ワインのはかり売り #イタリアの思い出
ワインを買いに行きました。
僕の住んでいる辺りには、ほとんどワイン屋さんがないので、数駅離れた街まで足をのばして。
ワインの並ぶ棚の前で、気取ったように顎に手を当てて悩む僕に、店員さんが声を掛けてくれました。
ピエモンテ州で造られているワインが飲みたい、と伝えているうちに、僕の頭には過去の記憶、そう、まさに、ピエモンテ州に滞在していた頃の記憶がふわりと蘇りました。
ピエモンテ州(州都:トリノ)
ピエモンテ州は、フィレンツェのあるトスカーナ州と並ぶ、イタリアにとって非常に重要なワインの生産地。
そんなピエモンテ州に滞在していたあの頃は、僕にとって本当にほんとうに幸せな時間でした。
今日、思い出したのは、そんなピエモンテの記憶の中でも、ワインのはかり売りについて。
ラベルのないワイン
「ryutakun、ワインを買ってきたよ」
キッチンへやってきた僕を見るなり、お母さんはそう言いました。
その日は確か、イタリアにやってきてから一週間ほど経った頃でした。
僕はイタリア語を学ぶために、語学学校に通いながら、ホームステイをしていました。
そこで生活をともにしていたお母さんが、大変お優しいことに、僕にワインを買ってきてくれたのです。
キッチンのテーブルに目をやると、深い緑色をしたワインボトルがありました。
けれど、奇妙なことに、そのボトルにはラベルが貼っていないのです。
つるつるとしたまっさらなボトルの中には、ワインがたんまりと入っていました。
が、僕にはこのワインが何であるか、すぐにピンときたのです。
もしやこれが、ワインのはかり売りというものではないか? と。
世界ふしぎ発見!
イタリアに滞在する数年前、イタリアに行くことなんて少しも考えていなかったある日、実家で観ていた「世界ふしぎ発見!」の中で、ワインのはかり売りを目にしたのです。
その放送回のテーマや、どの都市、歴史に着目したお話だったかは全く憶えていないのですが、ある1シーンだけが強烈に記憶に残っていました。
真っ青な空の元にある、ベージュ色の、のっぺらとした壁の家屋。
そこに中年のおじさんが、ドでかいプラスチックの容器を持ってやってきます。
日本で言うと、湧き水を汲みに行く地元のかた、みたいな。
しかし、そのおじさんは水を汲みにきた訳ではありません。ワインで容器を満たすためにきたのです。
容器の中へ、ワインがじゃばじゃばと注がれていきます。
その上には、注いだ量に比例した料金が、赤いデジタル数字でピピピと表示されていました。
なんちゃない風景というか、ワインの味や文化については全く触れられておらず、ただただ日常の一つの風景として描かれていましたが、僕はとんでもなく感動していました。
「こんな世界があるのか!!」
この場面をしっかりと憶えていた僕は、後にイタリアへ行くことが決まったとき、真っ先に、はかり売りのワインを飲みたい! と不純な目標を抱いたのです。
ワインを飲ませたくないお母さん
いよいよ現地に足を踏み入れた僕。
そして、イタリア語もまだよく分からず、生活にすら慣れていなかった僕の元へ、はかり売りのワインは向こうからこちらへやってきたのです。
しかし、単純に心から喜ぶことはできませんでした。
というのも、ホームステイ先のお母さんは、僕がお酒を飲みまくることをあまり歓迎していなかったのです。
イタリアへ留学することを決めた理由の一つ、いや、最大の理由は、イタリアワインを楽しむことでした。
僕は今も当時も、とにかくイタリアワインを愛しており、現地でしか楽しめないものを手頃な値段で飲みまくろうと、意気揚々と飛行機に飛び乗ったのです。
しかし、イタリアに着いてびっくり。
ホームステイ先のご家族は、一切、お酒を飲みませんでした。
僕の中ではすっかり、ワインへの熱がイタリア人への偏見を作っており、イタリアの方々はすべからくワインを飲むものだと思い込んでいたので、その事実を知ったときはしばし茫然。
お酒を飲まないだけならまだ良かったのですが、さらに悪いことに、ホームステイ先のお母さんは、お酒を飲むことにも否定的な考えを持っていました。
「あのね、ryutakun。私も別に、お酒が飲めないわけじゃないの」
お母さんは、お酒を拒絶している理由を僕に教えてくれました。
「けれど、お酒は嫌い。私の妹はすごい酒飲みで、お酒を飲み過ぎて、歯を2本失ったの。だから嫌いなの。お酒が嫌いというか、酔っ払いが嫌いなの」
...
