02.坤為地(こんいち)【易経六十四卦】
坤為地(地の包容性・臣下の道/母なる大地)
obedience:服従/receptive:受容・無事・誠実・生命・大地・安定受動
野心を抱かず、消極的に事に当たるべし。身辺難事多き時期なり。 目的控えめにすべし、されば達成されん。 良き助言者を得ることが肝要。物欲に走るべからず。
柔よく剛を制す道
地(坤)の働きは、万物を生み出し養い育てることにありますが、その力は地(坤)自体に存在するのではなく、天(乾)のエネルギーを受けて初めて万物を生み出し、養い育てることが可能となるのです。「坤」の卦は大地を象徴しています。大地は静かに存在しながらも、豊かな力を内に秘め、あらゆるものを生み育てる力を持っています。この卦はすべて陰爻で構成されており、「乾」の剛強、積極、男性的な性質に対し、柔弱、消極、女性的な性質を意味しています。もちろん、柔弱であることが剛強よりも劣っているわけではありません。天のエネルギーも地に受け止められてこそ発現するのです。男性の精気も女性を得て初めて新しい生命を生み出すことができます。陰陽は対立しつつも統一されているものです。この卦は、消極を守ることで積極を凌ぎ、遅れることで先んじ、柔軟さで剛強を制する道を示しています。
坤。元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利。西南得朋。東北喪朋。安貞吉。
ものごとはおおむね順調に進みます。しかし、牝馬のように静かで健全な生き方を続けることによってのみ、利益を得ることができます。君子(占う人)がどこかへ出かけようとする際に、人の先頭に立とうとすれば迷いが生じますが、人の後に従うようにすれば、しっかりとした指導者を得て、成功するでしょう。西南の方角へ向かえば友人を得られますが、逆に東北の方角へ向かうと仲間を失う可能性があります。
総じて、正しい道を守り、穏やかで正しい行いをしていれば、吉となります。陰陽の徳を象徴する生き物として、陽には天を翔る龍がおり、陰には地を歩く牝馬があります。「貞に利あり」とは、牝馬が従順の象徴であることを意味し、信頼とは従うべき時にはしっかりと従うことが重要であるということです。
彖伝
乾の彖伝には、「大いなるかな乾元、万物資りて始む」とあります。「至る」という語感は「大」に比べてやや狭い意味合いを持ちます。地道の始めとしての坤元は、なんと優れたものでしょう。万物はこれを基にして生まれました。この優れた坤(地)は、天に従い、天を受け入れます。これによって坤は万物の母となるのです。乾には「始」があり、坤には「生」があります。「始」は気の始まりを指し、「生」は形の始まりを意味します。
坤の徳は厚く、万物をその上に乗せています。坤の徳は、限りない(无疆)乾の徳と調和しています。包容力(含)、広さ(弘)、輝かしさ(光)、そして厚さ(大)を備えており、乾とともに、あらゆる種類の物を生長させるのです。坤は地を象徴し、陰陽の中では陰を表します。无疆の无は無、疆は境界の古字で、境界のないことを示します。大地は陰の象徴であり、すべてを无疆として受け入れ、育成し、蓄えます。生命や物質は、一つひとつ丁寧に形作られ、豊かに発展していきます。陰の力は限りなく広大であり、どんなものでも受け入れ、生かし、育てる力を持っています。
通常、馬は乾の象徴とされますが、牝馬は牝であるため陰に属します。また、馬は地を行くという点で、牝馬は地の同類といえます。牝馬は柔順ですが、地上を行くことは限りありません。つまり、健でもあるのです。健は乾の性質であるが、坤にも健の性質が含まれます。これは乾の働きに協調するためです。牝馬に代表される柔順利貞の徳こそが坤の徳であり、人が行うべきところです。
陽が唱え陰が和するのが物の道理であり、陰の道を失うと迷います。陰が後から和するのが順序であり、常道を得ているのです。
陰の方角である西南に行けば友を得ます。これは同類に従って行くからです。陽の方角である東北に行けば友を失います。陽は大であり、陰は小です。陽は陰を包摂できますが、陰は陽を包摂できません。そのため異類の方角に行けば孤立します。そこでまた西南に引き返すことで、最後には吉事が訪れるのです。安らかで正しい態度が吉を招くのは、そうした態度が無限の地の徳にかなっているからです。
大象伝
大地の態勢は順であって厚い(坤は順と音が近い)。至高の徳ある人はこの卦に法とって、その厚い徳により、あらゆるものを受け入れる。
小象伝
