常陸からやって来た河内源氏の超名門 【久保田城・佐竹史料館・如斯亭】 秋田県秋田市
戦国時代の東北地方には、鎌倉以来の古い家(安東氏、南部氏、伊達氏、蘆名氏、葛西氏、相馬氏など)や室町幕府から送り込まれた足利系の家(大崎氏、最上氏、畠山氏)が割拠し、かつ複雑な婚姻関係により地域バランスを保っていました。
伊達政宗(1567-1636)の出現により南奥羽のパワーバランスは変化しますが、豊臣秀吉(1537-1598)による奥州仕置によって各大名・国人衆の領地はほぼ確定します。
一部中央から封じられた豊臣大名もいましたが、旧領安堵された大名は多く、彼らは改易された国人衆を吸収・再構成しつつ豊臣政権に従います。
秀吉死後に不安定になった政権内では、関ヶ原の戦いによって徳川家康(1543-1616)への求心力が高まり、家康の判断により関東の名門大名が出羽の国に移されています。
移封された大名は佐竹氏。佐竹義宣(1570-1633)は、常陸54万石から出羽の国へ領地高不明、つまり年収不明のまま転勤となりました(後に20万石に確定)。
石高で見れば大幅な左遷ですが、出羽の地は豊かな森林資源と金銀銅の鉱物資産に恵まれ、都から見れば僻地ではあるものの北前船による交易の恩恵もありました。ちなみに佐竹家は常陸でも鉱山開発のノウハウは蓄積。
また国衆・領民の従属化リスクは、義宣の父・義重の慎重なお国入り対応でクリアしています。
そんな佐竹氏が東北で残した歴史資料や文化を記録します。
県庁所在地でもある秋田市の人口は296,000人。
現在の県知事は佐竹敬久(1947- )さん、名前からピンとくるかもしれませんが、旧藩主家の一族で、佐竹北家(角館)の人。
佐竹氏
平安時代の源義光(1045-1127)は、兄義家(1045-1127)の後三年の役での苦戦を聞きつけプライベート参戦し、関東に自らの勢力扶植を進めます(義光の兄弟や甥との関わりには、源氏らしくドロドロの史実が)。
義光の孫昌義(義業の子、佐竹冠者:1081-1147)が佐竹氏の祖となります。昌義の継室は藤原清衡(奥州藤原氏初代)の娘。
ちなみに義光の子義清(武田冠者:1075-1149)は武田氏の祖(小笠原氏、南部氏が分流)となります。
ちょっと関西へ飛びます。
義光が元服したのは、近江の三井寺(園城寺:滋賀県大津市)。
三井寺本堂からは少し離れた北院伽藍にある新羅善神堂。三井寺開祖智証大師ゆかりの新羅明神坐像を祭っています。
義光はこの社前で元服し新羅三郎義光と称しました。ちなみに兄義家は石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服したので八幡太郎義家。
そのそばには義光さんのお墓も。平安時代の人なのでお墓というより塚。
社とお墓は、ちょっと分かりにくい場所にあります。
秋田に戻ります。
千秋公園:久保田城跡
1602年に義宣は秋田に移封(54万石→20万石)されます。その理由は義宣さんが石田三成と親しかったコトや、関ヶ原の戦いで中立的な態度を取ったためとされています。1603年に築城開始、石垣を組まないのが特徴です。
御物頭御番所が唯一の現存遺構、城内にあった遺構は明治期の火災で焼失。
御隅櫓は1989年に建てられたコンクリート造の模擬天守で、2001年には本丸表門を木造で復元。
秋田県秋田市千秋公園1-4
御隅櫓からの日本海方面。東北の日本海側には巨大な風力発電が並びます。
佐竹史料館
千秋公園内にあった旧秋田市美術館の建物(1958年築)を再利用し、佐竹家伝来の大名道具や藩資料を展示する施設として1990年に開館した市立歴史資料館。建て替えのため現在休館中。
藩祖佐竹義重(鬼義重:1547-1612)所用と伝わる黒塗紺糸威具足。前立ては毛虫がモチーフで熊毛、脇立ては鳥毛。目立ちます。
佐竹家の重宝には、源満仲(義光の曽祖父:912-997)の兜、源頼義(988-1075)の甲冑、義家の兜、義光の兜があったそうです。