んんん? 歯を失った?
僕の聞き間違いではありません。
このインパクトの強いエピソードは、携帯の文章で送られてきていたので、Google大先生の翻訳にもかけて、ちゃんと意味を確認したのですが、しっかりと、歯を失った、と書かれていました。
数か月後、クリスマスのときに、例の妹さんにお会いする機会があったのですが、お母さんの言っていた通り、本当に歯が欠けていました。それも大事な前歯が。
とまぁ、ご家族の酒癖のせいで、お酒を飲みまくろうと目をギラギラしていた僕を真っ向から潰すように、お母さんは僕に対峙していたのです。
しかし、さすがイタリアと言いますが、僕のお酒への愛を完膚なきまで否定することはなく、あくまで「酔うな、決して」とくぎを刺す程度に留めてくれました。
そんな少し複雑な事情の中で、僕の目の前に、はかり売りのワインが現れたのです。
お母さんは、上記の理由のため、酔っ払いを心から嫌っていたので、僕にワインこそくれましたが、どこで買ったのかは教えてくれませんでした。
「お店の場所を教えたら、絶対に行くでしょう」
ぐぬぬ、と僕は引き下がる他ありませんでした。
そりゃ勿論行きますよ、場所さえ分かれば。憧れのはかり売りですもの。
今思い返すと、イタリアに着いて間もない僕の、酒への情熱をよく理解していたな、と感嘆するばかりです。
どうしたものか、と困りましたが、僕の頭の中には、すぐにとても簡単な解決策が浮かびました。
ググりゃあいいじゃん。
ありがとう、ネット
僕は携帯を手に取って、Google Maps大先生を呼びました。
ググればすぐに出る。出ないわけがない。
また、大ヒントと言いますか、お母さんはお仕事から帰ってきた後、荷物を家に置いて再び外に出て、すぐにワインを持って帰ってきたことを、僕は知っていました。
つまり、ワインのはかり売りは、近場で行われている。
当時のしょぼいイタリア語の知識でも、ワインを何と言うかは知っていました。Vinoです。
「Vino」でググると、家のすぐ傍にピンが立ちました。
徒歩2分。
しめた。
翌日、僕はその場を訪ねました。
いざ、はかり売り屋さんへ
昼過ぎに学校が終わると、そわそわしながら開店時間の夕方まで自宅で自習。
やっと時間がくると、僕は走るようにしてお店へ行きました。
お店はこぢんまりとしていて、日本の小さなお菓子屋さんのような雰囲気。
カウンターがあり、その向こうに店主さんとステンレス製の複数の注ぎ口が...!
あそこから僕の念願の夢がこぼれるのだと想像するだけでもう、酔いそうでした。(迷文)
店主さんは50代のおじいさん。唐突にやってきたアジア系の僕を、胡散臭そうに見ることもせずに、温かい微笑みをもって迎えてくれました。
さて、どうやって注文するんだろう?
カウンターの上にはコルクボードが立てられており、そこにブドウの名前が書かれた紙が貼ってありました。
が、困ったことに読めない。筆記体でわーっと書かれていたのに加えて、これは後に知ったのですが、ピエモンテ固有の呼び方で表記されていたため、本当にちんぷんかんぷん。
んー、どうしよっかな。
ちょっと焦りつつ、どうにかブドウの名前を読もうとしていると、Mから始まるものが目に留まります。
メルロー(Merlot)のMかな...?
