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16.雷地豫(らいちよ)【易経六十四卦】


雷地豫(よろこび・たのしみの時/新機発動)


coution:警戒/enthusiasm:熱心,熱狂,強い興味

運気まさに到らんとす、今しばらく待て。 盛運くるべし。今は足るをもって佳しとせよ。


有大而能謙必豫。故受之以豫。(序卦伝)

大を有して能く謙なれば必ず豫よろこぶ。故にこれを受くるに豫を以てす。
豫には三つの意味があります。「たのしむ」「おこたる」「あらかじめ」の三つです。
「歓楽」に耽溺すると、「油断」が生じて思わぬ失敗を招くことになります。そのため、常に「あらかじめ」警戒して行動することが重要です。この卦の構造は、上の卦が震で雷を表し、下の卦が坤で地を示しています。これは、地の下にあった雷が地上に現れ出た姿を象徴しています。ちょうど春雷が轟き、寒さが去り、それによって草木が芽吹き、万物が喜び楽しむ様子と同様です。このため、この卦は豫と名付けられました。一年の気象においては、旧暦三月の清明(四月上旬)に対応しています。


重門撃柝。以待暴客。蓋取諸豫。(繋辞下伝:第二章)

門を重ねたくを撃ち、以て暴客を待つ。けだしこれを豫に取る。
門を二重に閉ざして拍子木を叩いて突然の侵入者に対して警戒する。

物事を安易に考えたり、喜びに溺れたり、油断したりがちの時であるから充分注意しなければならない。 運勢は春の訪れを思わせるような感じで無論上昇ムードに向かうときである。 だから強いには違いないが、まだまだこれからで始まったばかりといえる。 何事も成り易く、実行に移して良いようにも見えるが、注意しないと落とし穴があり、石橋を叩いて渡るように慎重によく計画を練ってから取り掛からないと、とんでもないことになるからくれぐれも用心が肝要である。 衝動的に行動したり、ろくに相手も調べずに契約したりすることは特に慎んで欲しい。 徐々に警戒しながら歩を進めることがこの卦のポイントで、そうすることがこの運勢にうまく乗って行く決め手になる。

[嶋謙州]

同人が大有になり、謙の美徳を養うと豫の卦ができる。 豫はあらかじめという字であります。言い換えますと、先が見え、準備できる。つまり余裕ができるのであります。 余裕が出来ますと物事を楽しむこともできる。そこで豫の字はたのしむとも読みまして面白い卦であります。

[安岡正篤]

豫。利建侯行師。

豫は、きみを建ていくさるに利あり。

謙を反対にするとこの卦になります。序卦伝には、謙遜であれば心に余裕が生まれるため、謙卦のあとに豫卦が配置される、と記されています。豫とは和らぎ楽しむことを意味します。これは、民の心が和やかに楽しくなり、支配者に従順になることを説いている卦です。
雷地豫は、冬の間に潜んでいた雷気が地上に出現することを意味する卦です。豫には「前もって」と「悦び楽しむ」の二つの意味があります。秋から冬にかけて潜んでいた雷気が時を待って地上に現れる様子に「前もって」の意味が込められています。そして、春が来て雷が地上に現れると、長い冬から解放された全ての生き物が生気を取り戻し、悦びの声を上げます。
「豫言」、「豫想」、「豫期」など、あらかじめ準備をし、順序を守って進めば、物事は支障なく進展し、良い結果を得ることができます。良い結果が得られることは誰にとっても喜ばしいことなので、豫を「悦び」とするのです。つまり、悦びを得るためには何事も前もって準備し、計画的に進める必要があるということです。
この卦では、九四だけが陽爻であり、上下の陰爻がこれに従っています。そのため、九四は志を遂げるでしょう。また、下卦の坤は順応を意味し、上卦の震は動きを意味します。順応して動くという意味でも、豫しむという意味が含まれます。だからこそ、この卦は豫と名付けられました。この卦が占いに現れた場合、君主を立てて軍を動かすのに適しているとされています。


彖曰。豫。剛應而志行。順以動豫。豫順以動。故天地如之。而況建侯行師乎。天地以順動。故日月不過而四時不忒。聖人以順動。則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉。

彖に曰く、豫は、剛応じて志し行わる。順以じゅんもって動くは豫なり。豫は順以て動く、故に天地もかくのごとし。しかるをいわんや候を建て師を行るをや。天地は順を以て動く、故に日月のあやまたずして四時忒しいじたがわず。聖人順を以て動けば、刑罰清くしてたみ服す。豫の時義じぎ大いなるかな。