初爻の爻辞とそれを解釈する象伝(いわゆる小象)乾卦では大象少象をひとまとめにしていましたが、坤卦以下では各爻に小象を割り付けています。
初六。履霜。堅冰至。 象曰、履霜堅冰、陰始凝也。馴致其道、至堅氷也。
六爻を人体に当てはめると、初爻は足に相当し、そのため彖辞に「履む」という言葉が含まれています。霜は陰の気が凝り固まったものを表します。本来、坤の卦は陰を象徴していますが、初爻は卦の始まりであり、その力はまだ弱いため、消えやすい霜に喩えられます。しかし、その霜も時が経つと、あるいは陰の気が増していくと、最終的には堅い氷(氷は本来、乾を象徴します)になるのです。
たとえば、臣下が君主を殺したり、子が父親を殺したりといった大逆無道な行為は、一時の出来心や偶然の成り行きで起こるものではありません。必ずそこには原因があり、それが徐々に積み重なった結果として起こるのです。
陰邪姦悪の芽生えは極めて微弱であり、その初期段階で注意深く摘み取れば、簡単に消すことができます。それは、霜を消すように容易いことです。
しかし、それを見過ごし、改めることなく放置すれば、最終的には堅い氷のような固まりとなり、どうにもならなくなります。だからこそ、事の始まりにおいて、来るべき結果を予見し、慎重に対処することが重要であると易は教えています。
六二。直方大。不習无不利。 象曰、六二之動、直以方也。不習无不利、地道光也。
乾為天では、陽の徳が最も高く健やかな五爻がその成卦主爻でしたが、坤為地においては二爻が成卦主爻となります。これは、この二爻が全陰の卦である坤為地において陰の位に位置し、中正の徳を得ており、最も陰の道に適しているからです。成卦の主爻とは、その卦が成り立つ要因を示し、その卦全体の性質を代表する爻のことを指します。「直」は素直さ、「方」は正しさ、四角四面の意、「大」は大きさを意味します。つまり、直方大は坤の徳、意、象を表しています。この爻は、特別な訓練や習慣づけを必要とせず、臣の道や妻の道に完璧に適合している爻なのです。
「乾」の元気を充分に受け入れ、自己の意志を加えることなく、乾の元気に従い真っ直ぐに進みます。乾の元気が東西南北に広がると共に、坤の爻は真っ直ぐに進み、四角形を形成します。これにより、「方」の徳が生まれます。乾の爻の元気は、限りなく大きな徳を持ちます。坤の卦の大の徳は、乾の卦の大の徳に順って、そのまま進むことで生まれるのです。直と方と大の三つの徳を備えているため、特別な学問や訓練をしなくても、いかなる状況においても成功を収めることができるのです。
「直方大」の徳は、大地が天から受け取った恵みを真っ直ぐに受け止めて育む力を象徴しています。人間もまた、教えられたことや受け取ったものを素直に受け止め、自分自身や周囲の人々のために実践することが重要だとされています。そのような人は、知識や教えを受け取るだけでなく、自らの成長や周囲の繁栄に繋がる多くの恩恵を受けることができるでしょう。
六三。含章可貞。或從王事。无成有終。 象曰、含章可貞、以時発也。或従王事、知光大也。
『章』は卓越した輝きを象徴し、その意味は才能や才覚に通じます。六が陰爻であり、三が陽位(奇数位)であることは、人に従属すべき存在が積極的な能力を持っていることを示唆します。この場合、内にその美徳を秘め、忠実な臣下としての道を堅持すべきです。しかし、三という位置は下卦の頂点にあり、能力を永遠に秘匿することは困難です。
時にその才能を発揮し、王者の命令に従って職務を遂行することが求められることもあります。自らの功績を誇示せず、指示に従い職務を全うすることができるのは、その人の知恵が深遠だからです。
この爻を得たならば、その徳を秘め、最終的には良い結果を迎えることを教訓とします。
『章』はまばゆい光を放つものであり、これが示すのは才能や知恵の豊かさです。この言葉は、臣下や部下にとっての心得となり、自らの卓越した能力(明徳)を誇示せず、与えられた任務に誠実に従う姿勢を教えています。才知に富む部下たちは、必要に応じてその能力を発揮しつつも控えめであり、自己の功績が認められなくとも不満を漏らさず、黙々と職務に励むのです。
六四。括嚢。无咎。无譽。 象曰、括嚢、无咎、愼不害也。
坤にはもともと「嚢」や「布」という意味があり、中程にある三爻と、この四爻は、袋の中身に喩えられています。『大賢は愚なるがごとし』という言葉のように、嚢の口をくくることで才能の中身を隠し、咎もなく誉れもない状態を保つのです。過ちを犯すことはない一方で、特別に褒められることもありません。しかし、この四爻は君位である五爻の近くに位置するため、特に慎重さが求められます。易も慎むことの重要性を説いています。
