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音楽史に名を残したJ Dilla入門編

はじめに

J Dillaは音楽史に残るプロデューサーであり、音楽業界に大きな影響を与えた存在である。最近では、星野源がMCを務めるNHK番組「星野源のおんがくこうろん」の初回放送にて紹介されていた。星野源はJ Dillaについて「ディラが音楽をやっていなかったら僕はここから消える」と言及した。この様に日本のメインストリームにいるアーティストもJ Dillaの影響を受けている。
彼については多くの媒体で情報が載っている。したがって、今回はJ Dillaの入門編ということで本記事では細かいことについては言及はしない。あくまで入門書として扱ってくれたらと思います。

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彼の原点であるSlum Village時代

J Dillaのキャリアの原点であるSlum Villageは1990年代初頭にデトロイトで結成された。グループはJ Dilla(Jay Dee)、T3、Baatinの3人で構成され、彼らはアンダーグラウンドシーンから台頭し、独特なリリックとJ Dilla特有のビートで特徴的な音楽を生み出していた。
Slum Villageが発表した初期の作品『Fantastic Vol. 1』(1997年)は、その当時の主流ヒップホップとは異なり、サンプリングを駆使した繊細なビートと抽象的なリリックが特徴であった。この作品は、広く流通はされなかったものの、デトロイトのヒップホップシーンやアーティストの間でカルト的な人気を得ていた。
グループの名を世界的に広めたのは、1999年にリリースされた『Fantastic Vol. 2』である。このアルバムは、彼らをアンダーグラウンドからメインストリームへと引き上げ、特にJ Dillaのビートメイキングが高く評価された。Q-Tip(A Tribe Called Questのメンバー)やBusta RhymesD’Angeloなどの有名アーティストが彼の才能に注目し、彼らとのコラボが増えていった。Slum Village時代のDillaは、リズムの不規則さを駆使した「ラフなグルーヴ」を創り出し、これは後に彼のシグネチャーサウンドとなった。

プロデューサー時代

Slum Villageでの成功がきっかけで、J Dillaは徐々にソロのプロデューサーとして活動を拡大し、90年代後半から2000年代にかけて、ヒップホップの重要な人物としての地位を確立。彼のスタイルは、ジャズやソウルのサンプリングを基調にしつつ、リズムやタイミングをずらしたビートで、従来のヒップホッププロデューサーのアプローチとは一線を画すものであった。特に、ドラムの「不均一」な配置が、ビートに独特のスウィング感を生み出し、その後の多くのプロデューサーに影響を与えた。
Q-Tipは、デトロイトのアンダーグラウンドシーンで頭角を現しつつあったJ Dillaの才能に早くから注目しており、彼のビートメイキングのスタイルに強い関心を持っていた。Q-Tipの紹介によって、J Dillaは当時西海岸で注目を集めていたThe Pharcydeと楽曲制作を行うようになる。当時のThe Pharcydeは1992年のデビューアルバム『Bizarre Ride II the Pharcyde』で大きな人気を得ていた。彼らの楽曲はユニークで風刺的なリリックであり、ジャジーなサウンドであった。彼らは、メインストリームのギャングスタラップとは一線を画し、ユーモラスで知的なスタイルを持つアーティスト集団として知られていた。その後DillaはThe PharcydeのLabcabincalifornia(1995年)に参加し、大きな評価を得た。中でもこのアルバムのDropは星野源も絶賛である。ここでは長くなるので技術的な面については言及しない。
その後、Dillaはさらに進化し、A Tribe Called Questの『Beats, Rhymes and Life』(1996年)、Commonのアルバム『Like Water for Chocolate』(2000年)や、Erykah Baduの『Mama’s Gun』(2000年)などの重要なアルバムを手掛け、ヒップホップだけでなくR&Bやジャズのシーンにも影響を与えた。これらの作品では、ヒップホップに加え、ソウルやR&Bの要素を取り入れ、より広い音楽性を示していた。また、The RootsTalib KweliMos Defなど、当時のコンシャスヒップホップを代表するアーティストたちとのコラボレーションも多く、Dillaはその時代を象徴するプロデューサーの一人となった。特に彼のドラム・プログラミングの技術と、サンプルの選び方、そして楽曲の構成は、彼の音楽を特別なものにしていた。
しかし、2000年代に入ってから、DillaはTTP(血栓性血小板減少性紫斑病)という希少な病気でありながら深刻な健康問題に直面していた。この病気との闘いは、彼のキャリアを通じて続き、音楽制作を続けながらも体調は次第に悪化していった。特に2005年頃には、彼の体調は急激に悪化し、車椅子生活を余儀なくされた。同年に行われたヨーロッパツアーでは、痩せ細った体でマイクを握りライブを行なっていた。その時初めてリスナー達はDillaの病状の深刻さを感じたのである。それにもかかわらず、彼は病院のベッドでもビートを作り続けていた。

『Donuts』とその死

J Dillaの最後のスタジオアルバム『Donuts』は、彼が最も具合が悪い時期に制作されたものである。このアルバムは、彼の代表作として広く評価されており、彼がサンプルを操り、独自のリズムを生み出す技術の集大成と言える。アルバムは2006年2月7日、彼の32歳の誕生日にリリースされ、彼の音楽的遺産を形作る作品となった。しかし、『Donuts』のリリースからわずか3日後の2006年2月10日、J Dillaはデトロイトの自宅で死去した。Dillaの母親によると死因は、心不全であった。彼の早すぎる死は、音楽界に大きな衝撃を与え、彼の貢献を称える多くのトリビュートが行われた。彼のキャリアの期間は約15年であった。J Dillaの死後も、彼の音楽は生き続けており、彼のビートやプロデュース手法は、現代の音楽業界やビートメイキングに多大な影響を与えている。彼の遺作である『Donuts』は、死後さらに評価が高まり、後進のプロデューサーたちにとってバイブル的な存在となっている。最後にDillaの影響受けた日本のトラックメーカーであるNujabesはDillaと同じ誕生日であり、2月に亡くなっている。

資料


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