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20.風地観(ふうちかん)【易経六十四卦】

風地観(見る・示す/思索し反省する)


observation:観察/contemplation:沈思黙考,観想;looking

現状をつぶさに観察せよ。 自らを省みて、努力すべし。


物大然後可觀。故受之以觀。(序卦伝)

物大いにして然る後観るべし。故にこれを受くるに観を以てす。

序卦伝には、ものはおおきくて始めて観られる、そこで観が臨に次ぐ。物は大きくなってその後に初めて仰ぎ見ることができる。観は凝視して物事をよくよくみつめ観察すること。奥の底まで見抜くこと。
とありますが、これは卦気に基づく一面的な解釈です。
『十翼』の部分が一人の人物や一つの時代に作られたものではないため、正しい部分もあれば、そうでない部分もあります。臨卦が陽気の増大を示すのに対し、観卦は陰気の増大を示し、そのため両者は逆の意味を持ちます。また、卦画の配列順序も逆であり、そのため観卦が臨卦の後に配置されています。これにより、物事には両面があり、双方の立場から考えることが重要であるという教訓が示されています。


風地観卦は、上下に異なる卦が重なり合ったもので、下卦は坤、上卦は巽となっています。巽の風が地上を吹き渡る様子は、徳や教えが広範に行き渡ることを象徴しています。
上にある巽は風を、下にある坤は地を表し、巽が上に位置することで、民のために迅速に行動し、その影響が風のように広く行き渡ることを示唆しています。また、地が下に位置することは、地上のすべてのものが巽の行動を観察し、敬意と羨望の念を抱き、その徳と才能を学ぼうとする意志を示しています。このことから、観卦は他者の優れた点を敬意を持って観察し、学び取る卦であると解釈されます。

やたらに高望みしたり、夢を追うたりすることが多く、所詮はかなく水泡に帰すことになる。運勢は下り坂で、季節なら秋の兆しの見え始めた頃である。 こんなときは何をやっても良いためしはなく、進んで憂き目に遭うのが関の山。 特に金儲けや、金銭感覚には縁がなく、下手に触れるととんでもないことになる。 じっと我慢のときで、物事を考えたり、自分のことを反省したりすることはたいへん良い。 停滞ムードの時は兎角あせりがちで、流れを変えようとして積極的に出ようとするが、これはむしろマイナスで逆に損の上塗りになったり、深みにはまり込んだりする。 時機が到来すれば必ずツキが出てくるから、それまで決してあわてないこと。 学問や信仰はこの卦にぴったりの時。

[嶋謙州]

よく修養して人格の出来た人が現れ、座につきますと、参列の人々が粛然としてこれを観る。これが観であります。 観に二つの場合がありまして、ひとつは傍観といって高いところから見渡すことであり、他の一つは仰観といって下から仰ぎみることであります。 また、観世音の観などというのは、たいへん良い文字でありまして、これはただ見るのではなく、心のこもった、精神の高まった心でみるという観であります。 この卦は、自らを修めて人の範ととなり、人々から仰ぎ見、慕われるようにならなければならないという戒めの卦であります。

[安岡正篤]

觀。盥而不薦。有孚顒若。

観はかんしてせんせず、孚あって顒若ぎょうじゃくたり。

0407

䷒臨を反転させたものがこの卦です。観は去声で、観兵式の「観」や「しめす」の意味を持ちます。また、仰ぎ観ること、楼観は仰ぎ観られるものを指します。観世音の観、内観・主観などの観は、物事を見ることを意味しています。ただ漫然と目で眺めるのではなく、心を込めて観察することを意味します。観卦は、君主が道義を掲げて人々に示し、自らも人々に仰ぎ見られることを述べています。九五は尊位にあり、四つの陰に仰ぎ観られる存在です。九五は「中正」の道を天下に示しているため、「観」と名付けられました。
『盥』はたらいのことで、ここでは祭る前に手を洗うことを意味します。薦は酒食を神に捧げて祭ること、また君主が諸侯に謁見を賜う時の儀式を指します。いずれも身を洗い、心を清めて対面する場面であり、巽によって清めることを示しています。顒若は尊敬して仰ぎ見る様を意味し、封辞の意味は、丁寧に手を洗って軽々しく供物を捧げないことです。このように神への敬虔さを尽くせば、下々の者たちは信じてうやうやしく仰ぎ見るでしょう。これは占者への戒めであり、敬虔にして軽率な行動を避ければ、人々は信頼し尊敬してくれるでしょう。


