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伝えられる400年前の手紙 【信長の手紙:永青文庫3】 東京都文京区

総合博物館・美術館と違い私設ミュージアムの企画展は、キャパは小さくとも質の高いトコロもあり、さらに年パスがあれば気兼ねなく何度も足を運べます。
またそういったミュージアムでは、所蔵品が思いもしないタイミングでチョコチョコ顔を出してくるので、特集的な展示では勢揃い感もあって贅沢な気分に浸れます。


お世話になっております永青文庫。
織田信長の名前を冠したキラーコンテンツは9年ぶりです。
信長・明智光秀・細川家のトライアングルは、本能寺の変という歴史好きには鉄板ネタ。生き残ったのは細川家だけなので、他家とは圧倒的な差別化が図れます。
メールによって手紙の役割が減少していく現代において、永青文庫が所蔵する書状は信長唯一の直筆確定という希少性が魅力。


永青文庫

東京都文京区目白台1-1-1

永青文庫は肥後細川家に伝来した大名道具や美術品を所蔵・展示するミュージアム(国宝8点、重要文化財35点を含む約6,000点)。所蔵する文書類(重要文化財あり)は旧領国の熊本大学付属図書館に寄託され絶賛解読中。
また熊本県立美術館でも本館と別棟に常設展示室(細川コレクション)が設けられ、所蔵品を目にするコトができます。
文庫は昭和初期の建物で、旧細川侯爵家の家政所(事務室)。本邸は隣接する和敬塾の本館として現存しています(見学は予約制、通常非公開)。
家政所ですが、一般的な住宅よりはるかに立派。

文庫の前理事長は肥後細川家18代当主で元内閣総理大臣の護熙もりひろさん。2023年からは、次期当主の護光さんが理事長に。ちなみに護熙さんの弟忠煇ただてるさんは公家で摂関家の1つ近衛家当主。

パンフ 2024年版

パンフの表紙は菱田春草ひしだ しゅんそうの黒き猫。
いつものごとく展示室は撮影不可。パンチ不足な文章をカバーするために、参考写真を多用しています(原本が永青文庫蔵のモノもあります)。


信長の手紙

信長の手紙 チラシ
2024年10月5日-12月1日 永青文庫

今回は2022年に新発見された1通が加えられた信長関係の書状群が主役。

信長からの手紙 チラシ
2015年3月-6月 永青文庫

9年前の展示チラシ。微妙にコピーが変わっています。
冷静に考えてみると、前回はなんだか恐ろしい手紙のようにも受け取れます(あくまでイメージ)。
細川家文書は2013年に256通が重要文化財に指定。そのうち59プラス1通が信長関係。展示は書状だけでなく、戦国期から江戸初期の御当主3人の肖像画や具足等も展示されています。

まずは手紙の送り手、覇王織田信長(1534-1582)。

信長像(模本) @トーハク
信長像 @清州城跡

個人的なイメージは、情報を重視した即断即決で配慮のきめ細やかな人。
かつては革新的な人のイメージが先行していました。現在は研究が進み、それほどでもなく、それだけではないコトも明らかに。

(参考)信長 書状 @トーハク

信長が武井夕庵たけい せきあんに、北条家の使者への取次を命じた書状。
「おみやげ忘れないように!」(超意訳)。夕庵は信長の右筆。手紙だけ書く仕事ではなかったようです。

(参考)信長 招待状 @福岡市博物館

博多の豪商嶋井宗室しまい そうしつや堺の商人への茶会の招待状。松井友閑ゆうかん直筆(信長の右筆)。信長は宗室を重要視していたようです。この先の信長のヴィジョンが少しチラチラと(秀吉が継承)。
そしてこの茶会こそが本能寺の変の前日開催。

(参考)信長 朱印状(複製) @香川県立ミュージアム

瀬戸内海の塩飽諸島の住民の権利を保障したのが朱印状。信長の代名詞、天下布武の印が(原本は塩飽勤番所蔵)。


今回の展示の目玉は、やはり新発見の藤孝さんベタ褒めの書状信長自筆による忠興への感状でしょうか。ベタ褒めの書状は、明智光秀に対しても送られています(状況が手に取るように分かる等々)。
感状は離反した松永久秀攻めでの与一郎(忠興)の働きを絶賛したモノ(チラシの下半分)。
信長自筆の根拠は堀秀政ほり ひでまさ(久太郎:1553-1590)の添状の存在。秀政は信長お気に入りの側近の1人、つまりはかなりの切れ者(戦闘力だけではダメなんです)。
ちなみに同じ戦いでは、藤孝にも黒印状(敢闘賞的な)が発給されていて、今回の会場にも展示。


