【夢日記】<上>ひょんなことから中学校のクラスメイトと付き合うことになったノロケ話
「まさかFと俺が付き合うことになるとはね~」
僕は、地元メンバーが集まって居る飲み会で、新たにお付き合いすることとなったFとの、馴れ初め話、否、それにかこつけたノロケトークを披露して、周りの友人達を、時には「そんなことがあるのか~!」と驚かせ、時には「ニヤニヤしてんなよ!」とツッコまれ、まぁ、総じて言えば、「酒の肴」として、酒席に興を添えるには、申し分ない”ネタ”にはなっていたと思う。おそらくは。
Fとは、中学校のクラスメイトという関係性ではあったが、その当時は、特に、プライベートなやり取りをした記憶も無いぐらい、接点を持たなかった人物だった。
しかし、ひょんなことから、僕とFが再び交流を持つキッカケが生まれると、僕は、中学生の頃には抱いていなかったと思われる、”恋情”、のようなものが湧き立って来て、善は急げとばかりに猛アタックを仕掛けたところ、彼女もまた、まんざらでもなかったのか、”来るもの拒まず”、の精神にのっとった対応で、スンナリと、交際に発展することが出来たのだった。
【謝罪】
「夢日記」と銘打ちながら「夢を見て色々と思いを巡らす筆者の一人語り」を楽しんでいたら、あっという間に2500字に到達してしまった。夢の話なんてほとんどしていない。さわりの部分しか語っていないじゃないか。我ながら「お前はどんだけ自分の話がしたいんだよ!」と呆れてしまった。まぁ、それもまた、いつものことなのだけれども。
とはいえ、今回のメインテーマになるはずであった「僕はFのどこに恋心を抱いたのか?」について語るには、ちょっと文字数オーバー(1記事3000~4000文字を一つの目安にしている。とはいえ、結果的に5000文字を超えるぐらいになってしまうことも、しばしばあるのだが)が気になるところなので、「上」と銘打って投稿し、明日、「下」と銘打って本題に入ろうと思う。
その方が、心置きなくライティング作業に集中出来そうだと思っての措置なのだが、そうなったらなったで、僕の悪癖である「脱線トーク」に、また火が付くかもしれないが、それは、明日のお楽しみ、というわけで・・・。
~「下」へ続く~
【ポエム】
”「お前はどんだけ自分の話がしたいんだよ!」”
僕は、日常生活を送る上で「会話のキャッチボール」を重んじている。つまり、会話とは、「ボールを投げる(話す)→ ボールを捕る(聞く)」の工程をキチンと踏むことが大切だと心掛けているわけだ。
こうやって文字に起こすと「そんなの当たり前のことだろう?」と思われるかもしれないが、一度、喫茶店や飲食店などに出向いた際に、周りの客の会話を、盗み聞きしなくても良いので、ボンヤリと、耳を傾けてみて欲しい。
すると、自分が話してばかりで相手に話す猶予を与えていない会話、だとか、自分も話しているけれど相手も話していて、もはや「会話のドッジボール」のような状態になっている会話、の多さに気付いてビックリするはずだ。
そう。「キャッチボールとは何か?」を知っているのにもかかわらず、「会話のキャッチボールとは何か?」もまた知っているのにもかかわらず、「話す → 聞く → 話す → 聞く」の手順をキチンと踏んだ会話を実践出来ている人は、驚くぐらいに少ないのだ。
これは「元来、人は『聞きたい』よりも『話したい』生き物である」という原理原則に従って行動している人が多い証左でもあるため、そういう意味では、言ってしまえば普通、なのだけれども、それを、”みんなやってるんだから私もやってしまえ”、というのは、”赤信号みんなで渡れば怖くない”、と、ほぼ同じのように僕には思えて来るのだ。
「赤信号を渡れば罰せられるが会話のキャッチボールに従わずとも罰せられることは無いじゃないか」と言われれば、そうかもしれない。だけど、ホントにそれで終わらせて良いのだろうか?
”長い物には巻かれろ”、で終わらせることを、僕は良しとしていない。むしろ、自身が抱いた「モヤモヤ」を、僕は汲み取ってあげたい。「世間」よりも「自分」なのだ。こういう表現は大袈裟かもしれないけれど、極論、自分を守れるのは自分だけなのだ。それを、”臭い物に蓋をせよ”、とばかりに、モヤモヤを閉じ込めていては、自分を守るどころか、自分を痛めつけているのに他ならないじゃないか。
そして、臭い物に蓋をしたからといって、そのモヤモヤが、消えて無くなるわけではない。むしろ、もっと肥大化してしまうのがオチだ。そう。抑圧された感情は無くならない。本来、感情とは、発散されて然るべきなのだ。「喜怒哀楽」のうち「怒と哀はネガティブな感情だから感じないようにしましょう」ではダメなのだ。「怒・哀」を感じるからこそ「喜・楽」を感じられるのだ。
”毎日が楽しいなんて毎日が楽しくないのと同じ”
UVERworldのTAKUYA∞は「アイツ」の一言にドキッとして忘れられない体験をしたことがあると『ハルジオン』で歌っている。それを聴いていた中高生の僕もまたドキッとして、今もなお、忘れられないでいる。
”「で、結局、アナタは、何が言いたいの・・・?」”
「日頃、会話のキャッチボールを重んじる性質に加えて『人は話したい生き物である』という原理原則もあることから、人と居る時は『話し手』よりも『聞き手』に回るケースが圧倒的に多い僕は、一人で居る方が、よっぽど饒舌に話す(書く)というタチであって、今回はソレがものの見事に出た」
・・・という話をしたいだけだったのだが、今日はなんだか、上手く、まとまらない。話ばかりが、長くなってしまった。
”「言いたいことを端的に述べれば済むことだろう?」”
その問い掛けに対しては、太宰治『葉』の引用文をもって回答し、今日はもう、打ち切りにしたいと思う。
※「下」