彖曰。大觀在上。順而巽。中正以觀天下。觀盥而不薦。有孚顒若。下觀而化也。觀天之神道而四時不忒。聖人以神道設教。而天下服矣。

彖に曰く、大観上だいかんかみに在り。順にしてそん。中正以て天下にしめす。観はかんしてせんせず、孚あって顒若たり、下観しもみて化するなり。天の神道を観るに、しかも四時忒しいじたがわず。聖人神道を以て教を設けて、天下服す。

九五の位は高く、偉大な徳によって人々から尊敬され仰ぎ見られる存在です。上位に偉大な存在があることを示します。この卦において、内卦は坤であり、順従の性質を持ちます。外卦は巽であり、従順を意味します。四つの陰爻(民衆)が素直に従うのは、九五が「中正」の徳(五は外卦の中にあり、陽爻が陽位に正しく位置する)を天下に示しているからです。
「観」は、慎重に洗い清められた供物を軽々しく供えない厳粛な態度を表し、その様子を民衆が見て感化されることを意味します。天の神秘な道を仰ぎ見ると、四季の循環には一分の狂いもありません。これに倣い、聖人は天の神秘な法則に従って政教を設けます。聖人の政教が無理なく調和しているため、天下の人々は知らず知らずのうちに心から従うのです。四季の循環が狂わないのは天の道理であり、合法則的な政教の設立は聖人の観るところです。


象曰。風行地上觀。先王以省方觀民設教。

象に曰く、かぜ地上を行くは観なり。先王以てほう、民を、教えをもうく。

「観」という言葉は、観察と学習を指し、観卦は指導者が模範となり、人々から仰ぎ見られる存在であるべきことを示しています。『象伝』では観卦を「風が地上を行く、それが観である。古代の聖王はこの原理を理解し、各地を巡視し、民の状況を観察して教化を施した」と解釈しています。これは、風が大地を吹き渡る様子が観卦の象徴であり、古代の王が四方を巡り民情を観察し、それをもとに教えを広めたことを示しています。
観卦は、上にある者が道義をもって天下を観察し、下にある者が敬意をもって上を仰ぎ見る道理を示唆しています。このような秩序のもとで、人心は自然と従順になり、観卦が中上卦に属する理由ともなっています。『象伝』では「この卦は、商売に利益が多く、婚姻にも助けがあり、外出は苦労少なく」と評されています。
風地観卦の卦名「観」は、『説文解字』に「観とは、詳しく見ることなり」とあるように、注意深く、詳細に観察し、審査することを意味しています。前の臨卦も察見を意味しますが、観卦もまた察見の意味を持ちます。
ただし、『雑卦伝』では「臨と観の違いは、与えるか求めるかである」と述べており、臨卦は見ることを通じて与えることを目的とし、観卦は見ることを通じて求めることを目的としています。臨卦は民衆の状況を把握し、彼らに有利な政策を提供するためのものであり、観卦は自然や天地の運行を観察し、それらの法則を理解することを目指しています。簡単に言えば、臨は問題を発見し解決すること、観は未知を探求し知識を得ることに重きを置いています。
風地観卦の卦画は、下に四つの陰爻、上に二つの陽爻があり、これは臨卦の卦画配列と逆です。卦象としては、巽が風を、坤が地を表し、風が大地を吹き渡る様子が観卦を象徴しています。風のように、人もまた、あらゆるものを観察し、多くの知識を得るべきだという教えが込められています。


初六。童觀。小人无咎。君子吝。 象曰。初六童觀。小人道也。

初六は、童観どうかんす。小人は咎なし。君子はりん。 象に曰く、初六しょりく童観は、小人の道なり。

卦辞の「観」は「しめす」という意味を持ち、去声で読みますが、爻辞の「観」は平声で「みる」を意味します。卦辞は九五の立場から語られているため、「しめす」と言い、各爻から見ると九五を「る」となります。
初六は柔弱な陰爻であり、最下位に位置します。九五を観ようとするものの、距離が遠く、力も弱いため、遠大な見通しが効きません。これはまるで童子が物事を観るようなものであり、ゆえに「童観」と呼ばれます。童子のように未熟で浅はかな物の見方や考え方は見識が低く、これは小人の観であり、君子の観ではありません。
身近なものしか見ないのは、無知な庶民としては当然のことですが、在位者にとっては恥ずべきことです。したがって、占ってこの爻を得た場合、占う人が庶民であれば特に問題はありません(小人无咎)。しかし、上に立つ者であれば恥をかくことになるでしょう(君子吝)。


