当たり前にその辺を歩いている善い人間への憧れ

 「善い人間」=善人という言葉を耳にしたとき、読者諸賢におかれては、様々なイメージを抱くことと思う。キリスト教の聖人のような善性溢れた人間、親切が行き過ぎて空回ってしまう迷惑さん、朴訥でトゲのない性格。

 僕は「善い人間」とは人間として当然あるべき姿のことだと思っている。

 ――――いや、この言葉は正しくない。
 理想的なくらい平凡な、人間として当たり前の生き方をこそ「善い人生」と呼ぶのだと、そのように考えているのである。

 他人を大切に思うとか、他人に優しくするとか、朝起きて仕事に行くとか、他人と会ったら挨拶をするとか。そういう当たり前の人生を生きる人こそが「善い人間」だと思っている。

 そしてそんな在り方に、ある種の憧れを抱いている。僕にとっての「善い人間」とは、なろうとするのにとても敷居が低く、そのゆえに、そうあろうとすることが難しい存在なのだ。

 善くあろうとするには、とてつもないエネルギーが必要なのである。自分を高める努力よりも、他者を蹴落とす策謀の方がよっぽど効率的だ。毎朝六時に活動を開始するよりも、用事直前に起き出して外出準備をする方が消費カロリーは絶対に少なくて済む。

 ならば僕の言う「善い人生」に、一体どんなメリットがあるというのか。

 答えは「後ろ向きにならなくていい」こと。言い換えるなら、前を向いて空を見上げ、後ろ暗い過去やしがらみからの束縛をものともしない。そんな生き方が、この善い人生だと思うのである。

 先も言ったが、善くあるためにはエネルギーが必要である。そのエネルギーをどこからまかなうかと言えば、心の内。いわば気力や活力といったものを消費する。そして我々の持つ最も活力を食いつぶしている感情は、後悔・諦め・罪悪感。まとめるならば負の感情。

 善くあろうとする生き方は、必然的に、後ろ向きな感情を維持できない状態へと、心構えを持ち込んでいくと思うのである。

 ここで一つだけ注意してほしいことがある。
 「善い人間」「善い人生」についての議論でここまで文字数を食ったわけだが、そもそも「善い」とはどういうことを指すのか。

 僕は「善い」を「周りを幸せにする」と定義している。
 周りを幸せにする人間が善い人間で、周りを幸せにする生き方が善い人生。不幸にもこの世界では、少年漫画の姑息な罠みたいな状況が起こる。何を選んでも何かを損なって、どれを選んでも誰かが不幸になる。その中で自分の未来を選んでいかなければならない。

 とても苦しく、周りを幸せにする「善い選択」なんてできっこないと諦めてしまいたくなる。けれど考えてほしい。その思考の裏側には、手が届かない人を思い遣る、あなたの優しさがあるのである。

 神様じゃない人間には、手の届かない範囲がある。これはどうしようもないこと。厳然たる事実と言わざるを得ない。

 けれども状況が違えば、その人をすくい上げることができるんじゃないだろうか。その状況を通り過ぎて、周りの事物が落ち着いてしまえば、もう一度、今度は取りこぼしてしまった人にピンポイントで手を伸ばすことができるのではないだろうか。

 そこまで行き着けたなら、それは単なる諦めとは言えない。全てを救うための手段と言える。僕はそう思う。

 天変地異と呼ぶにふさわしい数々の自然現象により、人類は有史以来初めて(と言っていいほど)の過酷な環境に置かれている。毎日生きているのがやっとで、他人のために自分が我慢するなんて、身を粉にして気遣うなんて馬鹿馬鹿しいと感じてしまうこともある。

 だとしても。僕が周りの人とニコニコ笑って過ごせるように。当たり前の生活を当たり前にして、幸せを未来へ運んでいくために。僕は僕の手が届く範囲の人を思い遣って、優しい人間・善い人間になりたいと思う。

 だって周りの人間には笑っていてほしいもの。生きていれば無自覚に享受できる幸せを見逃さない、むしろ周りにおすそわけできるような、そんな人間でありたい。

 理想論、あるいは偽善者。そう言って馬鹿馬鹿しいと切り捨てる人が多いのかもしれない。けれど、周りを笑顔に、幸せにする生き方を考えるというのは、理想ほどに遠くはないと思うのである。隣にいる愛しい人だけでいい。親や教師、同僚といった身近な人だけでいい。余裕があるときにその人の立場で物事を考える。

 それが偽善者の語る理想論なのだとしたら、きっとこの世には善人も、悪人すらも、むしろ人間そのものがいなくなっているに違いない。ただただ互いを食いつぶすだけの、人間とすら言えない社会なる群体の枝葉。それが末法の時代にコンクリートのジャングルでうごめいているだけである。システマチックに、淡々と。

 僕は当たり前に街を歩いている、たくさんの「善い人間」に憧れている。

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