【feat.太宰治】「笑う門には福来る」を履き違える愚者【俗天使】
つい、笑ってしまったわ。こういう悪癖が僕にはあるねん。耳の痛い言葉をチクリと言われたら、フフッ、ってなる癖がな。「笑って誤魔化すからアカンのや!」と、追い打ちをかけるように言われた時もあったなぁ。その時は、ソレを打ち消すほどの、「ハッハッハッハッハ!」といった高笑いで、全てを無かったことにしてしまったんやけど、後で、「あの返しは無いよなぁ・・・。」と自己嫌悪に陥ったんやっけ。でも、リアルタイムのやり取りの場では、笑ってしまうんよな。つい、な。
まぁ僕は別に小説を書いているわけじゃないけどな。でも実態は大差無いかもわからへんな。「いつもドテラ着て家に居る人間」という意味でな。ところで「ドテラ」ってなんなんやろ。「部屋着」みたいなもんかな。だとしたら、まんま、僕のことを指しているけどな。この文章は。たまに、ホンマ、たま~に、用事があって、おめかしして(表現古いか?)、外へ出かけるぐらいやわ。多分、数えられる程度やで。年間通しても。月間で見たら、悲しくなるやろうな。「今月は外に出る用事は0件やったんか・・・。」って月も、出て来るやろうから。「知らぬが仏」とは良く言ったもんや。
アラサーぐらいになってからか、「運動」ってワードへのアンテナが、年々、高まってる気がしてならん。逆に言うと、それより前、20代の前半ぐらいまでは、「運動」ってワードを気にすることなくても、日常生活を送る中で、自然と身体を動かす機会が多かった、とも言えるわな。今とは生活スタイルが180度違うから。それより前、学生時代になると、部活動やサークルとか、アクティブに活動してたからな。ついでに言うとアルバイトもやってたし。今思い返せば、あれも良い運動になってた気がするわ。居酒屋でチャキチャキ働いてたんやで。お客さんの立場で店員さんを眺めてると、「よくこんなトコで働いてたなぁ・・・。」って思うわ。僕の住む世界とは到底思えんからさ。
でも、裏を返せば、学生時代の僕は、太宰治の言葉を借りれば、「運動の明るさ」と「元気」を身に宿していたから、アルバイトも「居酒屋スタッフ」とかいう、どっちかといえば、ウェイ系の人がやってそうなやつをチョイスしてたんかなぁ、とも思う。もしも今の僕がアルバイトをするとなると、せいぜい「書店員」とかやろうな。本に囲まれた場所で、のそのそと(と言ったら失礼かもしれんけど)本棚の整理とかしている絵が似合いそうやわ。単なる偏見かもしれんけどな。
ここまで独り言を駄弁(ダベ)って来て、ふと思う。「小説家の人は運動習慣を意識的に作っているんやろうか?」と。僕の周りには小説家の知り合いは居らんから良く分からへん。強いて言えば、ピース・又吉直樹のYouTubeチャンネルは見てるけどな。小説家でもあるやろ。多分。運動してるんかなぁ・・・。ファッション関連の動画になると、決まって、体型をイジられてる気がするけどなぁ・・・。ひとたび本気になったらガチでやり込むタイプやけど、毎日コツコツ取り組んでいる、というわけではなさそうや。知らんけど。
いや、そうなるんよな。実際。運動ってな。1日やったらガチれるねん。「今日は体育館を借りたから思う存分動くぜー!」みたいな。また楽しいねん。そういう運動は。ワチャワチャして。で、翌日は筋肉痛や。当然、身体を動かしたいなんて、微塵も思わへん。翌々日は、まだ筋肉痛が残ってたりするな。もう若くないからな。年々、筋疲労が抜け切るのが遅くなっていくんや。
「悲しいけどこれ現実なのよね」(スレッガー・ロウ風に)
んで、運動習慣は作られることのないまま、月日だけが過ぎて行く。そしてまた、忘れた頃にやってくる。1日運動に興じる日が。まるで、年に1度、「体育の日」(今ってスポーツの日って名称に変わったんやっけ?)が来るみたいに。ホンマにそれぐらいのスパンかもな。運動をガチる日って、1年に1回ぐらいやぞ。多分。それってやる意味あるんかよって思えて来るな。まぁ「健康」の観点から見たら意味無いかもしれんけど、それがすべてでもないからな。運動は。そうやな。視野が狭くなってたわ。失敬、失敬。
運動不足を解消するためにパートナーを探している森七菜似の女の子と一緒に出来るんやったら、いくらでも頑張れそうやのに。(小並感)