「童」とは、幼稚で見識の浅い人物を意味します。この爻が示すところは、未熟で限られた視野で物事を捉えることが、一般庶民にとっては大きな害をもたらさないかもしれませんが、君子たる者にとっては非常に恥ずべきことであるというものです。「象曰。初六童觀。小人道也。」とあるように、自らの見識を深め、物事を広い視点から観察すべきであり、浅薄な理解や短絡的な判断にとどまってはいけません。目先の利益に捉われ、道徳や伝統を軽視することは禁物です。この爻を得た者は、問題に対して表面的な見方に留まることなく、より深い洞察が求められます。もしそうできないなら、それは未だ成熟していないことの証拠です。小人物として満足するのであればそれでも構いませんが、責任ある君子として生きたいと願うならば、成熟が必須となります。さもなければ、不利な状況に陥る可能性が高いでしょう。

子どものような視点で問題を見ると、表層的な理解にしか至りません。子どもは経験が乏しいため、物事の奥深さにまで目が届かないのです。小人にとっては、このように狭い視野で物事を捉えても災いにはなりません。なぜなら、浅薄であることは小人物の本質であり、特別な欠点ではないからです。『周易』では、小人と君子は対立する二つの存在として描かれ、君子は統治者階層、小人は庶民を象徴しています。中世の時代、庶民の中で教育を受けた者は少なく、小人は無知の代名詞とされました。しかし、時代が進み、社会が発展していくにつれ、小人の意味合いも変化しました。現代では、小人は単に無知であるだけでなく、礼節や道徳に欠けた者としても捉えられるようになったのです。

中世の最下層に位置する農民や奴隷たちには、知識が求められることはほとんどありませんでした。彼らは与えられた役割をこなすだけで、複雑な思考や判断が必要とされなかったため、未熟であっても生活に支障はなかったのです。しかし、君子は国を統治する立場にあるため、短見であることは致命的です。国家の繁栄や安定には深い見識が不可欠であり、短絡的な視点では国家の滅亡すら招きかねません。だからこそ、君子が「童観」の状態であることは恥であり、憂うべきこととされています。

現代において、君子とは何かを成し遂げたいと願い、自己成長を望む者を指すでしょう。もし発展や成功を望むならば、「童観」の状態から脱し、より深い見識と成熟を目指すことが重要です。


六二。闚觀。利女貞。 象曰。闚觀女貞。亦可醜也。

六二は、闚観きかんす。女貞じょていに利あり。 象に曰く、闚観女貞なるも、またずべきなり。

闚は「窺」と同様に「窺い見る」「覘き見る」という意味を持っていますが、「窺」が穴から覘くことを表すのに対して、闚は門の隙間から覘くことを指します。また、「醜」は「愧」と似た意味を持っています。童観のように無知であるだけでなく、正確に物事を見極めようとする意欲が芽生えているものの、その全貌を明らかにするまでには至っていない状態です。童観が小人に咎なしであったように、女性もまた自分の分を守り、出過ぎた行動をせず、窺い見る程度の観察にとどめるのがむしろ良い意味を持つとされています。したがって、女性が窺い見ることは恥ずべきことではありません。
六二は陰の爻であり、内卦に位置します。これは弱く暗い性質を持ちますが、外卦の輝かしい九五を観ることができます。しかし、その光が眩しくて直接見ることができないため、門の隙間から覘いているのです。門の外に出ないことは、女性にとって美しい道であるとされています。したがって、占う人が女性である場合、家の内にあって女性の道を守ることが良いとされています。ただし、堂々たる男子がこの爻を得た場合は利益はありません。天下に中正(九五)の大道が掲げられているときに、門の内から覘くという態度は、女性にとっては当然かもしれませんが、男子としては避けるべき態度です。


六三。觀我生進退。 象曰。觀我生進退。未失道也。

六三は、我が生を観て進退す。 象に曰く、我が生を観て進退す、いまだ道をしつせざるなり。

我が生の進退を観るとも読める(唐の『正義』)。我が生とは我が行いの意味です。六三は下卦の頂点に位置し、進退の選択が可能な状態にあります。観の道において成熟し、自分を内省しながら適切な進退を判断できる境地に達しています。進退の語が頻出するのは、三爻や四爻の位置が内卦と外卦の境界にあり、最も進退が難しい位置であるからです。しかし、この六三は自己反省に優れ、過ちを犯すことがありません。冷静な判断力を持つ見識者であるため、初六の吝や六二の醜に影響されることなく、過ちのない道を歩むことができます。
自己の志行を批判する能力を持ち、観の時において適切であれば進み、不当であれば他者に勧められても退くことができるのです。九五を仰ぎ観ることなく、自分の行動が成功するかどうかのみを見極め、進退を決定します。しかし、その器量からすると個人的な善処にとどまり、他者を導く境地には至りません。いわば、この爻は自身の道に沿い、時機にかなった処世法を実践しています。この爻が出た場合、占う人は自らの運を見定め、退くべき時に退くことを心得るべきです。


