見出し画像

41.山澤損(さんたくそん)【易経六十四卦】

山澤損(へらす/喜捨)


loss:損失/decrease:減少

衰微の時なり。回復の策を構ずべし。 欲に溺れるは大損とならん。


緩必有所失。故受之以損。(序卦伝)

緩めれば必ず失うところあり。故にこれを受くるに損を以てす。


困難が解消されて穏やかな状況になると、必ず気持ちが緩み、何かを失うことになります。緩めすぎると、損失が生じます。損失とは、単なる損害のことではなく、むしろ奉仕に近い意味合いを持ちます。自分の力を割いて他人に与え、社会に奉仕することを指します。
周囲からは「一銭の得にもならないことをしている」と嘲笑されるかもしれませんが、その信念を貫き通すこと、これが「損」の道なのです。それを単なる損失と捉えるか、喜びを見出すかは、その人の精神次第です。「損」とは、下を損して上を益すること、つまり下から上への奉仕を意味します。誠意さえあれば、形式にこだわる必要はありません。簡素な供え物でも、神意にかなうものとなります。

損之又損。以至於無爲。 之を損し又た損し、以て無為に至る。
一切の有為、さかしらや欲望をへらし、無為無欲の自然にかえる。

[老子:第四十八章忘知]

動けば損を見たり、つまらぬ目に会ったりするとき。この卦のときは何かしら金銭的な問題や欲に走ったりすることが出がちで、進めば損失に終わることになるので注意せねばならぬ。運勢は無論下降の時だから、強引なことや無理なことは全く通じない。下手に動いて元も子もなくなるから止めること。しかし直接自己の利益に繋がらない、例えば人のために一肌脱ぐとか、社会的に貢献するようなことは大いにやってよい。 俗に「損して得取れ」という言葉がある。これは多分に海老で鯛を釣る意味があり、その意味もないではないが、この卦の本当の意味は自分を犠牲にしたり、無欲になって他人を喜ばしたり、利益を与えてやることで、その点勘違いしないで欲しい。

[嶋謙州]

損の卦は次の益の卦とあわせて損益の卦といい、上経の泰否の卦と好一対の大切な卦であります。結局人間は、人にばかり求めても仕方がない、己を修めなければいけないということであります。これが損であります。 そこで損の卦の大象に、懲忿窒欲~忿いかりを懲こらし欲を窒ふさぐ、とあります。つまり自分をおさえる、言い換えると克己であります。 自分、家庭、周囲をうまくやっていこうと思いますと、どうしても克己―己に克つということがなければなりません。その修業ができて初めて、人間は自由を得ることができるのであります。自己を抑損する。反省するという修養をしなければ、自由は得られません。

[安岡正篤]

損。有孚。元吉。无咎。可貞。利有攸往。曷之用。二簋可用享。

損は、孚あれば、元吉げんきつにして咎なし。ていにすべくして、往くところあるに利あり。なにをかこれ用いん。二簋にきを用てまつるべし。

損は減少を意味します。この卦は泰䷊から派生しています。泰の下卦の陽爻の一つを減じて上卦に加えることで損䷨となります。つまり、下を減らして上を増すという形です。これは人民の富を減らして君主の収入を増やすという意味です。上を増すのだから益と名付けることもできそうですが、下を減らすことに重点を置いて損と名付けます。この卦と対になる益卦は、上を減らして下を増やす形で、やはり下を基準にして名付けられます。
損といっても、単純に利益や損失を意味するわけではありません。国を治めるためには、民の所得からある程度のものを減らすことが必要です。損すべきことのために財を失う、減らすという意味です。損をしてそれを惜しむのではなく、損することに自ら満足を感じる、そういう財の失い方です。例えば、租税を納めることや、災害に遭って苦しんでいる人のために私財を拠出することが、この損卦の意味です。
『孚あり』とは、誠信、つまり誠意があって信じられることを意味します。損は孚あればとは、民から損すにあたり、損すべきものだけを損すというように、損し方に誠意があり、損される側からも納得されるならばという意味です。
外卦の艮は山を表し、内卦の兌はその山の下にある澤を表します。澤はその深さが深いほど山を一層高く見せます。そこに己を減らして他を益すという意味が見いだされます。だから、己を損して他を益し、その欠損を惜しまないことが本当の損ということになります。それには真の誠孚が必要です。
『元吉』は大善にして吉という意味です。ただし、孚あればです。『咎なし』とは、下々から損すことが咎あるやに感じられるので、孚あれば咎なしと述べます。『貞にすべし』は、自分の道を持続することを意味します。損という行為が持続しうるかどうか疑問を持たれるので、孚あれば持続しうると断じます。『往くところあるに利あり』は、損は一見望ましくないことですが、孚あれば往くところに利があるという意味です。
なにをかこれ用いん云々は、『損有孚』に続く意味です。損ということの特殊な例、礼を損す場合を示します。『簋』は竹皿で、祭祀の器です。『享』は神に供物を献げることです。礼を損さねばならない際に、何を供えたらよいかという問題です。孚さえあれば、通常八つ用いるのを二つに減らして供物を捧げても、神への敬虔があれば形式は損しても神は納得します(貧者の一燈)。
この文面は祭りだけに言及していますが、支配者の虚栄や浪費を戒めるものと見てよいでしょう。占ってこの卦が出たら、損をするが誠をもって行動すれば、最後は大吉、咎なし、永続きでき、前進しても有利であることを示します。この卦が出た時に限り、吝嗇であっても構いません。


