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25.天雷无妄(てんらいむぼう)【易経六十四卦】

天雷无妄(偽りなき道理・望外の結果/無望・無為自然)


unselfishness:無我無私無欲/innocence:純真 the unexpected:予期しない,思いもよらない

進めば災害あり、謹慎の時なり。 誠意を尽くして事に当たるべし。而して時の至るを俟つべし。


復則不妄矣。故受之以无妄。(序卦伝)

かえればみだりならず。故にこれを受くるに无妄を以てす。

もとに復すれば妄でなくなるから、无妄卦を復卦のあとにおく、という。


無妄とは虚偽がなく、真実かつ誠実であることを指します。「妄」は真実でないこと、無分別や虚偽を意味します。何かを期待して行動するのではなく、ただ自分の為すべきことを淡々と行うことです。そこには私心が一切ありません。陰徳積善の姿勢で臨み、天の摂理に身を委ねます。思いがけない出来事に直面しても動揺や作為を避け、静かにまた素直にそれを受け入れるのです。

心の中にもろもろの雑念や欲がもたげてくるときで、たまらなくある物がほしかったり、無性にあることがいやになったりする。運勢は決して強くなく、焦ったり無理に進もうとすると、運気は逆に下り坂になる。性が悪く、うかつに事を起こす事も出来ない。一歩進んで二歩後退の向きがある。 こんなときは、むしろ自然の成り行きに委せ、決して無茶はしないことだ。欲の皮の突っ張ったことや、分不相応なことは慎んだ方がよい。誰しも欲のない者はないが、今回は止めて次の機会にしよう。しかし、本を読んだり、反省したり、信仰したり、又人の為にすること等は大いによい。無欲になることが大切なときだ。

[嶋謙州]

妄はみだり、うそ、いつわりであります。これらがないということですから、本来に復って出直すときには、一切のうそ、いつわりをなくして真実でなければならぬということであります。 この卦は天の下に雷があるから、落雷の象であり、不慮の災難を意味します。 幕末の大儒佐藤一斎の詩に、赴所不期天一定、動於无妄物皆然―期せざる所に赴いて天一に定まる、无妄に動く物皆然り―むしのいい人間の期待など一向にあてにならない、物事はむしろ思いがけない所にいってぴたりと定まる。 何事によらず、天の无妄自然の真理によって動くのである、という有名な詩であります。

[安岡正篤]

无妄。元亨利貞。其匪正有眚。不利有攸往。

无妄は元いに亨る貞しきに利あり。それ正にあらざればわざわいあり。往くところあるに利あらず。

无妄の『无』は、もともと「無」を表す古い字とされていましたが、実際には『天』の文字から派生したもので、形のない空虚を意味します。『妄』は、乱れや偽り、望みなどを指し、誠の反対を表します。これは虚無的な内容でありながら、不純な期待や望みを抱くことで生まれる状態を意味します。この状態に陥ると、自分に執着し、他の重要なことを見落としやすくなり、妄想や妄念に取り憑かれて正常さや実質を失い、疑念に囚われることを「妄」と呼びます。したがって、无妄とは内実がないのではなく、「まこと」と同義なのです。
中孚のまことは、人と人との相対的な関係における真実であり、自己を空虚にして他者のために尽くすことです。一方、无妄のまことは、人間ではなく天地自然の運行を対象としています。お天道様が地球に光と熱を与え、万物を育てていくように、恩着せがましいこともなく、報酬や期待も一切求めない。また、善人にも悪人にも分け隔てなく光を注ぐ。このようなお天道様のような生き方こそが无妄なのです。
では、なぜ震下・乾上が无妄なのかといえば、これは天と雷との自然の作用から来ています。天は健やかに運行し、雷も道理に背かずに発現します。その動きは天性自然のままであり、その運行は限りなく公明で、疑惑や作為が入り込む余地がありません。八卦のうち、『坤地・坎水・巽風・離火・艮山・兌沢』は人間生活に利用され、多くの恵みを与えますが、『震雷』『乾天』は手に取ることもできず、見えない性質、法則のままに存在し運行しています。そこに无妄の象意があります。
つまり、この卦は平たく言えば望外の福、難しく言えば理の自然を意味します。无妄の卦は、卦変で言えば、訟の九二と初六が入れ替わってこうなります。訟の九二はもともと「不正」(陽爻陰位)でしたが、初位に下ることで「正」になります(初は陽位)。訟九二の動きが自然と理にかなう故に、无妄と名付けられます。また内卦☳は、外卦☰は健の徳があります。九五は剛で、「中正」(五は外卦の中、陽爻陽位)、しかも内卦の「中正」である六二と応じます。かように動きを孕み、めでたい卦形なので、占断も四徳が揃って良いものとなります。この卦が出れば、望外の福がある(=无望)ことを意味します。願い事は大いに通り(=元亨)、正道を固守することが良い(=利貞)。ただし、動機が不正であれば(其匪正)、妖祥あやかしがあり(=有眚)、前進しても不利である(=不利有放往)ことになります。



