見出し画像

【夢日記】<上>ひょんなことから中学校のクラスメイトと付き合うことになったノロケ話

「まさかFと俺が付き合うことになるとはね~」

僕は、地元メンバーが集まって居る飲み会で、新たにお付き合いすることとなったFとの、馴れ初め話、否、それにかこつけたノロケトークを披露して、周りの友人達を、時には「そんなことがあるのか~!」と驚かせ、時には「ニヤニヤしてんなよ!」とツッコまれ、まぁ、総じて言えば、「酒の肴」として、酒席に興を添えるには、申し分ない”ネタ”にはなっていたと思う。おそらくは。

Fは、少なくとも、この夢日記を書きしたためて以降は、僕の夢の世界に初めて出て来た女性だ。記憶する限りでは、書きしたためる以前を含めても、夢に出て来た覚えは無い。

つまり、夢を見た後に「そういえばそんな人も居たなぁ~」と、子どもの頃を懐かしみ、しみじみとした気持ちになるパターンを指す。これって、思い出そうとしても、思い出すのに足る材料が無いから、ホントに、夢を見てはじめて、って感じなんだよね。

率直な疑問としては「なんでアナタが出て来たの?」と考えたくなることもあるのだけれど、どうせ考えても明確な回答が得られるわけでもないので、もうシンプルに「懐かしいー!久し振りー!出演ありがとうー!」と思うことにしている。その方が平和で良い。気分も良い。

注釈

ちなみに、今回のケースも含め、夢を見て、ウン年振りに、その存在を思い出すと、”思い出補正”、とでも言うべきか、「懐古の念」から「恋慕の念」に発展しそうな感覚にとらわれたりもする。

相手からすれば「そんなの知ったこっちゃねえよ!」と思われるだろうが、僕の中では、夢に出て来たことで、目には見えない「好感度メーター」みたいなものが上昇したケースは、チラホラとある。

その中でも、とりわけ印象深いのが、Aという女性なのだが、彼女は、僕の恋慕ゲージが高まり過ぎてしまったのか、あろうことか、彼女のフルネームでグーグル検索にかけてしまったところ、とある会社のホームページに辿り着いて、「あ~、今、ココで、こんな仕事してるんだ・・・。」と、知ってしまったことさえも、ある。

・・・いや、違う。念のため、声明しておくが、僕は、その彼女の仕事場まで行くことまでは、しなかった。さすがに、それは無い。そこまで行くとストーカー認定を受けてしまう。それに関するモラルは人並みに有しているつもりだ。他人に迷惑が被るマネはしたくない。密かに自分の中で楽しむだけである。

・・・とはいえ、ストーカーまがいの行為と言われれば、確かにその通りです、と言わざるを得ないし、その視点で、これまでの自分の言動を振り返ってみると、”ストーカー気質アリ”、の烙印を押すのに足る人物では、あるのかも、しれない・・・。

余談

Fとは、中学校のクラスメイトという関係性ではあったが、その当時は、特に、プライベートなやり取りをした記憶も無いぐらい、接点を持たなかった人物だった。

しかし、ひょんなことから、僕とFが再び交流を持つキッカケが生まれると、僕は、中学生の頃には抱いていなかったと思われる、”恋情”、のようなものが湧き立って来て、善は急げとばかりに猛アタックを仕掛けたところ、彼女もまた、まんざらでもなかったのか、”来るもの拒まず”、の精神にのっとった対応で、スンナリと、交際に発展することが出来たのだった。

「ひょんなことから」と表記したが、夢の世界では、その部分が細かく描写されることは無かった。

おそらく、ホントにたまたま、現実世界で「お客様-スタッフ」の関係性で再会したのかもしれないし、あるいはネット世界で「SNS発信-いいね」の関係性で再会したのかもしれない。僕自身も良く分からないが、大体、そういうイメージで問題無いと思われる。

ちなみに、僕の恋愛遍歴を辿れば、ネット世界で知り合って交際に発展したケースは、大きいものだけでも、2つある。

1つ目はデコログ。僕と同世代(筆者は1994年生まれ)の人であれば知っているかもしれない。分かりやすく言い換えるならば「若者向きの趣味ブログ」といったところだろうか。そこで、僕のブログ記事に「Yonda!」ボタン(今で言う「いいね」みたいなもの。「あしあと」とも言えるかな?)を押してくれて、お互いのブログ記事を読み合う仲となり、彼氏彼女の関係となった。

2つ目はTwitter。これはもはや説明不要のSNSアプリ。今はXという名前が徐々に定着し始めたが、まだTwitterだった頃に、僕のツイートにリプライを送って来て、程なくして、ダイレクトメッセージに切り替わり、LINEアカウントも交換し合って、彼氏彼女の関係となった。

注釈

「大きいものだけでも」と書いたのには理由がある。先ほどの二つの具体例は「彼氏彼女の関係にまで発展したケース」のみを指しており、そこまで深い関係に発展しなかったがそれを予感させるケースも踏まえると、もっと増えて来るわけだ。

ココでは詳細を述べることは割愛するが、それだけ、”出会おうと思えば出会える”、のが現代社会の特徴とも言えるだろう。改めて、情報社会の力を思い知らされる。

なお、僕は、いわゆる「マッチングアプリ」と呼ばれる類いのものは、一切、使用したことが無い。理由としては「何が何でも出会いたい!」というわけでも無いから、になってくるのだけれど、それでも、前述したデコログやTwitterなどを通じて、交流を持つキッカケになっているわけだ。この「繋がり力」には、恐ろしさすら感じる。

