雪舟と大内氏&毛利氏の遺産 常栄寺 山口県山口市
室町時代の後期は戦国時代と呼ばれ、戦略や才覚があれば支配者層になることも夢ではなかった世界。とはいえ将軍家を頂点とする幕府や各地の守護大名の権威性すべてを否定できたわけではありません。ただ変化に対応できなかった守護大名は、下剋上によって守護代ら(もしくはそれ以下の層から)に取って代わられています。
西日本で滅んでしまった守護大名には、筑前少弐氏や日本の6分の1を手中にしたという山名氏。また戦国大名化したけれども存続できなかったのが豊後大友氏や今回の重要キャスト周防・長門の大内氏です。
彼らの最大の残念ポイントは、伝来の歴史資料があまり残らなかったコト(歴史は敗者に対しては冷酷)。ただし文化面ではいろいろと現代に引き継がれた遺産も(諸説ありパターンですが)。
山口市の人口は189,000人。県庁所在地ですが、下関市の255,000人に次ぐ県内2番目の規模。
島根県松江市や鳥取県鳥取市と並び、人口20万人を切る県庁所在地。
山口は中国地方に分類されますが、天気予報では九州の一部という不思議。
室町時代には大内氏の拠点として栄えましたが、江戸時代には毛利氏は日本海側の萩を選択し(幕府に気を使ったとも)、一種の歴史の真空地帯に。
明治後には山口県の中心に復活しましたが、いまいちパワー不足感は否めません。
常栄寺
山口県山口市宮野下2001-1
現在の常栄寺の所在地には、元々大内政弘(1446-1495)の別邸が建てられていました。そして1455年に母の菩提を弔うための妙喜寺に。
寺名の常栄寺は、1563年に安芸吉田(広島県安芸高田市)の郡山城(毛利氏の居城)内に毛利隆元(毛利元就の長男:1523-1563)の菩提寺として建立されたお寺。
関ヶ原の戦いに伴う改易で居城を萩に移した毛利家は、常栄寺を山口に移し国清寺と合併。また隆元夫人の菩提寺も移され妙喜寺と合併し妙寿寺に。
さらに幕末に毛利氏が萩から山口へ本拠を移したタイミングで、常栄寺は妙寿寺の場所に移動・合併され現在に至ります。
ちなみに山口は隆元さんが大内氏の人質時代(少年期)を過ごした地。
常栄寺は大内家と毛利家そして画聖が融合した臨済宗のお寺です。
毛利隆元さんについて少し。
安芸高田に残る隆元さんのお墓。
こちらは隆元さんのお墓の近くにある父・元就さんの墓(こちらがメインか)。中央に墓標樹ハリイブキが植えられていましたが、枯れてしまったので後に育ったシラカシが支えるスタイルに。初期のお墓からは、大きく改変されているそうです。
毛利氏を飛躍させた方々、元就さんと三本の矢(隆元、吉川元春、小早川隆景)のお墓は広島県に残っています。以降の歴代藩主は山口県萩市内に。
山口に戻ります。
常栄寺は2つのお庭で知られています。最初に作庭したのは・・・
雪舟という人
雪舟(諱は等楊:1420-1506)は備中の生まれ。宝福寺(岡山県総社市)での小僧時代には、柱に縛り付けられても涙でネズミを描いたという。しかも足の指で(んーなわけないやろ!)。
大内氏に招かれたアーティストの1人で、遣明船で中国に遊学して画聖に。
本業は禅僧ですが水墨画を描き、作庭家としても突出した才能を持っていた人。国宝の作品は現在6点。
当時のお坊さんはいわゆる知識層で、思想や哲学を深めるとともに絵画や書、詩文にも通じていました。確固たるバックボーンがあったからこそ欲に溺れるコトなく美しいモノを追求できたのでしょうか。
帰国後は周防、豊後、石見で創作活動にいそしみます。
