阿波おどりの殿さま 徳島城博物館&表御殿庭園 徳島県徳島市
四国はお城に恵まれた地域です。
江戸時代からの天守が残る現存12天守のうち、丸亀城(香川県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)の4城(すべて重要文化財)。加えて木造の復元天守を持つ大洲城(愛媛県大洲市:現存櫓も残る)もあります。
そして歴史好き目線で見てみると四国の県庁所在地は、かつての織豊大名が町の基礎を築いた町。四国の人々には東海地方からやって来た進駐軍。
高松の生駒氏、松山の加藤氏、高知の山内氏、そして徳島の蜂須賀氏。
いずれもスーパーゼネコン豊臣組で技術と経験を積んだ猛者たち。また武力だけでなく為政者としてのスキルも身につけていた面々(収奪するだけでは領主として長続きしない)。
現代の首長選挙で幅を利かせるようになったポピュリズムとは無縁の世界。
徳島県は四国東部、かつては阿波と呼ばれた山深い国(面積の約80%)。
以前、祖谷のかずら橋(県西部)から国道439号(愛称よさく)で徳島市を目指したコトがあります。道幅はそれほど広くはなく、終わる気配のない左右の切り返しに心は折られ、途中から北上して吉野川沿いの道へとルート変更。いわゆる酷道でした。
かずら橋から延々20kmほど切り返しとギアシフトのアップ&ダウンを繰り返し、徳島の山深さを実感しました。平家の落人が逃げてくるのも納得。
ちなみに大歩危・小歩危を通る吉野川沿いの山間部ルートは、リズムよく走れる気持ちのいい道でした。
徳島市はその吉野川河口に広がる沖積平野にあります。人口は245,000人、四国の県庁所在都市では最少。
唯一徳島県には天守が残っていません。阿波一国を治めたのは蜂須賀氏。明治期の廃城令によって、建築物がほぼ撤去されたのがその理由。
徳島城
徳島県徳島市徳島町城内
地図をながめると、お城が巧妙に川で囲まれています。
お城で唯一の生き残りだった鷲の門。幕府に「鷲を飼うから」と許可を得て建築されたそうです。しかし太平洋戦争で焼失してしまいます。
現在の門は1989年に個人により再建・寄贈されたもの。
門前に自転車や原付が駐輪されていて、市民の生活感が垣間見えます。
海までつながっているのか、お堀にはクロダイらしき魚影が。
香川の高松城や愛媛の今治城のお堀にも海の魚が群れていました。
当時の交通は海と密接な関係にあり、その要衝に築くのが近代城郭の基本。
石垣には阿波特産の青石が使われていて、整然とした近代的な切込接ぎと違った独特の風情があります。
城跡は公園となっていて、御殿風の歴史博物館が鎮座しています。
蜂須賀家
阿波の地を関ヶ原の戦い以前から江戸時代を通じて支配したのが蜂須賀家。
家祖は蜂須賀正勝(1526-1586)通称小六。尾張の国、蜂須賀村(愛知県あま市)の人。
清和源氏足利家の血筋に連なる、斯波氏(尾張守護)の庶流とされています(諸説あり)。豊臣秀吉(1537-1598)古参の与力・家臣として、覇業を支えました。
一部では野武士や野盗の親分とされてきましたが、創作によるものというのが定説。
藩祖は蜂須賀家政(1558-1639)、正勝の子。秀吉の四国攻めの武功により阿波18万石を父に代わって拝領。阿波おどりを創設した人(諸説あり)。
阿波の古狸と伊達政宗(1567-1636)から評されています(政宗も立派なタヌキですが)。
阿波初代藩主は蜂須賀至鎮(1586-1620)、家政の子。徳川家康の曾孫(信康系)を正室に迎えています。
大阪の陣の武功により淡路を加増され、25万7千石となります。
蜂須賀家の菩提寺・興源寺(臨済宗妙心寺派)は、お城からほど近い場所にあります。また一部藩主のお墓は眉山(万年山)にもあります。
興源寺の開山は家政の異父兄東嶽(父は伊勢の国司大名北畠具教とされる)。なんだかスゴイ人間関係。
また興源寺には阿波おどりも奉納されます。
藩主と一部家族に家臣のお墓が整然と並んでいます。
家祖・正勝さんのお墓は正室・大匠院(松)さんと並んでいます。他の藩主たちと違い、少し離れた一般の方々のお墓に囲まれたトコロに。
実は正勝さんと松さんのお墓は2024年2月に何者かに倒され壊されています(2001年にも同様の被害が)。つまらないコトをするヤツがいるものです。
話をお城に戻します。
徳島市立徳島城博物館
蜂須賀家から寄贈された大名道具類を中心に展示・収蔵する歴史系博物館、1992年の開館。
阿波は室町時代の管領細川家の分家や、その家臣ながら室町将軍家も圧倒した三好家の根拠地でもありました。
表御殿庭園
博物館に隣接して表御殿庭園が残っています。
水のない枯山水庭園と築山泉水庭園があり、1粒で2度おいしい贅沢な庭園です。こちらも青石を大胆に使用しています。
向かいのマンションからはどう見えるのでしょうか?
庭園デザイナー兼茶道家元 上田宗箇
庭園を手掛けたのは上田宗箇(重安:1563-1650)。
はじめは織田信長の重臣の丹羽長秀、後に豊臣秀吉の家臣となります。宗箇の妻は、秀吉の正室ねねの縁者(従兄弟の娘)。
宗箇は関ヶ原の戦いでは西軍だったため改易となり浪人。蜂須賀家の客将となっています。
その後大名並みの待遇で、紀州藩主となった浅野幸長(1576-1613:ねねの縁者)の家老となり、和歌山城西の丸庭園を作庭。
浅野家が紀伊から安芸へ転封すると広島へ同行し縮景園も作庭。また名古屋城二之丸庭園の作庭にも関わったとされています。
茶の湯は千利休、古田織部に師事していて、広島で現代まで続く上田宗箇流の祖となっています。
なにやら小堀遠州とオーバーラップするような経歴ですが、宗箇は武人としての経歴も申し分ありません。
本能寺の変後には、光秀と共謀の噂が流れた津田信澄(織田信長の甥)を討ち取り、大坂夏の陣では浅野方として樫井の戦いで大坂勢を撃退。
実はこの時に敵を待っている間、竹藪の竹から茶杓「敵がくれ」を制作するという豪胆さを見せています(茶杓は現存)。
こちらは築山泉水庭園サイド。青石を多用し、豪快な雰囲気。
ワイルド感あふれる庭園、石橋はややスリリング。
もう一方の枯山水庭園側
初代至鎮が踏み割ったという伝説が残る石橋。
徳川の姫に毒を盛られたコトに激怒した至鎮が踏み割ったと。
父に先立ち若くして亡くなっていることから生じたらしいフィクション。
ネタとしては怪しげな週刊誌レベル。
ちなみに至鎮さんは、前記図録の表紙でクリクリした目の人。
築城時は背後の城山に天守閣があったそうです。現在はアオサギでしょうか鳥の群れがチラホラ(頭になにか落ちてきそう)。
城山の石垣は岩盤剥き出しの場所も多く、縄文時代の貝塚遺跡が発掘されています。
宗箇の石組みよりはるかにワイルドな光景が広がっています。
城山(本丸)に登るより眉山から俯瞰するのがいいかもしれません。