(参考)忠利像(複製) @小倉城

信長関係の文書類がまとまった形で残ったのは、三男ながら結果的に嫡男となった忠利ただとし(1586-1641)の手柄。母はガラシャ(玉子:明智光秀の娘)で、豊前小倉から肥後藩主に大出世。
忠利は書状の価値に気付いたのか、叔父や菩提寺に分散していた書状を収集し大切に保管、それが現在の細川家文書に。
残念ながら父・忠興より先立ってしまいます。亡くなる直前の嫡男光尚みつなおへの書状は泣けます。「手がしびれてうまく字が書けない」と。

今回の展示でも図録は発行されていますが、前回とかなりカブる内容が多く入手見送り。前回の図録も充実した内容ですが、当然のごとく絶版。

信長からの手紙 展 図録
編集:熊本県立美術館
2014年 152ページ
発行:熊本県立美術館、永青文庫


肥後細川家

(参考)細川三代 @小倉城

細川家のはじまりは、三河国の細川郷から。細川和泉上守護家の初代は、細川頼有よりあり(1332-1391)で、父や兄と共に足利尊氏に従って各地を転戦。
兄の頼之よりゆきは足利将軍家からの信頼が厚く、室町幕府ナンバー2の管領を務め、京兆けいちょうと呼ばれた細川惣領家。

(参考)頼有 譲状(複製) @香川県立ミュージアム

頼有が嫡男松法師に所領を譲るコトを伝えた書状。ひらがなで書かれていますが、所領である阿波や讃岐の地名が細かに記載されています(原本は永青文庫蔵)。和泉上守護家のはじまり。


細川家の人物で、信長と直接関係があったのは細川藤孝と忠興の親子。

細川藤孝ふじたか幽斎ゆうさい:1534-1610)は、はじめ足利義輝あしかが よしてるの家臣。義輝が三好勢に殺されると、義昭よしあき(義輝の弟)を三好勢から救出し支えます。そして義昭の将軍擁立のため、明智光秀と共に信長の上洛をバックアップします。
和歌に優れ、武家ながら古今伝授を受けています。関ヶ原の戦いではそのために勅命が出され命を救われます(計算づく?)。関ヶ原にも影響が。
信長没後の藤孝さんは、的確な判断で主君を豊臣秀吉、徳川家康へと変えていきます。


(参考)忠興像 @小倉城

細川忠興ただおき三斎さんさい・与一郎:1563-1646)は藤孝の子。正室はガラシャで、信長の命による婚姻。
本能寺の変後は秀吉に仕え、藤孝の所領だった丹後半国を継承。そして一色氏を滅ぼし丹後一国12万石を掌握します。
関ヶ原の戦いでは東軍の主力として石田三成勢と激突。戦後は徳川家康による大幅加増で、豊前中津39万石へ転封。後に拠点を中津から小倉に。
忠利の代に肥後54万石へと転封し、忠興は八代を隠居地に。
短気な人として知られ、愛刀兼定は家臣36人を成敗し歌仙兼定の異名を持っています(諸説あり)。また出奔した次男興秋おきあきは大坂の陣で豊臣方についたコトで、忠興から自害を命じられています。
茶の湯に通じ(千利休の高弟)、甲冑のデザインにも非凡なセンスが光ります(越中流・三斎流)

(参考)@熊本県立美術館

関ヶ原の戦いで忠興が着用した具足は、御吉例の具足として歴代藩主にもコピーされています(右側:兜に炸裂しているのは山鳥の尾)。軽量なのが特徴で13代藩主韶邦よしくに所用。ちなみに左側は茲詮しげあき(11代斉樹なりたつの弟)用。忠興さんのセンスではありません(たぶん)。


(参考)蘭奢待 @三井記念美術館

展示には蘭奢待らんじゃたいも出品されていました。写真のような錫製のケースの他に黒いケースが出展。信長さんからの拝領かは不明。藤孝さん、忠興さんどちらが拝領したのでしょうか?

忠利は父・忠興との書状のやり取りで、良い知らせや緊急の手紙には付箋のような印を付けていたそうです。忠興が手紙を開ける前に、悪い知らせかもとドキドキしなくて済むようにという配慮から。
これは光秀と忠興の間でも行われていたそうです。細川家文書には、忠興がそんな光秀を回想する文面も残されています。


丹後宮津には、忠興さんによって信長の菩提寺が建てられています。そして細川氏の転封に伴い、豊前小倉そして肥後では忠興の隠居地・八代に引っ越しも。八代移設時に作られたのがこの五輪塔。
信長さんの墓や供養塔は全国に20基ほど存在するそうですが、九州はで八代だけ。菩提寺は明治維新で廃寺となり、五輪塔は現在の八代第一中学校のグランドの端っこに。かつての菩提寺には信長さんの木像もあったそうです(行方不明)。

忠興さんの信長への思いは今も肥後熊本に。

(参考)@熊本県八代市
(参考)信長 五輪塔



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