常栄寺のパンフには、晩年は山口の雲谷庵に落ち着き87才で没したと記載。
山口には雪舟さんの作品が残ってますが、白眉はやはり毛利博物館(山口県防府市)所蔵の四季山水図(山水長巻:国宝)でしょう。「大内氏滅亡後に毛利家が所蔵」とされていますが、分捕ったという意味でしょうか。
雪舟の作品各種
石見での雪舟さんのスポンサーは益田氏。兼堯像の原本(重要文化財)は益田市にあります。また同市内の医光寺、萬福寺には雪舟作のお庭が。
益田氏は大内氏滅亡後には毛利氏に臣従します。毛利氏の改易にも従っていて、須佐(山口県萩市)に所領を与えられます。
益田市は山陰の小さな町ですが、歴史ある魅力的なトコロです。
実は雪舟さんの亡くなった場所にはいくつかの説があります。周防・長門の方々は当然山口説を支持でしょうが、石見の方々は益田説です。
益田では雪舟さんは医光寺で火葬されたとしています。またお墓は江戸時代に改修されたそうですが、古いお墓の一部(相輪)が石龕に納められています。石龕の後ろには雪舟没後500回忌に追褒塔を復元。
ではお庭へ
まずは重森三玲
南溟庭は、常栄寺20世老師の依頼により重森三玲(1896-1975)が1968年に作庭。雪舟に敬意を持って「上手に下手な庭を作ってもらいたい」と禅問答のようなオーダー。イメージは雪舟が中国へ渡航した時の海。
三玲さんは東福寺や岸和田城のようなモダンデザインのお庭の印象が強かったのですが、南溟庭は禅寺直球でワイルドなお庭。
ちなみに三玲さんは雪舟さんと同じく備中の国の生まれ。
なぜか昭和天皇の名が。像はどなたでしょうか。さらに右には正親町天皇と。お寺の方のお話では、お寺に天皇さんをお祀りするのは珍しくないそうです。
大内氏とは
中国地方のキーパーソン・大内政弘は室町時代の守護大名で大内氏14代目。
最盛期には周防、長門、豊前、筑前の守護を務め、安芸・石見も勢力下に
応仁の乱では西軍の主力を務めます。戦で荒廃していた京から公家や芸術家を招き、山口を西の京へと発展させた人。
大内氏(多々良氏)は百済・聖王の後裔とされ、渡来系の血筋をアピールした珍しい一族。平安時代のころには周防の国の役人を務めた記録が残るそうで、室町期には幕府との抗争も辞さない程の勢力を誇りました。権力の源泉は博多商人と組んでの中国との貿易。
戦国時代末期に出雲尼子氏の勢力拡大や九州の大友氏・少弐氏らとの抗争で徐々に衰退。かつては勢力下にあった毛利氏によって滅ぼされました。
庶流が山口氏を名乗り(大内持盛系)、常陸牛久で15,000石(後に10,000石)の大名として幕末まで存続しています。
雪舟庭
本堂の前面には南溟庭。そして背後には雪舟庭。
南溟庭は見て楽しむお庭ですが、雪舟庭はかなり広く歩きながらも楽しめる池泉廻遊式庭園。本堂北側に900坪の広さ。
お庭にはお寺の起源となった大内政弘の母のお墓。
その横には雪舟さんの筆塚が。
増加するインバウンド観光客にも注目されつつある小京都・山口。
五重塔があってビジュアル的に分かりやすい瑠璃光寺(絶賛改修中)に比べ、地味な印象の常栄寺。
歴史好きならいろいろと広がりますが、外国人にはムズカシイかも。
雪舟さんは後の日本画家たちに大きな影響を与えた人と評価されます。
そして多くの日本文化の由来も室町時代から。幸か不幸か残された記録が充分でないのか、うっすらヴェールが掛かっている時代。
歴史的大発見!にはワクワクするコトもありますが、「諸説あります」も悪くないのかもしれません。
興味深い真実が眠っているであろう西の京。