彖曰。損。損下益上。其道上行。損而有孚。元吉无咎可貞。利有攸往。曷之用。二簋可用享。二簋應有時。損剛益柔有時。損益盈虚。與時偕行。

彖に曰く、損は、しもを損してかみを益す。その道上みちのぼり行く。損して孚あれば、元吉なり、咎なし、貞にすべし、往くところあるに利あり。なにをかこれ用いん、二簋にきもっまつるべし、二簋まさに時あるべし。剛を損して柔に益すも時あり。損益盈虚そんえきえいきょときともに行う。

損とは、下位の資源を削減し、上位に利益をもたらす行為を指します。これは下から資源を吸い上げて上に持ち上げるため、結果として下から上への昇進を意味します。一見すると損をすることは不吉に思えますが、誠実に損を受け入れることで、元吉を含む四つの良い結果がもたらされるでしょう。『剛を損し柔を益す』という言葉は、剛が強さゆえに過剰であることを、柔が弱さゆえに不足していることを示しています。これらの二者には適切な時期があり、過剰なものを削減し、不足しているものに利益を与えることは正しい行為ですが、その実行には適切な時期が求められます。
『損益盈虚。與時偕行』の教えは、余剰なものは減らし、不足しているものは補い、欠けているものは満たし、充実しているものは減らすべきであると説いています。しかし、それらの行為はすべて時の流れに従って行うべきであり、賢しらな心で無理に実行してはなりません。適切な時期に、適切な損を行うことが大切です。


象曰。山下有澤損。君子以懲忿窒欲。

象に曰く、山の下に沢あるは損なり。君子以て忿いかりをらし欲をふさぐ。

おおよそ人をいさめんと欲するには、唯だ一団の誠意、言に溢るること有るのみ。いやしくも一忿疾ふんしつの心を挟まば、諫は決して入らず。

[佐藤一斎/言志録]

人を諫める際には、心からの誠意を示しそれが言葉に溢れてくるようでなければならない。怒りや憎しみの気持ちが少しでも混じると、その言葉は相手の心には届かない。


損卦について上下に分けて見ると、上卦は山であり、下卦は沢です。沢は平地よりも低く、山は高い位置にあります。沢が上を損して山に益したことを示しています。君子はこの卦を基にして、自身の内にある損すべき部分を減らします。自身の怒りを抑え、再び怒りが生じないように戒め、欲望がまだ大きくならないうちに封じるのです。(「窒」は穴を塞ぐことから禁絶することを意味します。)
ここには老子の思想との関連が明確に見られます。老子は「これを損し又損し、以て無為に至る」と述べています。すべての有為、すなわち賢さや欲望を減らし、無為無欲の自然な状態に戻ることが老子の哲学です。

爲學日益。爲道日損。損之又損。以至於無爲。無爲而無不爲。取天下。常以無事。 及其有事。不足以取天下。
学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す。これを損して又た損し、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。天下を取るは、常に無事を以ってす。その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。

[老子:第四十八章忘知]

一切の有為、さかしらや欲望をらし、無為無欲の自然にかえる。

学問を修めると日に日に知識が益すが、無為の道を修めると日に日に無欲となる。欲を損らした上にもさらに損らしてゆけば、かくて無為の境地に到達し、無為の境地にいて、一切を為しとげてゆく。

[朝日選書:老子/福永光司]

