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独眼竜・北のおさえ 金ケ崎要害歴史館【伊達家のトビラ4】 岩手県胆沢郡金ケ崎町

東北の雄伊達政宗だて まさむね(1567-1636)の築いた仙台藩は、東北地方最大62万石の大藩でした。そして仙台市は現在も東北の中心地。
伊達家はその広大な藩領統治のために、家臣たちに領域支配を認めるという戦国時代と変わらない統治方法(一種の丸投げ?)を用いています。
伊達家の家臣はカテゴリーによる階級設定がされています。上級家臣の一門や一家には大名クラス(2万石程度)の大身もいて、そういう家臣の治めた地域には多くの資料が残っていて、伊達家の歴史を物語ります。
さすがに金ケ崎要害のような3,000石クラスだと認知度はビミョー(魅力的ではある)ですが、南部藩に対する最前線に配置されているのは、藩主からの信頼が厚かった証でしょう。ちなみに領内北部の大身には、政宗の叔父留守政景るす まさかげの系譜水沢伊達家が。


胆沢いさわ郡金ケ崎町(ケは大文字)の人口は15,000人。郡で唯一の町となっていて、合併なしでも存続している不思議な町。
そして小さな町ゆえか、江戸時代の雰囲気を色濃く残しています。

江戸時代のこのあたりは伊達領の北端で、盛岡南部藩と仙台伊達藩の国境。伊達・南部の境界線は豊臣秀吉の奥州仕置によって決められています。
以後も境界線付近では争いが絶えず、1641年にようやく領境が確定。
ちなみに岩手県内では、かつての胆沢郡、江刺郡、磐井郡が伊達領。
金ケ崎要害は、北上川に胆沢いさわ川と宿内しゅくない川が合流する台地上にあります。


金ケ崎要害歴史館

歴史館は2014年の開館。要害はかつてのお城で、江戸時代には一国一城と幕府に定められていたため、伊達家が要害と称する砦に陣屋を設置。
長く統治していたのは大町氏。1644年から大町氏の所領となり、最盛期の禄高は3,500石。

岩手県胆沢郡金ケ崎町西根達小路2-1

金ケ崎要害歴史館 パンフ2020年版

近世の歴史(ほぼ伊達)と前九年の役に関する展示がメイン。

展示パネル @金ケ崎要害歴史館

案内の方のおススメは、話を聞いているとどうも安倍氏(前九年の役関係)。古い歴史を知っておいても損はないのですが、解説にはやや気合が入りすぎな印象(そういう姿勢はキライではありませんが)。
他館でも時々見掛けますが、相手の興味を探りつつでないとスタッフの方の情熱は空回りするコトも(自分が見る立場になってみる必要が)。
ちなみにスタッフさん推しの安倍宗任あべ むねとう(1032-1108)は、奥州藤原氏初代藤原清衡きよひら(1056-1128)の叔父。
前九年の役は、陸奥国奥六郡を治めていた安倍氏と朝廷側の陸奥守&鎮守府将軍頼義よりよし(988-1075)・義家よしいえ(1039-1106)親子との戦い。
勢いのあった安倍氏は黄海の戦い(1057年)で勝利し官軍を苦しめますが、1062年に清原氏の加勢を得た頼義親子が厨川柵くりやがわのさく(お城)で勝利し安倍氏を滅ぼします。
一方降伏後に京に送られた宗任は、田舎者扱いされたコトに対して和歌で返し、その教養の深さはみやこ人を驚かせたそうです。そして伊予の国へ配流。彼の末裔には奈良で暗殺された元総理大臣が。ここもポイントらしい。
とはいえ個人的には、まだ興味が平安時代まで至っていないのもポイント。


伊達家のスタイル

伊達領では広大な領内の統治拠点として、規模の大きな方から城、要害、所、在所を設定し、仙台領48館(幕末期には70館)と呼ばれました。
城は2ヶ所(仙台と白石)、要害は実に21か所。

また家臣の家格は、一門、一家、準一家、一族、宿老、着座の序列で、一門には大名クラスの所領を持つ家がありました。
序列順に、
No.1 角田石川家 21,000石(祖は石川昭光:政宗の父・輝宗の弟)
No.2 亘理伊達家 24,000石(伊達成実:政宗の祖父・晴宗の弟実元の子)
No.3 水沢伊達家 16,000石(留守政景:政宗の父・輝宗の弟)
No.4 涌谷伊達家 22,000石(亘理元宗:政宗の祖父・晴宗の弟)
No.5 登米伊達家 20,000石(白石宗直:晴宗の弟梁川宗清の子)
そして支藩の一関田村家が30,000石(政宗の正室愛姫の実家)
数代に渡って有力国人と結んだ婚姻関係が、伊達家の力の源泉に。

大町氏の家格は一族。伊達の殿さま直属の家臣と足軽も付属されていたようです。調べてみても、とにかく資料が少なくて詳しく分からないのが残念。

歴史館パンフより転載
展示パネル @金ケ崎要害歴史館

伊達と南部の境を決める時に、伊達側から「それぞれの城から同じ時刻にうまに乗り出発し、出会った場所を境にしよう」と手紙での提案がありました。
南部側も了承して、結果は伊達側が得をしたそうです。
理由は伊達側の移動スピードは速足で、南部側はのんびりだったから。これは南部側がうまと読み間違えたというコトで、損をした南部の殿様がくやしがったそうです。なにか伊達らしさも見え隠れするエピソードです。


城内諏訪小路:重要伝統的建造物群保存地区

保存地区パンフ 2020年版

この長い名前のついた保存地区は、長崎・島原の神代こうじろ鍋島家以来です。
町内の要害跡と武家町のほぼ全域が、保存地区に指定されています。
道路(小路)に面した側に屋敷が配置され、敷地は奥行きが広くなっているのが特徴。奥側に畑がある半士半農スタイル。
建物の背面に杉や松が植えられ、北風や雪に暑さを防ぐ役割を持たせ、成長した木は住宅材として利用。門を構える事は少ないそうで、生垣に武家屋敷の防御の役割を持たせています。

歴史館の隣には侍屋敷・大松沢家があり、ここには門があります(ちょっと新しい)。入ってみると屋敷は手入れされ、小洒落た飲食店に。

時間が早すぎて、店内は準備中だったので外観とお庭を見てスルー。
メニューはフツー。

岩手県に関しては、2023年に盛岡市がアメリカ・ニューヨークタイムズの「行くべき場所52か所」で、トップのロンドンに次ぎ選ばれています(この行くべきという表現は何だか・・・)。
「東京や大阪のような人混みを避けて歩いて回れる珠玉の街」とリポートされていますが、東京・大阪に比べれば地方都市はだいたいそんなモノです。
そして盛岡や平泉に人があふれるようになれば、金ケ崎の町は格好の次なる標的になるような気がします。

田舎は人混みがあまりないコトで、昔ながらの雰囲気を維持してきた面もあります。さほど観光客誘致には熱心ではない印象を持ちましたが、町の雰囲気を維持するのはお金よりも、住民の愛着や誇りによるものでしょう。



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