2023.07.12 水曜日
母から「りゅうちぇるが亡くなったらしいよ」という話を聞いた。僕は「へぇ…。」と、神妙そうに、がしかし、ほとんど存じ上げない人だしな、という、他人事の感もある、なんとも言えない相槌を打った。
それを受けて、母は「27歳ってさ」と付け加えた。僕は「年下か」「(※)年下が逝ったか…。」と、やけに年齢のことを気にしながら、さっきよりは前に身を乗り出す感じで、相槌を打った。
※文字に書くと不適切な表現だなと我ながら感じたが、事実をそのままに書き記したい思いが強いので、口語で言った通りに書いておく。気分を害された人が居れば申し訳ない。
そこで、母と僕の会話は途切れた。
いや、厳密に言えば、その後も続いたのだけど、四方山話みたいなものだったから、敢えてココで書くこともないだろう、という、判断を下したまでだ。つまるところ、本題に逸れちゃうし触れる必要もないよね、というわけだ。
そう。
りゅうちぇる、享年27歳。
僕はココに強い衝撃を覚えた。
”年下が、逝った”
ちなみに僕は28歳だ。今年誕生日を迎えたら29歳になる。これぐらいの年齢になると誰しもそうかもしれないが「三十路」という言葉が脳裏にチラついて仕方がない。今この瞬間も、そんな日々を過ごしている。たぶん、僕の誕生日が8月2日なのも影響しているのだろう。日にちに換算すると、だいたい、あと20日ぐらいといったところだ。
ゆえに、年齢に関するアンテナが、いつもと比べると、結構強めに張り巡らされていた、といったのも関係していたのかもしれない。享年27歳。詳しくは存じ上げずとも、名前と顔は一致するぐらいの有名な方が、この世を去った。その事実に、死を知った直後では「他人事」の感も否めなかったのが、一気に「自分事」として押し寄せて来た。そんな感覚に襲われたのだ。
その後、普段はあまりやらないのだけど、死去に関するニュースを、簡単に見たりもした。それらの情報によると、死因は「自殺が有力と見られる」といった旨が記されているメディアが多かったように思われる。
”自殺”
「27歳」と「自殺」の、2つのキーワードを頭の中で並べたら、「太宰治」と「芥川龍之介」の肖像画が頭に浮かんで来た。
あらかじめ断っておくが、僕は、いわゆる「文学青年」というわけではない。敢えて形容するならば「太宰治の作品が好きな人」といった具合だ。太宰治への興味関心から発展して、敬愛していたと言われる芥川龍之介の作品に触れてみたり、師と仰いだ井伏鱒二の作品に触れてみたり、その他にも、ちょこちょことツマミ食いをしてみた。そんな、享楽に過ぎない趣味、程度のものなので、ここで、自らの知識をひけらかすことを、僕は良しとしていない。
それを踏まえた上で「太宰治が自殺を図るも未遂に終わったのも、確か、28歳ぐらいだったっけかな」などと、ボンヤリ考えていた。僕の記憶が正しければ『姥捨』という作品で、自殺を図るいきさつ、自殺未遂に終わるまでの一部始終を、詳しく書き記されていたはずだ。
りゅうちぇるの死去に関するニュース記事を開きつつも、『姥捨』の内容を思い返しながら、僕は「生き急ぐっていうのは、こういう人を指しているのかもな…。」などと、考えていた。
”生き急ぐ”
僕の経験則から言うと「コイツいくらなんでも頑張りすぎじゃね?」とか「もうちょっと肩の力抜いたほうが幸せ感じられるっしょ?」などと、周囲の人に思われそうな頑張り屋さんの人に対して「おいおい、あんまり生き急ぐなよ~w」と、笑いが入り混じったツッコミを入れる光景を、何度か見た覚えがある。そして、そんな状況を眺めながら、僕は、余計なお世話でしかないよな、と、心の中で呟くのだ。
「生き急ぐとは具体的にどんな行為を指すのだろうか?」
これは、現代の言葉でいうと「情報発信」とか「アウトプット」といった類になるんじゃなかろうか、と思われる。もっと今風の表現で言い換えるならば「ありのまま」とか「自分らしさ」といったものを、前面に押し出しながら生きている人を、周りの人は「生き急いでいる人」と見なす傾向があるのではないかと、僕は勝手に推測してみた。
そして「生まれた時代とか自分の身の回りの環境がマッチしていなかったのが訃報に繋がったのかな…。」などと、仮説を立てる流れに移行し始めたところで、僕は、考える行為をサッとやめて、りゅうちぇるのネット記事も、太宰治の生い立ちを記したWikipediaも、一切合切閉じて、スマホを「ドサッ」と、ベッドに投げ捨ててしまった。
だってそうだろう。こんなの「詮索」以外の何物でもないじゃないか。僕は嫌いなんだ。あることないこと、根掘り葉掘り、吹聴してまわる人間のことが。そんなヤツに自分自身がなろうとしているじゃないか、と気付いた瞬間、僕はハッとして、他のことに意識を向けることに注力した。
だから、僕の思索はここまでだ。中途半端な内容で申し訳ないが、真相は誰にだって分からないのだから、ある意味、必然だとも言えるだろう、と僕は思っている。
死人は口無し。亡くなってしまうと「死の真相は〇〇〇〇だった!?」などとマスコミが騒ぎ立てて、憶測に過ぎないような情報に、大量の人間が振り回される。そんな現代社会に、僕は辟易としているのだ。
だから、事実だけを抽出して、僕は、物思いに耽りたい。享年27歳。僕より年下の人間が亡くなったという事実を噛み締めて。今この瞬間を生きて行きたい。今日は、そんなことを強く考えた一日だったなと思う。
”今この瞬間を生きる”
ともすれば「聞き飽きた・見飽きた」と言っても差し支えないであろうこの表現を、改めて自分の中から取り出したことによって、ASIAN KUNG-FU GENERATION『今を生きて』を久々に聴きたいな、と思えたことに感謝したい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?