とりあえず分かるものを、と、「これってメルローですか?」と尋ねますが、店主さんは「え?」と驚いたご様子。メルローではありませんでした。
ピエモンテでもメルローは造られているっちゃあ造られていますが、全然メジャーではありません。
今思い返すと、メルローな訳がない。笑
そこで恐らく店主さんは、「こいつ何も分かってないな」と察してくれたのか、一つひとつ指しながら、「これがバルベーラで、これがドルチェット、これがネッビオーロで...」と教えてくれました。
余談ですが、ピエモンテのワインをお買いになる際は、自然とこのバルベーラ、ドルチェット、ネッビオーロが重要な品種となります。
バルベーラ、ドルチェットはデイリーワインのようなものから、ゆっくりと楽しめるものと幅広く。
特筆すべきなのはネッビオーロ。
ネッビオーロのワインは、もう、素晴らしいの一言に尽きます。最も好きなブドウ品種を聞かれれば、僕はネッビオーロと答えます。
飲めば分かる、あのワインの香りと色、タンニンの強さは唯一無二です。
ぜひ、お試しください。
と、少し話が逸れましたが、はかり売りの値段も、品種によって少し差がありました。バルベーラとドルチェットがほとんど変わらず、ネッビオーロがちょっと高めの設定。
とは言っても、驚いたことに、むちゃくちゃ安い。
値段はリットル単位で示されていたのですが、バルベーラ、ドルチェットは1リットルで3~400円。
ネッビオーロですら700円ちょっと。
リットルですよ?信じられないくらい安かったんです。
これがどれだけ安いことか。
先日、日本でバルベーラを飲みましたが、やっすいのを買っても1,400円。
ネッビオーロを買おうとすると、これまた難しい事情があり、高い物しかなかなかお目にかかれず。3,000円以下ではなかなか手に入りませぬ。
勿論、高いぶんだけ美味しいのですが、日本では気軽に毎日飲めるものでは決してありません。
そんなワインたちが、数百円で手に入るとは。
本当に素晴らしい国だ。
僕は今も心からそう思います。ワインに関しては。ワインに関しては。笑
初めて買ったのは何だったかな。多分、バルベーラだったような。
買い方もなかなか面白く。
僕は何も考えず手ぶらで行ったため、初回はボトルを買う必要がありました。
「どの大きさがいい?」
店主さんの後ろにはいくつかのボトルが。750ml、1,500ml、確か2,000mlもあったかな。
初回だったので、まあお試しと、標準的な大きさである750mlを買いました。お母さんがくれた、ラベルのない緑色のボトルと同じものでした。
ボトルの値段は、200円くらいでした。お安い。
次回以降は、飲み干した後綺麗に洗ったボトルを持ち込めば良いので、再度購入する必要はありません。
僕の買ったボトルに、赤ワインがしゃーと真っすぐ注がれていきました。
僕の夢がかなった瞬間です。感慨無量でした。
さて、キャップ式でもない、のっぺらとしたボトルにどうやって栓をするんだろう?
ワインをボトルいっぱいに入れた後、店主さんはボトルを鉄の台に固定すると、ボトルの口にコルクを置きました。
その上から、てこの力を使って、ぐぐーっとコルクを押し込んでいきます。柔らかいコルクがちょっと変形しながら、口の中へと入っていくのです。
店主さんは慣れた手つきでなさっていましたが、僕はとても真似できないだろうな、と観察していました。
少しでも力の向きがずれると、ボトルをがしゃんと割ってしまいそうです。
しっかりと栓のされたボトルを持って、お家に帰りました。
バレないようにこっそり帰らなくては、と何となくボトルをシャツの下に隠していると、玄関でお母さんと鉢合わせ。
シャツに手を突っ込みながら、挨拶を交わす僕は絶対に不自然だったのですが、特に何も言われずに自室へと逃げ込むことができました。
その日から、僕のはかり売りワイン生活が始まりました。
飲む飲む飲みまくる、が、酔わない
ぜんっぜん飲めるんです。美味しいんです。
安くて美味しいはかり売りワインにハマった僕は、頭に入ってるのかどうかはともかく、イタリア語を勉強しながらガバガバ飲むようになり、ボトルが空になると徒歩2分のはかり売り屋さんを訪ねては補充してもらう生活が始まりました。
当然ですが、お母さんにもすぐにワインを買いまくっていることがバレてしまいましたが、僕はお酒の強さにはちょっと自信があり、家でベロベロになることもなかったため、特に何も言われませんでした。
「ryutakunはお酒をめちゃくちゃ飲むけれど、酔っ払わないからいいね」
お母さんの認可も頂き、僕はどっぷりとはかり売りワインの中へと浸かっていきました、とさ。
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