死ぬのが怖い人へ(7)
前回、私は「浄土真宗の教えや法話を正確に理解すれば獲信できるはず」と考え、むさぼるように教えを学んだ日々について書きました。しかし結果としては何も変わりませんでした(※第六章を参照)。追い詰められた私は念仏(なむあみだぶつ)に注目することにしました。
念仏・・・古臭いが重要なもの
当時の私の心境は、
「浄土真宗の教えを正確に理解しても獲信できなかった。一体何をすればいいのか?」
というものでした。次にやるべきことが思い浮かばないのです。
なぜなら浄土真宗は仏教の一派ですが、珍しいことに修行する必要がありません。「必要なことは全て阿弥陀仏がやってくださった」という教義であり、その阿弥陀仏の願いを聞くことが重要だといわれます。具体的には、お坊さんの法話を聴聞したり、分からないことを質問したりするわけですね。
だから前回書いたように、私は教えについて調べ尽くしました。何か獲信できる秘密があるのではないか? と、必死で細かいところまで学びました。しかし・・・とても私には信じられない教えだ、ということが明らかになっただけでした。
もう学べることがない。獲信のための手がかりが見当たらない。
困り果てた私は、何か見落としていることがあるのではないかと、必死で考えました。
(ロダンの『考える人』みたいになりました)
(・・・阿弥陀仏の本願をみれば「念仏となえる者を、極楽浄土に生まれさせ仏に成らせる」と書いてある。たしかにそう書いてはあるが、私には全く信じられない。極楽、成仏、念仏・・・)
(・・・ん? なにか今、大事な言葉が浮かんだような・・・)
(・・)
(・)
「念仏?」
はたと私は気付きました。
取り組んだこと2、念仏するようになった
浄土真宗でも浄土宗でも、念仏はこの上なく重要なものとされます。念仏といえば「なむあみだぶつ」ととなえることであり、お寺にいけば念仏する老人が時々いました。またお坊さんの法話が始まるときは皆が念仏するので、私もなんとなく一緒にとなえていました。でも日常的には、私は念仏をとなえていなかったのです。
『馬の耳に念仏』ということわざもあります。
というのも、念仏なんて古臭いし、かっこ悪い・・・という単純な思い込みがあったからでした。
しかしよく考えてみれば、念仏は私でもできる。極楽や成仏を信じられない私でも、念仏をとなえることはできる。
そして法然も親鸞も蓮如も妙好人も、念仏をとなえない人はいなかった。妙好人を調べると、日頃から念仏ばかりしていた人物の記録も多く残されています。いつも「なむあみだぶつ」とつぶやいていたため、念仏蟹(ねんぶつがに)とあだ名をつけられた人もいるほど。
そこには重要な何かがあるはずでした。
失敗者に学ぶ
そして念仏といえば、親鸞会(※第四章を参照)のことを思い出しました。それは親鸞会には積極的に念仏する人がほぼいなかったという事実です。
なぜかあの会では「念仏をとなえるようになるのは獲信した後だ。獲信前なんだから念仏するよりも聴聞やお布施の方が大事」と言う人ばかりでした。せいぜい法話の前後で形式的にとなえる程度で、日常的にとなえている人はほぼ無し。
つまり以下のようになります。
・獲信者(法然・親鸞・蓮如・妙好人) → 念仏となえていた
・親鸞会の会員 → 念仏となえていない
ここには大いに学ぶべきものがある、と私は感じました。俗に「成功したいなら成功者をマネしなさい」と言われます。反対に「失敗には必ず原因がある」とも言われます。親鸞会を反面教師にするべきかもしれない・・・と思いました。
私が親鸞会に顔を出していた頃、獲信したという人の話を全く聞きませんでした。たくさんの会員が必死で獲信を求めていたので、もし1人でも獲信したならばすぐに噂が広まったはずです。しかしそんな話は聞かなかった。
親鸞会は浄土真宗に熱心な人が大集合している団体でした。法座イベントを開けばさいたまスーパーアリーナのような巨大会場が満員になるほど、たくさん会員がいた宗教団体です。昔なら各地のお寺で熱心に聴聞していたであろう人々の多くが、親鸞会に吸収されていました。
そんな人々が、会員だけでなく講師も含め、そろって未信者(獲信してない人)ばかり・・・獲信者が出ないのは何かが決定的に間違っているからとしか思えませんでした。
なぜ念仏がオススメされるのか
ところで、なぜそれほど念仏がオススメされるのでしょうか? 浄土真宗の教義から考えてみました。
教えを復習してみると、仏願の話(※第六章を参照)において、念仏(南無阿弥陀仏)は最高に素晴らしいものとして描かれています。なぜなら私を仏に成らせてくれるからです。つまり仏教の最高のゴールである「成仏(悟りを開くこと)」を達成させてくれるものなわけですね。
そして仏願を詳しく説明するお話は、別名「南無阿弥陀仏のおいわれ」とも呼ばれます。つまり念仏の由来であり、念仏について説明したものだと言えます。具体的にいえば、なぜ南無阿弥陀仏がつくられたのか、南無阿弥陀仏をとなえた者はどうなるのか、を説明してあります。
その仏願の主旨が「たとえ悪人であっても、念仏となえる者を成仏させる」というもの。なので念仏することは仏願にしたがうことにもなります。