「嚢を括る」とは、袋の口を固く結び閉じることを意味し、自らの才能を外に示さず、余計な発言を控えることです。これにより名誉や認知は得られないものの、重大な咎めを受けることもありません。このような姿勢を保つことで、人間関係や組織内での調和を維持し、トラブルを避けることができます。「嚢を括る」ことは、身を守る手段であると同時に、より高いレベルで活躍するための準備期間でもあります。
六五。黄裳。元吉。 象曰、黄裳元吉、文在中也。
五爻は「君位」(王・社長などの地位)に該当し、通常は陽爻が適しています。しかし、坤為地の卦は全て陰で構成されています。王でありながら陰であるため、「自分は力の弱い王」であることをしっかりと認識し、謙虚であることによって吉を得られるとされています。
『黄』は五行において地の色を表し、『裳』は衣装の裳を指し、上衣である『衣』は乾に該当し、下衣である『裳』は坤に該当します。この爻は君位にありますが、坤の卦であり陰の爻であるため、坤の徳である従順貞正を特に重視し、君位にある者が目下の才能ある者(二爻のような臣)を登用し、政を行うべきであり、そうすることで元いに吉となるという意味です。
また、自分は陰であり剛健強壮でない、正しい主ではないことをよく自覚し、自分の地位の恐れ多さを理解し、敬虔な態度であれば吉であるということです。五爻は君位であり、外卦で本来は上衣を用いて辞をかけるべきですが、坤の卦で臣の道・妻の道を説くため、下衣の『裳』で辞がかけられています。
五行説では、物質の元素を木・火・土・金・水とし、それぞれの色は青・赤・黄・白・黒、方位は東・南・中央・西・北に対応します。そのため黄は大地の色であり、中央の色でもあります。黄は中の色、裳は下の飾りです。六五は外卦の「中」を得ており黄の色にあたります。尊位にありながら陰爻であることは、へりくだった態度、下の飾りに相当します。つまり黄裳は、中庸柔順の徳が内に満ち、おのずと外に現れるような人の象徴です。したがってその占断は、最善の吉(元吉)ということになります。象伝の文中にある「なり」は、美が内にあればおのずと外に現れることを示しています。
上六。龍戰于野。其血玄黄。 象曰、龍野于戰、其道窮也。
この爻を理解するためには、初爻の辞『霜を履みて堅氷に至る』と併せて考えると良いでしょう。陰が初めて凝って霜となり、それが進展すると堅氷に至ります。この上爻は、陰が完全に凝り固まり堅氷になった状態を示しています。『龍』は、陰が極まって強い勢いを持つ状態を表し、坤が乾の龍と同様の力を得たことを意味します。
元々、乾の龍は強剛ですが、坤の龍は陰の極致によって強剛になったものです。この二者が対立すると、互いに傷つき血を流すことになります。その血の色が『玄黄』です。(玄は乾の色、黄は坤の色)しかし、坤の龍は強くなったとしても本質は陰です。陰も陽も長じれば互いに変化します。初爻は始まりを、上爻は他の事柄への移行を示します。
陰は本来陽に従うべきものですが、この卦では陰がずっと続き、最終的には陰が極致に達しています。ここに至ると、陰は陽と争わざるを得ません。陰の力が陽に匹敵するほど強大になっているため、両者は必ず傷つきます。この状況を表象するのが、竜と竜が野で戦い、黒と黄色の血を流している姿です。「野に」という表現は、陰が坤卦を超えて陽と争うための場所を示しています。説卦伝には「乾に戦う」とあり、戦場はすでに坤を離れ、乾の領域に移っています。この卦を占うと、凶となることは明白です。
用六。利永貞。 象曰、用六永貞、以大終也。
正道を守る:常に正しい道を歩み続け、人々の心にある純粋さを守り、邪な行いや誤った行動を避けなければなりません。正しい道を揺るぎなく貫くことが、最も大きな利となるのです。用六の永貞は、坤卦の臣としての在り方が、最終的に大いなる善の結末へと導く役割を果たします。
用六は筮して坤の卦が出、六爻ともが変である場合の判断辞です。坤卦は全爻が陰で構成されております。陰は柔和を意味しますが、その柔和な生活態度は永続できるものではありません。したがって、陽剛に変化することによって、初めて永続的な正しさを得ることができるのです。このため、占者への判断としては、正義を長く貫くためには陰柔を剛毅に転換することが望ましいとされます。坤卦の全爻が変ずると乾卦となります。