豫の卦は、九四の剛爻が五陰の応を得て、その志が遂げられることで豫ぶという卦です。また、震は動きを、坤は順を意味します。順とは理に従うことを指し、理に順って素直に動く点でも豫ぶと名づけられます。豫が理に従って動くように、天地も理に順って動くからこそ、少しの狂いもないのです。天地ですら理に順うのですから、ましてや君主が軍隊を動かすといった人間の行動が、理に背いて成し遂げられるはずがありません。天地が理に従って運動するからこそ、日月は誤りなく運行し、四季は狂いなく循環します。同様に、聖人が理に従って行動するからこそ、刑罰は正しく行われ、それゆえに民は心服するのです。豫の時義は、なんと偉大なものでしょうか。
時義とは、各卦が宇宙の変化の中で示すある特定の時間を意味します。豫の時義とは、豫の卦が示す時間の意義を指します。順序や段階を怠らず確実に踏まえ、時に適う行いの意義は非常に大きいのです。


象曰。雷出地奮豫。先王以作樂崇徳。殷薦之上帝。以配祖考。

象に曰く、らいの地を出でてふるうは豫なり。先王以てがくを作り徳をたっとび、さかんにこれを上帝に薦め、以て祖考そこうを配す。

殷は「盛」を意味し、上帝は天帝を指します。「考」は亡き父、「配」は配祀、つまり共に祀ることを表します。雷とは、陽気が陰気に押し込められ地下で圧迫されることで、最終的に爆発する現象を指します。雷が鳴ると、陰陽の気が調和し、和楽(=豫)するのです。この卦は雷が地上に出て響きわたる様子を表しています。このとき、陰陽の二気は完全に和楽しているため、これを豫と呼びます。
古代の聖王たちはこの卦を法として音楽を創造しました。雷の音を象徴し、また「しませる」(楽しませる)の意味にもかけて音楽を作り上げたのです。音楽は徳のある人物を顕彰する際にも用いられ、さらに祭りの場においても重要な役割を果たします。祭りでは盛大に音楽を奏で、天帝に供え物をし、同時に音楽を通じて父祖の霊魂を天帝にあわせて祀ります。
例えば、周公は冬至の日に郊外で始祖である后稷を祀り、九月には明堂で亡き父である文王を天帝にあわせて祭りました。このように、祭りに音楽が欠かせないのは、音楽が人間だけでなく、神々も和楽させ、地上に招き寄せる力を持っているからです。


初六。鳴豫。凶。 象曰。初六鳴豫。志窮凶也。

初六は、鳴豫めいよす。凶なり。 象に曰く、初六の鳴豫は、志し窮まって凶なり。

初六は陰柔な性質を持ち、「不正」(陰爻陽位)とされています。これは小人を示していますが、上に九四という強力な支援者がいるため(初六と九四は応じ合います)、時機を得ると自由に行動することができます。そのため、喜びを堪えきれず、得意の感情を高らかに声に出して歌うのです。これが鳴豫であり、自分自身に喜びの根底がなく、他人に倣って喜ぶことを意味します。このような態度は決して良い結果をもたらさないため、占断では凶とされます。象伝の「志し窮まって凶」とは、得意の絶頂に達して驕慢になるため凶とされるのです。
豫は和楽を意味し、本来は良い意味で使われるはずですが、この辞が凶とされるのはなぜでしょうか。卦辞と九四の爻辞は、多くの人々が和合することで吉とされますが、初六その他の辞はすべて自分だけの楽しみに焦点を当てているため、豫が必ずしも吉にはならないのです。


六二。介于石。不終日。貞吉。 象曰。不終日。貞吉。以中正也。

六二は、いしかいたり。日を終えず。貞にして吉なり。 象に曰く、日を終えず、貞吉なるは、中正を以てなり。

蒋介石謝介石松村介石の名の由来となったのが、この六二が爻辞です。
介は狷介《けんかい》の介、孤高独立するさま。自分を守るために区切りすることで、ひとつの区画という意味になります。
限界というものは、境界線のようなものであり、守ることを意味する「介」はその境界線をさらに強固にすることに繋がります。例えば、蟹の甲羅や貝の殻、または甲冑などがその例です。
「于石」という言葉は「如石」(石のごとく)の意味を持ち、繋辞伝では「介于石」を「介如石」と解釈しています。
「豫」という字は楽しみを意味しますが、楽しみというものは往々にして人を弱らせるもので、楽しみに溺れると逆に憂いがやって来るものです。豫卦の中で、唯一「中正」であるのが六二です。これは、二が内卦の中にあり、陰爻が陰位に位置して正しい状態を示しているからです。つまり、周囲の者が楽しみに溺れている中で、ただひとり中庸を保ち、溺れることなく正しい道を歩むことを意味します。
石のごとく動じない姿勢(=介于石)を持つことが大切なのです。物事に区切りをつけ、楽しむべき時は楽しむが、過度に溺れることなく、交際においても馴れ合うことは避けるべきです。このような徳が安定し堅固であるため、その思慮は聡明で、一日の終わりを待たずとも吉凶の兆しを見抜くことができる(=不終日)。正しい道を堅固に守る姿勢こそが吉をもたらすと教えています。
『大学』に「安んじてのち能く慮る。慮ってのち能く得」とあるのもそのためです。この占いを得た人が、石のように確固不動であれば、正しくて吉となるのです。