ならば・・・「念仏をとなえるようになるのが自然な流れではないだろうか」と私は考えました。普通に考えれば「念仏となえる者を成仏させますよ」「南無阿弥陀仏は素晴らしいですよ」というのが仏願なのです。それを何度も聴聞しながら念仏をとなえないというのは、やはり不自然だと思いました。
小声の念仏
では私は大きな声で常に念仏をとなえるようになったか? というと、そうではありませんでした。
念仏なんて古臭いし、恥ずかしい・・・念仏をとなえるのは気が進みませんでした。
もちろん「念仏をとなえる」といっても、特別なことではありません。ただ口に「なむあみだぶつ」と言えばいいわけで、子供でもできます。
ですが・・・やっぱり気が引けるし、よく分からない呪文みたいで、抵抗がありました。
そこで私は、周りの人に迷惑をかけない範囲で「南無阿弥陀仏」ととなえるようになりました。他人に気づかれると恥ずかしいので、誰にも聞こえないよう、口の中だけの小さな小さな念仏でした。
法然も親鸞も蓮如も妙好人も、みんな念仏をとなえていたわけです。さらに獲信する前から念仏を習慣にしていた妙好人の記録もあります。念仏に重要な何かがあるのは明らかでした。
念仏をとなえて分かったこと
こうして私は未信の念仏者となりました。まだ獲信はしていないけど、念仏をとなえるようになったわけです。
念仏をとなえるようになって判明したことは、私は念仏が全く好きではないということです。
よくよく考えれば、もし本当に「念仏は私を仏に成らせてくれる宝物だ」と思えるならば、人前で堂々と大きな声でとなえてもいいはずです。最高に素晴らしいものと心底から確信があれば、恥ずかしがる必要はないでしょう。
しかし、例えば電車やバスの中で念仏をとなえるなんて、恥ずかしくて私にはできませんでした。人に見られたら変な奴だと思われてしまうだろうし。
またこんなことを想像してみました。
例えば、外を散歩しているとき、道の向こうから黒づくめの服を着た男が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とうなるように念仏しながら近づいてきたらどうか?
見た目は怪しくても、無上の功徳をもつ念仏をとなえている人なのだから、こちらは手を合わせて拝んでもいいわけです。ですが私はきっと「うわっ、変な人が来た!」といってそっと逃げてしまうだろうと思いました。
さらに、致命的な事実がありました。
いくら念仏をとなえてみても、救われた実感がまるで無かったのです。はっきりいって0%、あまりに実感が無さすぎてバカらしくさえなりました。そのため自分の口から出ている念仏が「極楽に生まれて成仏する証拠」とは思えなかった。法話で説かれることを、私はまるで信じていなかったのです。
つまり私の本音をいえば、念仏にたいした価値を認めていない・・・ということが判明しました。
結果としては、念仏をとなえても何も変わらず、むしろ救いようのない自分が見えてくるばかりだったのです。
自力念仏(じりきねんぶつ)
ちなみに念仏は阿弥陀仏の呼び声だとも言われます。どういうことかというと、阿弥陀仏が私の口を通して「お前を仏に成らせるぞ、必ず成仏させるぞ」と呼んでいる声だという意味。
なぜなら阿弥陀仏の目的は私を仏にすることです。そして仏願からいえば、念仏をとなえる者は成仏する。だからこそ、阿弥陀仏(他力)はなんとか私に念仏をとなえさせようと働きかけているのだ、念仏はその呼び声なのだ・・・と。
・・・ですが、私には意味が分かりませんでした。
浄土真宗の教義からいえば、確かにそういうことになるのでしょう。しかし救われた実感がゼロなのですから、いくら阿弥陀仏の呼び声なんだよと言われても、納得できないわけです。
それに「じゃあ私が南無観音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)ととなえたら、それは観音さまの呼び声なの? 南無釈迦如来(なむしゃかにょらい)ととなえたらお釈迦さまの呼び声になるのか?」という疑問も出てきました。
結局は、私の本願疑惑心が除かれていないので、いくら教義的に正しいことを言われても受け取ることができない・・・やはり妙好人の境地とはかけ離れているのです。
浄土真宗の信者の中には、本願疑惑心がのぞかれないまま口先だけで「南無阿弥陀仏、ああ阿弥陀様のお救いが有り難い、南無阿弥陀仏」と言う人もいます。これを俗に自力念仏(じりきねんぶつ)と言います。他力信心を得ていない者の念仏という意味です。
念仏しながらも獲信できないままでいた私は、自分こそが自力念仏の者じゃないか、と激しく落ち込みました。
念仏にわずかな希望を見出していた私は、またしても途方にくれることになりました。
(次回の記事は、追い詰められた私が最後の望みを託したものを書く予定。興味がある人、続きを読みたい人はシェア・ツイートしてくださると執筆の励みになります)
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