用六の「永貞」は乾卦の「利貞」に相当しますが、元が坤卦であるため、本来の乾卦の元亨利貞には及びません。象伝において、「大を以て終る」というのは、各爻が初めは陰であったものが終わりに陽になることを指します。陰は小であり、陽は大であるとされます。
用六とは、坤卦における六つの爻を指し示しており、そのすべてが陰爻によって構成されていることから、「用六」と称されることがあり、坤卦の異名とも言える存在です。
坤は陰の象徴であり、陰は柔和をその本質としています。その柔らかな特性によって万物に働きかけ、万物の発展を促す役割を担っています。柔弱であるにもかかわらず、正しい道を歩むことによって、その弱点を克服し、物事を順調に導くことが可能です。ここで重視されているのは、坤卦の徳に則って人間として生きることにあり、大地の持つ美徳や柔順さを備えていれば、常に幸運が訪れるということです。
上六の爻においては、陰の力が極限に達しており、陰の極みが陽を生み、陰陽がせめぎ合い始めます。この状況は、あたかも龍の血が視界を覆い、空は暗く地は黄ばんだような、荒涼とした様相を呈しています。まさにこのとき、坤卦は消息卦にあり、時は亥月で陰が最も盛んで、やがて陽が萌芽する段階に位置しています。
ここにおいて、臣としての道の根本原則が「永貞」にあることが示されています。これは妻の立場における徳の原則でもあります。常に忠誠を尽くし、貞節を守ることで、最終的に大いなる善果をもたらすのです。
この卦は、周公が王の代理を務めた時代に例えられます。
商を討った翌年、武王は重い病に倒れました。武王はその臨終の際、徳と才能を兼ね備えた周公に王位を託そうとし、もはや占いの必要はないと断言しました。しかし、周公は涙を流し、固く辞退したのです。武王の崩御後、若き成王が即位しましたが、彼はまだ十代であり、国の内外の問題に対応するには経験不足でした。
その危機にあたり、周公は身を挺して成王の代行として国を統治し、天下の安定を図りました。彼は自らのために王位に就いたのではなく、忠実な臣下としての務めを果たし、成王が成長して国の安定が確立された時点で、速やかに王位を返すことを心に誓っていたのです。
周公がその間に行ったことといえば、三監の乱を鎮め、姜子牙(呂尚)とともに東征に赴き、殷の残党を掃討し、中央政権の基盤を固めたことです。東征を終えて帰還した後には、礼楽の制度を整備し、礼楽に則った統治を推進しました。そして、成王が成長したのち、周公は自らの地位を成王に譲り、再び臣下としての務めに戻ったのです。これこそが「永貞」であり、周公の行動は忠臣の規範を示すものでした。すなわち、臣下の道とは、常に忠誠と貞節を保つことによって、初めて大いなる善果をもたらすことができるという教訓を私たちに示しています。周公の死後、成王は彼を文王の墓のそばに埋葬し、彼を臣下としてのみ扱うことを恐れました。これこそが忠臣に対する君主の深遠なる敬意を表すものでした。
文言伝
文言曰、坤至柔而動也剛。至靜而徳方。後得主而有常。含萬物而化光。坤道其順乎。承天而時行。
文言によれば、坤の道は至って柔らかいが、その動きは力強い。至って静かであるが、その物を生むはたらき(=徳)には整然とした法則性(=方)がある。陰は陽に従うものであるから、人の後についてゆけば、陽剛なる主人を得る。それが陰の常道に沿うことである。坤は万物を包含し、その造化の力は広大である。坤は、陽剛なる主人、天の意図をうけて、その時を失せずに生々の作用を行う。坤の道はなんと柔順なものではないか。
積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故。其所由來者漸矣。由辨之不早辨也。易曰、履霜堅冰至。葢言順也。
この言葉は、「善行を積み重ねる家には、子孫に至るまで喜びが続き、不善を積む家には、後の世代にまで災厄が訪れる」という因果応報の意味で使われることがあります。しかし、本来の意味は、日々小さな善行を重ねていけば必ず幸せが訪れ、日々悪事を重ねていけば必ず災難に遭遇するというものです。どんな事も積み重ねることで、その層は厚くなります。だからこそ、何を積み重ねるのか、まだ層が薄い段階で慎重に選び取る必要があるという教えです。
臣下が君主を殺し、子供が親を手にかけるという事態は、突如として起こるようなものではありません。これらの要因は長い年月をかけてゆっくりと醸成され、やがて大きな災厄として表面化するのです。このような惨事が発生する理由は、物事の道理を早期に明確にし、是正しなかったためにあります。多くの人災は、長期間にわたり見過ごされ続けた結果として生じるのです。