六三。盱豫。悔。遲有悔。 象曰。盱豫有悔。位不當也。

六三は、盱豫くよす。ゆ。遅ければくいあり。 象に曰く、盱豫悔くよかいあるは、位当らざればなり。

盱とは、上を仰ぎ見ること、すなわち羨望を意味します。
『説文』では仰目と解されています。つまり、うわ目使いする様子を指します。六三の爻は陰であり、「不中」(中庸ではない)かつ「不正」(正しさを欠く)です。陰爻が陽位にあるため、中正を欠いた小人の身分でありながら、最も強力な存在である九四のすぐ下に位置しています。
九四はこの卦の事実上の主役であり、六三はその影響を強く受けます。そのため、六三はうわ目を使って九四の顔色を窺い、その機嫌を取ることで、自身も密かに楽しみを得ようとします。しかし、最終的には後悔することになるでしょう。そこで、『肝豫す悔ゆ』と述べられています。
占ってこの爻が出た場合、速やかに悔い改めるべきです。もし悔い改めることが遅れれば、本当に深い後悔に苛まれることになるでしょう。


九四。由豫大有得。勿疑。朋盍簪。 象曰。由豫大有得。志大行也。

九四は、由豫ゆうよす。大いに得るあり。疑うなかれ。朋盍簪ともあいあつまる。 象に曰く、由豫大いに得るは、志し大いに行わるるなり。

「由」は「よって」の意味を持ち、「蓋」は「合」と同義です。「簪」は「搢」の仮借で、速やかの意を表します。九四の位置は大臣の位(五が君、四は大臣)に相当し、唯一の剛として六五の君主に委任されています。この卦全体が、その人物によって栄光を享受する中心人物であるため、辞に「由って楽しむ」と記されています。占断においても吉兆であり、大いに利益を得ることが示唆されています。
しかし、柔弱な君主の側近として天下の事を一人で引き受けると、疑念が生じて危険を招く可能性があります。疑われる原因は、自分が他人を疑って援助を求めないことにあります。誠意を尽くし、人を疑わなければ、同じ志を持つ者が一斉に馳せ参じ、助けてくれるでしょう。これは、占う者への戒めでもあります。


六五。貞疾。恆不死。 象曰。六五貞疾。乘剛也。恆不死。中未亡也。

六五は、貞にしてむ。つねに死せず。 象に曰く、六五貞にして疾むは、剛に乗ればなり。恒に死せず、ちゅういまだ亡びざればなり。

六五の位置は、豫しむの時に該当し、柔弱な陰爻でありながら高位に就いています。これは、快楽に溺れる暗君の姿を示しています。その上、すぐ下には剛強な九四の大臣が控えており、民衆は皆九四に従い、六五には目もくれません。この状況は非常に危ういものです。
君位にあること自体は正しいのですが、君主が臣下に支配されている様は重病人に等しい状態です。そこで、「貞にして疾む」と表現されています。しかし、外卦の「中」を得ているため、五の君位の権威はまだ完全には失われておらず、即座に滅亡することはありません。これは病気がちでありながらも、常に死を免れている人のようなものです。このため、「恒に死せず」とされています。
吉凶の判断は直接下されていませんが、こののイメージから読み取ることができます。この爻を占った場合、人に見捨てられ、急に滅びることはないものの、息も絶え絶えの状態が続くでしょう。中庸を保ち、慎重に行動することが求められます。


上六。冥豫。成有渝。无咎。 象曰。冥豫在上。何可長也。

上六は、冥豫めいよす。成るもかわることあり。咎なし。 象に曰く、冥豫してかみに在り、何ぞながかるべけんや。

豫の卦が極まるとき、歓楽が頂点に達し、哀愁が生じます。冥は昏迷し、目がくらむ状態を意味します。渝は変化を示します。上六は陰柔な性格であり、歓楽の極点にあります。豫しみに耽ることで目がくらむような冥像を呈します。豫の時の終わりにおいて、快楽に溺れると、やがて災厄が訪れることでしょう。
しかし、上六は上卦震の一部であり、震は動くことを意味します。動くことは、物事が成就する一方で変化の可能性を含んでいます。故に、成就も変化も同時に存在するのです。
歓楽に耽溺していても、心を改める可能性は残されているのです。占う者がこの爻を得た場合、たとえ快楽に溺れ昏迷しても、悔い改めれば咎はないのです。


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