初九。已事遄往。无咎。酌損之。 象曰。巳事遄往。尚合志也。

初九は、事をめてすみやかに往く、咎なし。みてこれを損す。 象に曰く、事を已めて遄かに往く、かみ志しを合するなり。  

『已』は終わりを意味し、やめることを示します。
『遄』は速さを表し、迅速な動きを示唆します。
『酌』は斟酌、つまり慎重に考慮することを指します。
『尚』は前述の意味と同じであり、特に損の初めにおいて最も強い意味を持ちます。
損とは、下にある豊かなものを削って他者を助ける行為です。このため、助けを受ける側は迅速であるほど効果があり、助けられることによってその必要が満たされるのです。損の場面では初位の方が卦の意が強く、上に進むにつれてその意義が薄れていきます。
例えば、堤防が崩壊し、その欠損部分を土嚢で一時的に補修することは一つの損失ですが、その修復が迅速であるほど望ましいのです。時間が経つと修繕が不可能になる危険があるためです。同様に、国家が戦争に突入し、常備軍だけでは対処しきれない場合には徴兵を行うことも一つの損失ですが、初めに十分な兵力を確保して敵に立ち向かうことで、一気に事態を解決することが可能です。逡巡したり、拒否したりすることは、逆に解決を難しくすることがあるため、そのような意味から損の初爻は「事を已めて遄かに往く」と解釈されます。
『事』は現在取り組んでいる仕事を指し、『往く』は損を行うことを示します。初九は下を損して上に益する時であり、上卦の六四と「応じている」。自己は剛爻で余裕があり、六四は陰で不足しています。自分を損して六四を助ける必要があるため、自分の仕事を止めて速やかに六四を助けに行くべきです。これは良いことであり、咎なしと占断されます。
この爻を得た人は、自己犠牲的に他人を助けるべきであり、その行為によって咎がないとされます。酌んで損することは、補足的な注意を意味しています。下の者が自分を損して上の者に益するので、適度な範囲での助けが重要です。助けるべき範囲を慎重に斟酌し、自分から損することが望ましいのです。象伝の意味は、上の六四が初九に応じていることを示しています。


九二。利貞。征凶。弗損益之。 象曰。九二利貞。中以爲志也。

九二は、貞しきに利あり。征けば凶。損せずしてこれを益す。 象に曰く、九二の利貞りていなるは、ちゅう以て志しと為せばなり。

貞とは正しさを意味します。正しいことは変わらず守るべきであり、貞にはまた「固くする」という意味も含まれています。ここで言う「貞」も、その立場を固く守るべきことを教示しています。固くすることが良いのであれば、その中には正しいものがなくてはならず、特にこの爻の正しさを挙げるとすれば、剛中である点がその特徴です。陰陽の理において、中庸を得ていることが不正であっても核心に触れる時には動かせない意義を生じます。したがって、この爻は進んで自らを損なうことなく、その地位を守り、さらにその位置を固めることが良いのです。
九二は剛毅であり(陽爻)、中庸の位置(内卦の中)を保っています。自身の中庸の道を守ることを志し、無謀に前進しようとはしません。占いでこの爻を得た者は、自身の正しさを堅持し続けるべきです。積極的に外へ出て行けば凶に遭遇するでしょう。
『損せずしてこれを益す』の解釈として、初九の例から考えると、九二も自分を犠牲にして上位を益するのが当然のように思われます。しかし九二は自己を守り、自己を犠牲にしてまで上を益そうとはしません。実際には、そうして距離を置く方が常に他人の献身を期待する者にとっては教訓となります。自分を損なうことなく相手を益する、つまり援助を与えないことが逆に援助となるのです。世間の愚者の忠義は、この理屈を理解していないと程氏は述べています。


六三。三人行則損一人。一人行則得其友。 象曰。一人行。三則疑也。

六三は、三人さんにん行けば一人いちにんを損す。一人行けばその友を得う。 象に曰く、一人行く、三なれば疑わしきなり。

は泰から変化した卦です。つまり、泰の下卦であるの上部の一陽を損し、それを上卦のに益したものです。
「三人」とは、水天需の上爻にある「速かざる客三人」と同様に、泰(損になる前の状態)の内卦乾の三陽を指し、「一人」とはその三爻のことを指しています。すなわち、三陽爻から一つを損したために、「三人行けば一人を損す」ということになります。一陽が上昇することで、代わりに一陰(泰の上六)が降りてきたのです。これを「一人行けばその友を得」ということに喩えています。
結局、三つの中の一つだけがその目的を果たすとしても、三人の中から一人が仲間外れとなることを意味しています。それに対し、初めから一人であれば、疑いや迷いもなく、足りない部分を補い合って二つの者が一体となることができます。これは、貝の上蓋と下蓋が合わさって役立つように、友としての交わりを結ぶことができるという意味です。
結局のところ、陰陽の補相和合においては、数の多さを求めるのではなく、最も適当な一つを求めるのが自然の理だという考え方です。天下のすべての物事は、一陰と一陽が組み合わさることで成り立っています。そのため、一人で行けば必ず気の合う友が得られますが、三人で行けば、自分と組み合わさるべき相手に迷うことになります。どうしても三人のうちの一人を損なわない限り、しっくりとした道連れにはなりません。
占ってこの爻を得た場合、気が多すぎてはいけません。目的を一つに定めて専心することが重要です。