ただ、見方を変えれば、”出会い目的”、でSNSを利用していないからこそ、”一生懸命感”、が相手に伝わらず、結果的に、相手から見た僕への評価が高まったりしているのも、もしかすると、あるのかもしれない。

「自宅と会社の往復で全く出会いが無いから婚活に精を出しているけれど、なかなか運命の人に巡り合えなくて・・・。」

という愚痴話を聞かされると、不意に、そんなことが頭によぎる瞬間もあるのだけれど、”泣きっ面に蜂”、にするのも忍びないので、「そっかぁ・・・。」と、神妙そうな面持ちで相槌を打つのに終始する、今日この頃であった。

余談

【謝罪】

「夢日記」と銘打ちながら「夢を見て色々と思いを巡らす筆者の一人語り」を楽しんでいたら、あっという間に2500字に到達してしまった。夢の話なんてほとんどしていない。さわりの部分しか語っていないじゃないか。我ながら「お前はどんだけ自分の話がしたいんだよ!」と呆れてしまった。まぁ、それもまた、いつものことなのだけれども。

とはいえ、今回のメインテーマになるはずであった「僕はFのどこに恋心を抱いたのか?」について語るには、ちょっと文字数オーバー(1記事3000~4000文字を一つの目安にしている。とはいえ、結果的に5000文字を超えるぐらいになってしまうことも、しばしばあるのだが)が気になるところなので、「上」と銘打って投稿し、明日、「下」と銘打って本題に入ろうと思う。

その方が、心置きなくライティング作業に集中出来そうだと思っての措置なのだが、そうなったらなったで、僕の悪癖である「脱線トーク」に、また火が付くかもしれないが、それは、明日のお楽しみ、というわけで・・・。

~「下」へ続く~


【ポエム】

”「お前はどんだけ自分の話がしたいんだよ!」”

僕は、日常生活を送る上で「会話のキャッチボール」を重んじている。つまり、会話とは、「ボールを投げる(話す)→ ボールを捕る(聞く)」の工程をキチンと踏むことが大切だと心掛けているわけだ。

こうやって文字に起こすと「そんなの当たり前のことだろう?」と思われるかもしれないが、一度、喫茶店や飲食店などに出向いた際に、周りの客の会話を、盗み聞きしなくても良いので、ボンヤリと、耳を傾けてみて欲しい。

すると、自分が話してばかりで相手に話す猶予を与えていない会話、だとか、自分も話しているけれど相手も話していて、もはや「会話のドッジボール」のような状態になっている会話、の多さに気付いてビックリするはずだ。

そう。「キャッチボールとは何か?」を知っているのにもかかわらず、「会話のキャッチボールとは何か?」もまた知っているのにもかかわらず、「話す → 聞く → 話す → 聞く」の手順をキチンと踏んだ会話を実践出来ている人は、驚くぐらいに少ないのだ。

これは「元来、人は『聞きたい』よりも『話したい』生き物である」という原理原則に従って行動している人が多い証左でもあるため、そういう意味では、言ってしまえば普通、なのだけれども、それを、”みんなやってるんだから私もやってしまえ”、というのは、”赤信号みんなで渡れば怖くない”、と、ほぼ同じのように僕には思えて来るのだ。

「赤信号を渡れば罰せられるが会話のキャッチボールに従わずとも罰せられることは無いじゃないか」と言われれば、そうかもしれない。だけど、ホントにそれで終わらせて良いのだろうか?

”長い物には巻かれろ”、で終わらせることを、僕は良しとしていない。むしろ、自身が抱いた「モヤモヤ」を、僕は汲み取ってあげたい。「世間」よりも「自分」なのだ。こういう表現は大袈裟かもしれないけれど、極論、自分を守れるのは自分だけなのだ。それを、”臭い物に蓋をせよ”、とばかりに、モヤモヤを閉じ込めていては、自分を守るどころか、自分を痛めつけているのに他ならないじゃないか。

そして、臭い物に蓋をしたからといって、そのモヤモヤが、消えて無くなるわけではない。むしろ、もっと肥大化してしまうのがオチだ。そう。抑圧された感情は無くならない。本来、感情とは、発散されて然るべきなのだ。「喜怒哀楽」のうち「怒と哀はネガティブな感情だから感じないようにしましょう」ではダメなのだ。「怒・哀」を感じるからこそ「喜・楽」を感じられるのだ。

”毎日が楽しいなんて毎日が楽しくないのと同じ”

UVERworldのTAKUYA∞は「アイツ」の一言にドキッとして忘れられない体験をしたことがあると『ハルジオン』で歌っている。それを聴いていた中高生の僕もまたドキッとして、今もなお、忘れられないでいる。

”「で、結局、アナタは、何が言いたいの・・・?」”

「日頃、会話のキャッチボールを重んじる性質に加えて『人は話したい生き物である』という原理原則もあることから、人と居る時は『話し手』よりも『聞き手』に回るケースが圧倒的に多い僕は、一人で居る方が、よっぽど饒舌に話す(書く)というタチであって、今回はソレがものの見事に出た」

・・・という話をしたいだけだったのだが、今日はなんだか、上手く、まとまらない。話ばかりが、長くなってしまった。

”「言いたいことを端的に述べれば済むことだろう?」”

その問い掛けに対しては、太宰治『葉』の引用文をもって回答し、今日はもう、打ち切りにしたいと思う。

「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」

太宰治『葉』

※「下」

いいなと思ったら応援しよう!