彖曰。无妄。剛自外來而爲主於内。動而健。剛中而應。大亨以正。天之命也。其匪正有眚。不利有攸往。无妄之往。何之矣。天命不祐。行矣哉。 

彖に曰く、无妄は、剛そとよりきたりてうちに主たり。動いて健なり。剛中にして応ず。大いに亨るに正を以てす、天の命なり。それ正にあらざれば眚あり、往くところに利あらず。无妄の往く、いずくくにかかん。天命たすけず、行かんや。

訟の九二が初爻に下ると无妄となります。二は初から見ると外側に位置するため、外から来ることを意味します。これによって内卦のが変化し、となります。の主爻は下の陽爻です。訟の九二は无妄内卦の主爻となり、動いて健やかになり、五爻が「剛中」であり、二と応じるという良い関係を持つため、占断として元に亨る貞しきに利ありの語が与えられます。これこそ天道当然の理です。
人間はすでに無為自然の中で育まれているため、无妄(自然な流れ)を外れて人欲に走ると、天の助けは得られません。无妄であるということは、少しでも不正があればもはや无妄ではないということです。无妄を外れて他の道を進もうとしても、進むことはできません。无妄を外れることは天道に逆らうことであり、天の助けは得られません。したがって、どこにも行けるはずがありません。そこで、卦辞には「それ正にあらざれば云々」と記されています。


象曰。天下雷行。物與无妄。先王以茂對時。育萬物。

象に曰く、天の下らい行き、物ごとに无妄をあたう。先王以てさかんに時に対して、万物をいくす。

天の下で雷が轟いています。この雷の震動は、陰陽の調和を象徴し、万物の生成を促進し、それぞれの物に固有の属性を与えます。つまり、一つ一つの物に自然の目的性である无妄が備わっているということです。古の王たちは、この法則に従い、天の時勢に合わせて万物を養い育てました。それぞれの物の本質に沿った行動を取り、不自然な干渉は行わなかったのです。


初九。无妄。往吉。 象曰。无妄之往。得志也。

初九は、无妄なり。往けば吉なり。 象に曰く、无妄の往くは、志しを得ればなり。

天雷无妄は、無私無欲および至誠真実を説く卦です。初九は陽剛の性質を持ち、内卦の主爻となっています(一陽二陰卦の主爻は一陽です)。もとは訟の九二であったものが初に降り、「正」となりました。无妄(まこと)の主であるとされています。このように剛毅で真実を持つ身を以て進むならば、どこへ行っても志を遂げることができるでしょう(象伝)。これは吉兆です。この卦を占って得た人は、誠実であれば進むに吉です。


六二。不耕穫。不菑畬。則利有攸往。 象曰。不耕穫。未富也。

六二は、耕さずしてせずしてするときは、往くところあるに利あり。 象に曰く、耕さずして穫、いまだ富まざるなり。

『菑』とは、開墾してから一年の荒れた畑を指します。ここでは、開墾するという意味を持ちます。新墾治《あらきりばり》とは、草が生い茂った場所を切り開き、新たに開かれたばかりの新田のことを指します。
『畬』とは、開墾してから三年経過した畑を意味し、ここでは地味が熟成することを示します。
あらたとは、すでに一度収穫した田を指し、次の年に再び使用するか、もしくは一年休ませてから三年目に使う田のことを意味します。『説文』には『耕さず田なり』と記されています。水災で荒廃した土地に再び草が生えることで、菑畲は荒地の開墾を意味します。
六二は柔順な性質を持ち(陰爻)、内卦の中で陰爻陰位に位置しています。これは、時に逆らわず天の理に従うことを意味し、自分勝手な願望を持たないことを示します。望みもしないのに自然とそうなることを无妄と呼びます。
ここで、耕さないのに収穫があり、開墾の努力をしないのに畑が肥えるというイメージが无妄の極端な例として用いられます。人が願望し作為することはすべて妄であり、人が希望しないのに天の理が自然とそうなるのが无妄です。
耕さずに収穫を得る場合も、必ずしも富を得ようと希望してそうなったわけではありません(象伝)。施せばその報いがあると知って耕作するのではなく、田を開き稲を作るのは農夫の天職であり、来年に立派に役立つとか儲かるという未来の望みを抱いて開墾や耕作をするわけではありません。
占ってこの爻を得た場合、進むべきところに利があり、予期せぬ利益が自然に転がり込んでくることを示します。