六四。損其疾。使遄有喜。无咎。 象曰。損其疾。亦可喜也。

六四は、そのやまいを損す。使すみやかなれば喜びあり。咎なし。 象に曰く、その疾を損す、た喜ぶべきなり。

『疾』とは病気を指し、さらに広義には欠点を意味します。『使』は仮定を示し、『若し』と同じ意味を持ちます。『亦』は「それもまた」を表します。内卦の初九・九二・六三は、自己を犠牲にして他者を益する立場にありましたが、外卦の三つの爻は、他者から利益を得る立場にあります。
この六四は、六五に対する補助的な地位にあるものの、陰位に陰を持ち、陰柔で才能に乏しいため、応位の初爻の力を借りて補わなければなりません。そのため「その力弱きを益す」と言うべきところを、卦が損を意味することから、同じ内容であっても「其の疾いを損する」と表現しています。
病気の場合、もし早期に対処すれば、治癒の喜びがあります。道徳的な病気についても、ひどく悪くなる前に損すれば、喜ばしい結果が得られます。占いにおいてこの爻が現れた場合、肉体的または道徳的な病気を減らすことができます。もし早期に対処すれば、治癒し、死に至る咎はありません。


六五。或益之。十朋之龜弗克違。元吉。 象曰。六五元吉。自上祐也。

六五は、或いはこれを益す。十朋じっぽうたがあたわず。元吉なり。 象に曰く、六五の元吉なるは、かみよりたすくればなり。

『十朋の亀』とは、占いに用いる非常に貴重な大亀のことを指し、その価値は大貝二十枚(十朋)に相当します。六五は陰爻であり、柔順さと虚心(陰は内部が空虚)を示しています。このような美徳を持ち合わせた五の君位に位置しています。
時勢は下位の者が損をしても上位の者を益する時期です。天下の人々は、自分の利益を犠牲にしても、この君主に利益をもたらそうとするでしょう。或いは、これを益する者が多数存在するということです。このような良い結果がもたらされるのは、上天が六五を助けているからであり、理にかなったものであるといえます。たとえ大貝二十枚もの高価な大亀で占ったとしても、間違いなく同じ結果が得られるでしょう。
この爻を得た人は、柔順で無私の徳があれば、人から助けられ、大吉となるのです。


上九。弗損益之。无咎。貞吉。利有攸往。得臣无家。 象曰。弗損益之。大得志也。

上九は、損ぜずしてこれを益す。貞しければ吉にして、往くところあるに利あり。臣をるにいえなし。 象に曰く、損せずしてこれを益す、大いに志しを得るなり。

『弗損益之』については、九二にも同じ句が見られますが、その位が異なるため意味も変わってきます。上九は損卦の終局を示しており、損が極まり益に転じるべき位置にあります。本来、剛爻が最上位にある場合、もしその強い力で下から損して削れば、大きな過ちを犯すことになります。しかし、下から損することを避け、その余分なもの(陽は充実、陰は不足)を下に益するならば、咎められることはありません。正しい道を守るならば、吉となり、前進することが適当です。
上にあって下を損なうことなく、むしろ下に益するならば、天下の人々は皆これに従うでしょう。それが「臣を得る」という意味です。「家なし」とは、天下が一つの家となり、個々の家の境界がなくなることを意味します。
象伝における『志を得る』とは、君子の志が人に益することであり、ここでその本懐を遂げることができるということです。
『自分は損をすることなく、周囲に大きな益をもたらす』というのは、自分の財産を直接減らして皆に分け与えることには限界がありますが、良い政治や施設を整えることは永続的であり、はるかに尊い恵みとなります。このようであれば、天下の臣民は心から服従し、自身の家や私事を顧みずに専念するため、「臣を得て家なし」と言われるのです。


▼龍青三の易学研究note一覧▼

#龍青三易学研究 #易 #易経 #六十四卦 #易占 #易学 #周易 #八卦 #易経解説 #易経講座 #易経研究 #易学研究 #人文学 #中国古典 #四書五経 #孔子 #山澤損 #山沢損


いいなと思ったら応援しよう!