六四。觀國之光。利用賓于王。 象曰。觀國之光。尚賓也。

六四は、国の光をる。もって王にひんたるに利あり。 象に曰く、国の光を観る、賓たらんことをこいねがうなり。

『賓たり』とは仕えることを意味します。昔、徳の高い人が朝廷に訪れると、天子は賓客として丁重にもてなしました。初六の童観から順次、観の道に長け、自分の行動を正しく見定めて進む者が、この爻に至ります。この爻は内卦を超えて外卦に入り、上から下を見下ろす立場の一員となります。内卦の坤は大衆を表し、下から仰ぎ見る側ですが、外卦は風が木の枝を揺らし、葉を振るわせてその動きを示します。つまり、示す側に入ったことを意味します。
六四は上に位置し、その下にいる者をよく観察します。陰位に陰があることから、その観察は正しく、国の状況を正確に見極めます。至らない者には指導を行い、不正な行いをする者がいれば正しい道に戻す手段を講じます。このような能力のある者を、九五の王は大いに評価し、侯として地方を治めさせるのが適切です。
六四は九五に最も近く位置します。九五は陽剛で中正、徳の高い王者です。六四はその王者の徳の輝きを身近に感じることができます。ここで「君の光を観る」とは言わずに「国の光を観る」と言うのは、一国の風俗の美しさを観ることで、その君主の徳を最もよく理解できるからです。観光旅行の「観光」という言葉の由来もここにあります。
士たる者は、徳が盛んな国を見れば、その君に仕えたいと願わずにはいられません。六四は従順な性格を持ち、仕えるにふさわしい人物です。この爻を占って得た場合、まだ地位にない者は朝廷に仕えることが吉とされ、既に地位にある者は朝覲や参覲の交代に上るのに吉とされます。


九五。觀我生。君子无咎。 象曰。觀我生。觀民也。

九五は、我が生を観る。君子なるときは咎なし。 象に曰く、我が生を観るは、民を観るなり。

九五は主卦と成卦の両面で重要な主爻であり、陽剛の「中正」を体現しています。尊貴な地位にあって、その中正な行いを模範として民衆に示します。下の四つの陰爻がこれを仰ぎ見ています。まさに徳のある君主であり、観の卦の中心人物です。
同じ『我が生を観る』でも、九五と六三では大きな違いがあります。六三は観の道を未だ修めておらず、個人の進退を判断する程度の観方しかできませんが、九五の君子たる者の行いと考え方は、国中の民の生活に大きな影響を与えます。ゆえに、自分の行いや思いが正しくなければ、それが直ちに民の上に反映されます。だからこそ君子は、民の動向を見て、自らの行いと考えの正否を判断します。
天下の風を観察し、正しくなければ自らの徳が不足しているとし、正しければ道に則って努力を重ねます。したがって、支配者がこの爻を得た場合、自らの日常の行いを振り返り、自分の行いが中正であり、君主として恥ずかしくないものであるかどうかを確認すべきです(=観我生)。自らの行いが中正であれば、咎はありません。象伝の意味は、支配者が自らの行いの善悪を観るためには、民の風俗の善悪を観察すべきだということです。民の風俗が良くなるのも悪くなるのも、すべて支配者の徳によるからです。


上九。觀其生。君子无咎。 象曰。觀其生。志未平也。

上九は、其の生を観る。君子なるときは咎なし。 象に曰く、其の生を観る、志しいまだたいらかならざるなり。

上九は、臨の上九と同様に卦の頂点に位置し、陽の気が五の君位を越えてさらに上にある状態です。これは、大いなる人物が官職や爵位にとらわれず、政治の世界から離れて自由に生きる様子を示しています(上の位はしばしば隠遁者を意味します。䷑蠱上九参照)。
政治に直接関与していないものの、その一挙手一投足が人々に注目されています。しかし、九五と同じ陽の位置で、下の爻を示しているため、この上九にあっても民衆への示しを放棄せず、君主の教えが広く行き渡っているかを見守ります。それゆえに、まだ教化が完全には達成されておらず、さらなる努力が必要とされますが、こうした任務に耐えうるのは君子のみです。
九五では「我が生を観る」と表現されていますが、ここでは「其の生を観る」と言い換えられています。これは、観る対象が変わったことを示しています。内観や内省ではなく、生きとし生けるものすべての生命を観察し、深く感じ入ることを意味します。悟りの境地に達したような状態です。
占ってこの爻を得たならば、自らの行動を常に反省し、剛毅で欲を持たず、君子にふさわしい徳を備えていれば、咎められることはありません。
象伝には「志しいまだ平らかならず」とありますが、ここでの「平」は「安」と同じ意味です。政治の重責にあるわけではありませんが、常に民衆に仰ぎ見られているため、安心することはできません。自身を慎む必要があります。


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