六三。无妄之災。或繁之牛。行人之得。邑人之災。 象曰。行人得牛。邑人災也。

六三は、无妄のさいあり。或いはこれが牛を繋ぐ。行人こうじんものは、邑人ゆうじんの災い。 象に曰く、行人の牛を得るは、邑人の災いあるなり。

无妄の卦の六爻は、无妄の状態を示していますが、それが常に良い結果をもたらすとは限りません。特に六三は、陰が陽の位置にあるため、不正の象徴とされます。このため、この卦を得た人は、全く予期せぬ理由のない災難に見舞われることがあるのです。例えば、村の中に繋いであった牛が、通りすがりの者によって黙って連れ去られた場合、その村の近隣の人々が牛泥棒の疑いをかけられ、酷い目に遭うことがあるでしょう。


九四。可貞。无咎。 象曰。可貞无咎。固有之也。

九四は、貞にすべし。咎なし。 象に曰く、貞にすべし咎なし、固くこれを有るなり。

貞にす、道を堅固に守ること。有は守る。九四は陽剛であり、上卦乾の一部です。乾は健であり、ますます強固な性格を表します。下には「応」がなく、初も陽だからです。これは私的な交わりを持たないことを意味します。剛健で私心のないことが无妄です。この无妄の道を堅固に守ることが望ましいでしょう。そうすれば、咎められることはありません。占ってこの爻を得た場合、進んで何かをしようとせず、これまで通りを守ることに専念するべきです。


九五。无妄之疾。勿藥有喜。 象曰。无妄之藥。不可試也。

九五は、无妄のやまいあり。くすりすることなくして喜びあり。 象に曰く、无妄の薬は、試みるべからざるなり。

无妄之疾は、六三の无妄之災と同様の意味を持ちます。「試」は「嘗」と同じく、試みることを意味します。九五は上卦乾の中心に位置し、剛健でありながらも「中正」であり、尊位にある存在です。そして、下卦の「中正」である六二に「応」じています。无妄卦の中でも最も優れた位置にあります。このように卓越した徳を持ちながらも病にかかるというのは、予期せぬ災難、すなわち无望の災難を意味します。ゆえに、无妄の疾と呼ばれるのです。
无妄の病は、薬を用いることなく自然のままに治すのが最良です。薬を用いることは作為であり、何らかの方法を講じることです。无妄の病は自然の力に任せて癒えるものです。原因のない病気ですから、薬を飲まずとも自然に癒えていきます。
象伝の意味は、自然に癒えるべき病に対して薬を用いることは妄、すなわち反自然であり作為であるということです。かえって病状を悪化させる恐れがあります。占ってこの爻が出た場合、意外な災難に見舞われるかもしれませんが、放置しておけば自然に癒えるでしょう。


上九。无妄行。有眚。无攸利。 象曰。无妄之行。窮之災也。

上九は、无妄にして行けば、わあざわいあり。利するところなし。 象に曰く、无妄の行くは、きゅうさいあるなり。

上九の状態も、決して虚偽ではありません。しかし、卦の極限に達しているため、行き詰まってこれ以上進むことができないのです。それにもかかわらず、なおもその状態に固執し、極めようとする者のことを指します。無理に進もうとすれば、困難が生じ、虚偽の状態となります。もはや無私無欲でも至誠真実でもなくなり、邪道に逸れてしまうのです。その結果、災厄を招き、何の利益も得られません。
「象伝」における「窮」とは、行き詰まりを意味します。無欲であることや無私であることに捉われ過ぎると、それ自体が一つの虚偽となってしまいます。無妄の極みに達しながらも、真実の無妄を失い、虚偽の無妄に陥ることになります。これは普通に欲望のままに動くことよりも、さらに悪いことです。
例を挙げるならば、欲望を捨てるために地位を投げ捨てて出家したり、外見を気にしないことを示すために妻子を捨てて慈善事業に従事したりすることが、虚偽に捉われた無妄であり、それはもはや真実の無妄とは言えません。無妄に捉われること自体が、逆に虚偽を生む原因となるのです。


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