感情の孤独さ
天にも昇るような幸福も、心を引き裂くような絶望も、最終的には自分自身にしか理解できないもの。アマチュアとはいえ、いち表現者として、そのことは忘れてはならないと思うのである。作品をバズらせるためにも。
普通、感情というものは、自他問わず相手が人間であるという時点で理解できるものとされる。共感という言葉がある通り、世間では、感情は誰しもが共有できると認識されている。これができない人間はサイコパスと呼ばれ、異常者扱いを受ける。まぁ、アニメの流行りで最近は感情が理解できるとしても、少し周りと違うだけでサイコパス扱いされることがあるわけだが。使い方が軽くなった分、言葉が持つ重みも軽くなった。
もとい、一般的に共有可能と思われている「感情」なのだが、実際のところそんなことは不可能なわけである。
これはよく考えれば当然の話で、家庭環境や人間関係といった身の回りの条件が異なる別の人間が、全く同じ質の感情を抱くということ自体が異常なこと。例え兄弟だとしても、兄としての立場、弟としての立場と、条件が異なるために「似たような感情」を抱くことはあり得るが、「まったく同じ感情」を抱くことはあり得ない。
小説に限らず表現は、読者や視聴者の持つ共感に訴えかけて、その心を動かす。高い共感を集めるほどその作品はバズり、有名になっていく。
有名な作品を作るためには、誰もが受け入れることができる状態から物語を始め、登場人物たちの精神世界に読者の感情を流入させ、見始めた時点では思いもしなかった精神状態に引きずり込む必要がある。ありきたりな設定の中にキラッと光るナニカを紛れ込ませ、そのナニカというフックから、作品の世界観に引きずり込む罠を張り巡らせる必要がある。
そもそも感情というものが共有不可能なものであることを認識していないと、この「引き込み」を上手く実行できないはずなのだ。
創作論に寄せて話したものの、最終的に僕が伝えたい本質は、そんなに複雑じゃない。
自分にとってどれだけ嬉しいことがあっても、他人からしたら「ワケがわからない」なんてことがあるし、死にたくなるほど絶望的な気分でも、周りから見たら「そんなことで」になってしまうことがある。
逆に他人にとってどれだけどうでもいいことでも、自分にとっては世界が変わるほどの「劇的な一瞬」となる可能性がある。
そんな一瞬を逃してしまうのは、とても惜しいと思うのだ。それだけ。
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