直其正也、方其義也。君子敬以直内、義以方外。敬義立而徳不孤。直方大、不習无不利、則不疑其所行也。
「直」とはその正しさを、「方」とはその義を意味します。
君子は敬をもって内心を正直にし、義をもって外形を方正にします。義があれば外形はおのずと方正になるので、義が外に存在するわけではありません。敬と義が成立すれば、その人の徳は孤立的ではなくなります。広大なことを望まなくとも、広大(直方大の大)となるのです。
「習わざれども利あらざるなし」というのは、自分の行動に疑惑を持たないため、学習の必要がないということです。
陰雖有美、含之以從王事、弗敢成也。地道也、妻道也、臣道也。地道無成、而代有終也。
陰の道とは、自身に優れた点があってもそれを表に出さず、王者の仕事に従事することです。十分に手柄を立てる力がありながらも、縁の下の力持ちとして甘んじ、主役の座を求めることはしません。これこそが地の道であり、妻の道であり、臣の道なのです。地の道は、自らの功績を誇ることはありません。天に代わり生育の役割を果たし、その功績を天に譲るのです(これは妻が夫に対して、臣が君に対して行うことと同じです)。
天地變化、草木蕃、天地閉、賢人隱。易曰、嚢括、无咎无譽。葢言謹也。
易には「囊を括る、咎もなく誉もなし」とあり、これは慎みを説いたもの。
六四は六五の君に近いものの、陰爻同士でありその心は通じ合わない。天地の気は交わることで変化をもたらし、その結果として草木が繁茂します。しかし、天地の気が断絶し通じ合わなければ、万物は成長しません。同様に、君(天)と臣(地)の道が隔絶するとき、賢人は世に出ずに隠遁します。六四はまさにそのような時期に相当し、囊の口を括るように隠れ慎むことで、誉れもなく咎もない情況なのです。
君子黄中通理、正位居體。美在其中、而暢於四支、發於事業。美之至也。
君子は、黄色が四方の色―青、赤、白、黒―の中心に位置し、それらの色との調和を通じて秩序を維持するように、心に中庸の徳を持ちつつ、その徳が自然に周囲に広がり秩序が保たれます。また、君子は高貴な位置である「五」にあっても、裳を下半身に当てるように、謙虚に振る舞います。
物事の情理に精通し、自ら従うべき立場を認識し、その地位に適した行動を取ります。これはたとえ才能や能力に恵まれて高い地位にいたとしても、現在の状況や情理に従って自己の分限をわきまえ役割を果たすことが重要であることを示唆しています。従順、受容、柔和の陰徳を示す言葉になります。
謙虚であり、柔和であり、柔順であり、受容的な心が全身に行き渡るようになれば、美徳はその人の行動に表れるのではなく、その人の事業に表れることになります。それは美(徳)の至りです。美徳とは陰の徳であり、隠したもの、秘めたものが、光があふれ漏れ出すように外に表れるというのが、美徳の真髄なのです。
陰疑於陽必戰。爲其嫌於无陽也、故稱龍焉。猶未離其類也、故稱血焉。夫玄黄者、天地之雜也。天玄而地黄。
臣下が強大な力を持ち、自らが君主のように振る舞うならば、必ずや戦いが起こるでしょう。下位の者が上位の者に対して意見を述べると、上位者の怒りを買うことになります。従属する立場の者が自らを主と勘違いすれば、それが戦いの火種となるのです。陽と陰ではその強さの質が異なります。陰が陽に勝る点は、重圧にも容易に耐え抜き、徹底的に従順であり、慈愛をもって受け入れる精神力を持っていることにあります。これらの教えを決して忘れてはなりません。
陰は小さく、陽は大きく、陰は陽に従うことが本則であります。しかし、上六の段階においては、陰が極盛となり、陽に匹敵する大きさとなりました。この時点で陰と陽は戦わざるを得ない状況となります。坤卦は純陰の状態ですが、この時も陽は影に潜んでおり、完全に消えてしまったわけではありません。陽が全く存在しないように見えるかもしれませんが、陽の象徴である竜の名を挙げることでその存在を示しています。陰が陽に匹敵するほど盛んになっていても、やはり陰の本質からは離れていません。したがって、血という表現が使われます。血は陰に属するものです。玄黄という色は天と地が混ざった色であり、天の色は玄、地の色は黄です。竜が流す血が玄と黄であるということは、陽(天)も陰(地)もともに傷ついたことを示しています。
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