見出し画像

今だけちょっとズレてる北の現存天守 弘前城 青森県弘前市

日本各地には近世の権力の遺構・お城が残っています。近世城郭には天守という見た目に分かりやすいシンボリックな建築物がありますが、中でも現存天守と呼ばれる12城の歴史的価値は別格です(そもそも天守は必ず建てられたワケではありません)。
現存天守の5城が国宝、7城は重要文化財に指定され、お城ファンには目的地リストの上位ランカー(たぶん)。
現存天守は残念ながら関東・九州にはありません(熊本城には天守クラスの宇土櫓がありますが)。東北には唯一奥羽最北の青森県に鎮座してますが、現在はちょっと特殊な状況。


青森県はザックリ東の南部氏と西の津軽氏に分けられます。八甲田山を擁する奥羽山脈が県の真ん中で巨大な城壁のように。

津軽氏の拠点だった弘前市は青森県西部の中心都市で、人口は159,000人と県内第3位。市の西側に見えるのは青森県最高峰の津軽富士・岩木山。
りんごの生産量は全国1位(りんごが青森に入ってきたのは明治時代になってから)。市の西側から南側にかけては広大なリンゴ畑が広がっています。


弘前城

弘前城は日本最北の地にある現存天守(重要文化財)。かつては5層6階の天守があったそうですが、1627年に落雷による火事で焼失。地名は高岡から弘前に改められ、現在の天守(御三階櫓)は1811年に完成したモノ。
他に3つのやぐらと5つの門が現存し、いずれも重要文化財指定。
現在は天守石垣の修復のため、天守は曳家されて本丸中央部で仮の姿。

青森県弘前市下白銀町1


パンフ 2024年版

津軽藩は関ヶ原の戦いでの加増をふくめ47,000石(幕末時には100,000石)を徳川家康に認められています。
2代藩主信枚は幕府の許可を得て、弘前(高岡)の地に築城。藩祖為信ためのぶが居城堀越ほりこし城の軍事的不備を解消するため、高岡の地に目を付けたのが起点。
ちなみに堀越城は関ヶ原の戦いで為信さんが留守の時に、家臣による謀反が発生し占拠されています(移転理由の1つ)。

三の丸追手門(重要文化財)

三の丸追手門と二の丸南門は2021年から2年かけて60年ぶりの修理が行われています。鯱を新調し、漆喰の塗り直しや耐震補強も。
新しくはないけどスッキリしている印象。

追手門前の外濠内側は盛土され防御力アップ。
左側にチラリと見えるのは現代の政庁、弘前市役所。

弘前市役所

弘前市役所は前川國男の設計。弘前には前川作品が多く残っていますが、前川さんのお母さんは弘前藩士の血筋。

東側のお濠を北へ進んでいくと

津軽為信 像 @弘前文化センター

弘前の初代プランナーがお城を眺めています。そのすぐそばにある東門から入城。

三の丸東門(重要文化財)
二の丸東門(重要文化財)

重要文化財の門たちはデザインがほぼ同じ。写真だけではどこの門なのか判別が難しいかも。

天守がわずかに

コチラが現在進行形の曳家された天守と石垣修復現場。以前の濠(クレーン車の場所)には水が満たされ水草が密生。

2003年時 覚えてません
天守 お濠側面

お城に詳しくない方には違和感がないかもしれませんが、土台(天守台)がありません。
上の写真がお濠側、下の写真が本丸側。濠側は見られるコトを意識して屋根には破風が設けられていますが、本丸側はスッキリしたコストダウン仕様。

本丸側面
本丸御殿の模型 @天守

天守内では曳家の様子をビデオで公開中。解体するのとどちらが難易度が高いのでしょうか? 観光の為には曳家の一択か。

仮設の見学台

1810年に9代寧親やすちかが焼失から約180年ぶりに完成させた天守。
バランスのとれたデザイン。展示されている巨石は修復のため一旦石垣から外されているモノ。

本丸からもきれいに見える岩木山
昔の人たちは重機なしでの作業 恐るべし
2003年時の天守はこんなカンジ 覚えてません

弘前城の石垣修理は大正時代以来100年ぶりの大工事。1611年の築城当時には石垣はなく、石垣化はそれから80年後のコト。また1809年の天守再建時に修築されていますが、明治期に崩落が起きています。
1897年には弘前出身の大工・堀江佐吉さんが天守を曳家して石垣を修復。その完成は1915年。実は曳家の経験あり。

二の丸辰巳櫓(重要文化財)

藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列を観覧していた櫓。

二の丸南門(重要文化財)
二の丸未申櫓(重要文化財)

弘前市博物館から見える未申櫓。チョッピリ破風がデザインされています。


津軽家

2代 津軽信枚 像 @弘前市博物館

2代藩主の津軽信枚つがる のぶひら(1586-1631)。正室満天まて姫は徳川家康の姪、側室の辰姫は石田三成の娘。関ヶ原では家康が勝利しましたが、信枚の後継は辰姫の子信義のぶよし(1619-1655)に。
幕府の許可を受けて高岡に築城(後の弘前城)した人。