ちなみに武田家の重宝としては、義光以来の御旗と楯無鎧が有名。
北関東の雄だった佐竹家は、領土拡大を目指した伊達政宗とも刃を交えています。ただし両家は婚姻関係も結んでいて、義重の正室は伊達輝宗(政宗の父)の妹。つまり政宗と義宣は従妹同士。
満仲は多田源氏の祖。子は摂津源氏、大和源氏、河内源氏と広がり、武家の棟梁と呼ばれた源氏の1人。義光ー佐竹氏の系統は河内源氏の流れ。
梅津憲忠(1572-1630)は、佐竹義宣の祐筆として採用された人。
大阪の陣での暴れ具合は、赤鬼でも青鬼でもなく佐竹の黄鬼と呼ばれたそうです。2代将軍秀忠から感状と太刀を下賜されています。後に藩の家老に。
佐竹氏の節目に発行された図録。写真はモノクロで資料としては・・・
現時点での佐竹氏関連図録のベスト版は、佐竹氏発祥の地(茨城)で開催された特別展のモノ。佐竹氏は常陸の国に約400年間君臨していたので、当然のように茨城ネタで埋め尽くされていますが、出羽(秋田)や関連の地についても触れられています。
タイトルにあるように佐竹氏の歴史解説(800年!)や論考、もちろん豊富な資料写真や図版を掲載。そして当然のように絶版。
上述の図録を比較すると20年の年月を明確に感じます。研究も進み、秋田市と茨城県というミュージアムの規模の違いもありますが。
如斯亭:佐竹氏別邸
3代藩主義処が家臣の大嶋小助に土地を与え整備させた別荘得月亭が起源。後に藩主へ献上され、9代義和が庭園等を整備し如斯亭と名付けます。
2010年に秋田市へ寄贈され、修復や復元整備を経て2017年から一般公開。
主屋や清音亭(茶室)は解体修理されています。南門、農具小屋、御萱門、東門は復元。ロケーションは千秋公園からちょっと離れた場所。
秋田県秋田市旭川南町2-73
茶室は非常に簡素。ちなみに初代義宣の茶の湯の師匠は古田織部。
佐竹家のアート:秋田蘭画
江戸時代の佐竹家では西洋画を日本画と融合させた秋田蘭画と呼ばれるアートが開花します。それは南頻派(中国からの写生的技法)や大名家を中心に流行した博物学的視点も混ざり合ったニューウェーブ。
中心人物は藩士の小田野直武と8代藩主佐竹義敦(曙山:1748-1785)に、直武の上司だった角館城代佐竹義躬(佐竹北家13代:1749-1800)。
曙山、直武の残した絵画には重要文化財指定の作品も。
解体新書はオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を蘭学医杉田玄白と蘭学者前野良沢の手により翻訳・出版された、日本西洋医学書のパイオニア。挿絵を描いたのが平賀源内に紹介された小田野直武。
小田野直武(1750-1780)は秋田藩士。角館勤務を経て、江戸へ絵画留学。後に藩主の側仕えに抜擢され、曙山の参勤交代に随従し再び江戸へ。
江戸では平賀源内(1728-1780)に西洋画法を学んだとされています。源内の所蔵していた蘭学系の書籍や、南蘋派のネットワークに直武はインスパイアされたコトでしょう。
直武と源内が出会うきっかけとなったのは、藩が源内に依頼した秋田での鉱山開発。源内の幅広い興味と教養が、出羽で直武という原石を発見して、直武たちは歴史に残る美術カテゴリーを創り出しました。
直武は数え32才と若くして亡くなっていますが、残された肖像画もなく謎に包まれています。彼や曙山の死後は秋田蘭画もフェードアウトしていったようですが、再評価されるのは後世に角館に生まれた画家平福百穂(1877-1933)によって。
2018年にはサントリー美術館(東京都港区)で直武と秋田蘭画の特別展が。
秋田蘭画は秋田市千秋美術館(秋田市)や秋田県立近代美術館(秋田県横手市)に数多く所蔵されています(上記図録表紙の直武作不忍池図:重要文化財は秋田県立近代美術館蔵)。
地元で作品が保存・展示されるのは、地域文化の継承には最も馴染む方法でしょう。ただ江戸や京からは、やはり遠いのが難点でしょうか。
出羽・陸奥の国は遠くて広大です。