんの墨跡。
展示室では中国の方とおぼしき親子が、虚堂智愚の墨跡に熱心に食いついていたのが印象的でした。中国では墨跡はどのような扱いなのでしょうか。
長次郎作の黒楽茶碗で銘は紙屋黒。
命名は博多の豪商神屋宗湛(1551-1635)所持によるもの。唐入時に博多に立ち寄った秀吉を、宗湛はこの茶碗で献茶したという。
宗湛から鴻池善右衛門(宗知)、川上不白のオーナー歴を持つ黒楽茶碗。
楽茶碗は単体で見ても見分けがつきにくいのですが、並べてみると違いがけっこう分かります。
大和小泉藩主片桐石州(貞昌1605-1673)作の竹茶杓で、銘は友つる。石州の幼名は鶴千代。
石州の茶の湯の師は、桑山宗仙(貞晴:千道安の弟子:1560-1632)。
将軍家茶道指南役を、古田織部(1543-1615)、小堀遠州(1579-1647)から受け継いでいます。武家茶道石州流の祖。
色絵吉野山図茶壺は、野々村仁清の作、重要文化財。
旧蔵の丸亀藩京極家は、仁清の色絵作品が多く伝来したことで知られるそうです。シブめが多い今回の展示品の中にあって目立つ、華やかな茶壺。
京極家はバサラ大名京極道誉(1296-1373)で知られる近江源氏の名門ですが、やはり派手好みなのでしょうか。映えます。
最初は順路そのままで見学していましたが、お客さんの渋滞が発生しても、その場をスルーもしくはホワイエで一息入れて続きから鑑賞と、見学自由度の高さに気付きました(フツーか?)。動線もそれほど長くないので最後まで集中力も持続できます。
ほぼ撮影可能になっていた特別展でしたが、帰宅してアレコレ調べるのに非常に助かります。特に茶杓や楽茶碗は、目に焼き付けるだけでは到底無理な情報量。キャプションや解説パネルも工夫され、理解度が断然上がります。
丸の内への引っ越しで利便性も上がり、ますます充実の静嘉堂文庫美術館。