藩祖 津軽為信 像 @弘前市博物館

藩祖津軽為信ためのぶ(1550-1608)は、津軽地方から大名へとのし上がった人。南部氏の庶流出身とされますが、詳しい出自はヴェールに包まれています。
津軽の大浦為則おおうら ためのり(南部氏の庶流?:1520-1567)の養子になると、謀略を用いつつ南部家の内部抗争をうまく利用し、津軽地方に勢力圏を拡げていきます。その手腕にはダークサイドな面も。
豊臣秀吉による小田原の陣では奥羽の諸大名の中ではいち早く参陣し、津軽の領有を認められ南部氏を出し抜いています。
関ヶ原の戦いでは本人は徳川方についていますが、信建のぶたけ(長子:1574-1607)は石田方にちゃっかりつける両天秤。策略家です。
梟雄とも呼ばれ、前田利家による為信評は「油断ならないヤツ」(真田昌幸と同じ。味方にできればとっても助かるタイプ)。
戦国時代の梟雄といえば、松永久秀や宇喜多直家の名前が浮かびますが、為信は津軽家の基礎を築き、その家は幕末まで北奥羽に君臨したのが他者との大きな違い。

@弘前文化センター

為信さんは養子という事もあり、譜代の家臣を持っていませんでした。そこで浪人や周辺の大勢力(南部氏や安東氏)の敵対者から有能な人材を召し抱え、自らの家臣団を形成しました。
このあたりは豊臣秀吉に似ています。リクルーターそして彼らを適材適所に配置、正室阿保良おうらと共に家臣のやる気スイッチを押して軍団の士気を上げるそんな人。

南部家側からは領地を掠め取った悪いヤツ扱いですが、弘前では英雄扱い。本州最北端にありながら中央政権とのパイプを構築し、情報の重要性を理解していた人。

@弘前市博物館

為信さんは、前川國男があふれる空間・弘前市博物館(弘前城三の丸内)にも。多色摺りスタンプをしていた小学生が「でけーっ」と。

文化センター前の為信像の原型(同寸)です。
高さ3.6mのサイズですが、本人は190cm程の巨躯だったそうです。
前川さんの打ち込みタイルが保護色のように。

津軽家の家紋は杏葉ぎょうよう牡丹。豊臣秀吉に臣従した為信さんは、京都の公家に金品を贈り津軽家の箔付けを図ります。
摂関家の筆頭近衛家には「近衛家の落胤の血筋(大浦政信が近衛尚通の子と)」とムリ筋を認めてもらい、杏葉牡丹を家紋として使用するコトに成功します。同時に大浦から津軽へと改姓。

城内には無料貸し出しの傘が所々置かれています。傘立てのカメにはきっちり杏葉牡丹紋が。

為信 書状 @弘前市博物館

北陸の商人と考えられる藤屋への書状。津軽と上方(京都)の交易に従事し、津軽家の軍事、経済に寄与したとされています。

徳川秀忠 御内書 @弘前市博物館

為信さんへ宛てた徳川秀忠の書状。時期的に関ヶ原への招集状。

津軽歴代藩主像 @高照神社

中央トップが為信さん。その右下が信枚さん。

津軽藩領図 @弘前市博物館 緑色が岩木山

そして弘前城の一部のようなお寺も併せて記録。


長勝寺

黒門

長勝寺はもともと種里(西津軽郡鯵ヶ沢町)に大浦光信の菩提寺として建立された曹洞宗のお寺。為信の拠点移転に伴い大浦、堀越へと移り、さらに津軽家の菩提寺として現在の地に。
お城の南西に位置する要害の地にあり、33ヶ寺からなる長勝寺構と呼ばれる禅林街を形成し、弘前城の出城機能も兼ねています。
本堂や庫裡に信枚建立の御影堂や三門、なぜか北条貞時寄進の嘉元の鐘。そして津軽氏歴代の霊廟は重要文化財指定。

青森県弘前市西茂森1-23-8

黒門をくぐると長勝寺へとまっすぐ道が伸びていきます。

三門(重要文化財)
銅鐘(右)と庫裡(左) ともに重要文化財

庫裡は大浦城の台所を移築したとされています。

本堂(重要文化財)


要予約の有料エリア

お寺の裏から南側にかけては、津軽家の廟所(為信の御影堂と廟所が5基)が並んでいます(見学は要予約)。外側からはよく見えません。
廟は環月臺かんげつだい(為信室)、碧厳臺(2代信枚)、明鏡臺(信枚室)、白雲臺(3代信義)、凌雲臺(6代信著)。

廟所

左端は為信さんの奥方阿保良さんの霊廟環月臺かんげつだい。右の建物で真ん中に屋根だけわずかに見えるのが為信さんの御影堂。

三門(本堂側から)

御影堂へとまっすぐ伸びる長勝寺構。ココがゴール。


弘前は歴史や文化そして自然に恵まれた丁度良い規模感の町。各種コンテンツに不足はありません。(個人的には雪が積もる時期は遠慮したい)。

2015年から天守を現在の位置に曳家して石垣修復を進めていますが、天守が元の位置に収まるのは2026年以降の予定。
技術が進んできたのか失われつつあるのか分かりませんが、興味が尽きない明治と令和の職人さんたちの腕比べ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?